徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

竹下製菓 ミルクック

2020-05-29 21:31:19 | 
出ました!ミルクック!




九州の方ならみんなご存じ。九州外ならご存じなかろう竹下製菓。佐賀の会社で、ブラックモンブランが一番有名です。
僕も子供のころからブラックモンブラン食べてましてね。ほぼブラックモンブラン「しか」食べてなかったといってもいいほどです。
んでもね、大人になった今、ミルクックのほうがおいしいな、って思うようになったのです。これはミルクセーキを凍らせたようなアイスです。
竹下製菓のアイスは、九州一円でしか売られていません(たぶん)。ひょっとしたらアンテナショップで販売されてるかもしれませんので、九州外の方は九州のアンテナショップで探してみてください。おゴリまっせもよろしく!

僕ね、こないだ献血してきたんですよ。緊急事態宣言が出る直前ね、人生初献血でした。
たまたま立ち寄ったショッピングモールで献血やってまして、前から一度くらいはやっときたいなって思ってたのもあり、これからコロナ絡みで血が不足するかもしれないってふと思ったのもあって、やってきたんですね。
なんで今日はその体験記です。「献血興味あるけどどうしたらいいかわかんないし怖いよ~」って人もそうでない人も要注目だ!

まずはいくつかのチェックから。「3日以内に出血を伴う歯科治療を受けた」「4週間以内に海外から帰国(入国)した」「1ヵ月以内にピアスの穴を開けた」「エイズ検査が目的」「6ヵ月以内に(a)不特定の異性または新たな異性と性的接触があった(b)男性同士の性的接触があった(c)麻薬、覚醒剤を使用した」などに該当すると輸血できません。該当しなければ同意書にサインします。
ほんで住所氏名の記入と身分証の提示が必要です。これはたぶん初回のみで、献血カードっての作ってもらったんですけど、次からはこの提示のみで大丈夫なはずです。献血量は200mlと400mlのどちらかなのですが、基本は400だそうで、ほぼ有無を言わさずの感じで400を選択させられました。
あと朝ごはんは食べたかとか、ご飯食べてからどれくらいたってるかとか、今日水分どれだけ摂ったかとか、このあとにスポーツや重労働の予定はあるかとか聞かれます。質問多かったから全部は覚えてません。ご飯まったく食べてなかったり、水分摂ってなかったりすると献血できないようです。
血圧と体温の測定もあります。どちらの腕が採血に適しているかの事前チェックもありました。利き腕のほうが血管が発達してて採りやすいそうです。これらの途中で献血対象者であることの証明のために、IDカード的なものを首にかけられ、手首に血液型とかの情報記載した紙の輪っかをつけられました。
それから血液の検査。あらかじめ血を少量採取して、献血に適しているかどうかを調べるのです。指先に針を刺して血を採るのですが、これがそこそこ痛い。針を刺すのは基本左手中指先端のよこっぱら。針を刺した後に、周囲をぎゅーっと搾って血を出すのです。けっこう荒っぽいですし、このあと献血で刺された腕のところよりも、指のほうが痛みが長く残りました。

んで、血が問題なしと判定されたら献血バスに移動。血を採る前に200mlのパック入り飲料を飲むよう言われます。ミニッツメイドのリンゴと十六茶とカフェオレがありました。
飲んだら歯医者の診察台みたいな椅子に横たわって採血開始。はやい人は数分(5分ぐらいっつってたかな)で終わるけど、長いと十数分かかるそうで、手が冷えてる人は出るのが遅いそうです。前に冷え性の話したとき、血の巡りが少なくなることで手足が冷えるって言いましたよね。それです。特に血の出るスピードが遅かった場合、管のところで血が固まって止まってしまうこともあるそうで、そうなったらその時点で献血終了になるとのこと。
僕はそのとき手が冷えていたので、カイロを握らされました。ほんでそれ以外にも血の巡りよくするために、足をクロスさせて伸ばしたり縮めたりのストレッチを指示されました。
途中で退屈したんで、読書しようと思って、椅子の下の荷物置き場においてあった本に手を伸ばしました。針刺したままでうまく取れなくてまごまごしてたら職員の人が気づいて、慌てて止められました。採血中に動いたら、針が血管から飛び出たり、針が折れてしまったりすることもあって危険なのだそう。知らなかったとはいえ、アホなことしました。
まあまあ時間かかりましたけど、徐々に流れがよくなってきたそうで、無事400到達。終わったらまた水分摂りつつ10分休憩。採血後は立ちくらみとかが起こることもあり、特に男は出血することがあまりないから具合が悪くなりやすいそうです。あと男だけの注意点として、採血直後に排尿すると失神することもあるので、座ってしなけらばならないとのこと。

これといった体調悪化もなかったのでバスを出ると、外でパンフレットや記念品的なものをいただきました。記念品は歯磨き粉とクリアファイル。
そのまま自転車で帰宅しましたが、なんとなく意識がぼやけてる感じがしました。気のせいだったかもしれません。
献血して2時間以上たったら風呂も入っていいとのことで、その日も普通に入浴しました。就寝まで体調悪化はなかったです。
ついでに詳細な血液検査もしてもらえまして、後日「親展」の形で通知が送られてきます。アルブミンとかヘマトクリットとか、よくわからんもののよくわからん数値が記されていますが、異常がある場合はチェックが入っているので、問題のあるなしが一目でわかります。
細かいことまで覚えてないんですけど、だいたいこんな感じでした。職員の人たちは、赤十字っつー職場の気風ゆえか、みんな親しみやすい人たちばかりでしたので、気楽に行っても大丈夫です。
さあ、キミもLet’s献血だ!




パンフレットとともに入ってた注意書き。




「はっぴい・くろす」なる冊子。昭和57年から発刊していたのが、なんと今号で休刊。




福岡県献血推進ガールのAKB48吉田華恋のクリアファイル。メルカリで売ったらいくらかになるのだろうか。






ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
今は紙パックのリサイクルができなくなってます。近所の複数のスーパーに設置されてたリサイクルボックスがすべて、コロナ感染防止を理由に閉鎖されてましてね。
僕は牛乳飲むんですけど、それが回収に出せずに溜まっていってるのです。リサイクルの停止って、それホントに感染防止になるの?意味があるのかわからん・・・。
なんか感染防止のためにやってることって、けっこうムダが多いような気がする。

前回、人間社会の中で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の関係性の連鎖の網の目の中で生きていくということだ、という話をしました。今日はそれに関する話です。
バイトができなくなったり、親からの仕送りがなくなったりで、生活が困窮している学生が、助けを求める声をあげられずにいる、と聞きました。日本人の、特に若い人の間には、「人に迷惑をかけたくない」という意識が根強くあるようです。どうしてそのように考えるのでしょうか。
それはたしかに美徳ではあります。「できるだけ人様に迷惑をかけてはいけない」。とても正しい考えです。
でも、自分の生活が破綻してでも迷惑をかけるべきではないのでしょうか。迷惑とは、そこまで忌避されなければならないのでしょうか。
「迷惑」ではなく、「助け」と言い換えてみましょう。そして、逆の立場で考えてみましょう。
もし、だれか助けを求めている人が目の前にいたらどうでしょう。あなたは、どうしますか。
「絶対に助けたくない」と思うでしょうか。それとも、「自分にできる範囲なら、なんとかしてあげたい」と思うでしょうか。
ほとんどの人は、後者であるはずです。助けを求めている人を、平気で見捨てることができる人は、そうそういない。
ならば、自分が助けを求めた場合もそうではないでしょうか。自分の周りの人たちも、助けを求められることをさほど嫌がらず、積極的になんとかしてあげたい、と考えるのが普通ではないでしょうか。

「迷惑」という言葉を使うと、語弊が生じがちのようです。「助けを求めること」を「迷惑をかける」と呼んで、できるだけ避けねばならないことと認識している人が大半のようですが、しかし、「人を助けること」は、けっこうな喜びだったりするのです。
また自分の立場に置き換えてみましょう。人を助けること、助けることで感謝され、人のためになったと実感することは、自分自身の大きな喜び、満足につながるのではないでしょうか。よっぽどの変わり者でない限り、これも同意していただけるはずです。
人助けは、喜びなのです。なぜ喜びを感じるのか。おそらくは、人が集団で暮らす生き物だから、助けることを喜びと感じるように、脳内にプログラムされているのでしょう。
そのへんの詳しい理由は僕にはわかりません。いずれにせよ、「助けることは喜びである」という事実を理解していただければそれで充分です。
そうすると、できるだけ人様に迷惑をかけないようにする振る舞いは、本当に正しいのか、という疑問が生じます。
もちろん、積極的には迷惑をかけるべきではないし、迷惑をかけることそれ自体を目的として迷惑をかけるべきではないでしょう。でも、やむを得ない場合ならどうでしょうか。本当にあなたが困っているのなら、あなたの周りにいる誰かは、あなたのことを助けてあげたいと考えるのではないでしょうか。そして、あなたを助けることに、喜びを見出すのではないでしょうか。

僕は、迷惑はかけてはいけないものだとは思いません。僕がよくないと思うのは、人に助けてもらいながらその恩を忘れたり、自分が助けを求められる側になったときに救いの手を差し伸べなかったり、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きているという事実に背を向けた生き方をすることです。
迷惑は、かけてもいい。その恩を忘れなければいい。そしてその恩を、助けてくれた相手や、助けを求めているほかの誰かに返す。
「助けを求めているほかの誰か」とは、その時点ではなんの貸し借りもないのだから、恩を返すというのはおかしい、と思われるでしょうか。でも、何度も言ってるように、人はみな「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きています。貸し借りのない相手にも「恩を返す」というのは、「その網の目の中に私たちはいるのだ」という事実を確認するということです。
あなたに助けてもらった人は、言葉にしなくても気づくでしょう。「この人も誰かに助けられてきたのだ。だから私を助けてくれたのだ。ならば私も、誰かを助ける人にならねばならない」。
それが「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中で生きるということです。繰り返しになりますが、「迷惑」ではなく、「助け」という言葉のほうがいいでしょうね。
芸能の世界では、それは常識とされています。貧乏な若手は、お金のある先輩に食事をおごってもらう。おごってもらった後輩は、自分が売れたとき、お世話になった先輩ではなく、まだ売れてない自分の後輩をおごることで「恩を返す」。
恩とは、そうやって先輩から後輩へと送り継がれるものなのです。恩を、送ってくれた本人にではなく、後進に送り返す。そんな「恩をうしろに返す」流れによって、芸能の世界は支えられています。
それは、「先祖から子孫へ」という流れにも当てはめられます。我々はみな、先祖が作り上げてくれた繁栄のもとに生まれ、それを享受しながら生きていく。そして、受け継いだものをできるだけ残し、できるだけ自分も何か付け足して、子孫に送る。先人から受け継ぎ、後進へと返す。それが人としての「種の営み」のはずです。
人はみな、「助けたり、助けられたり」の網の目の中で生きている。
だから、助けを求めていいのです。そのぶんあなたも助ける人になりましょう。助けられた恩を忘れないようにしましょう。

それに、「助けたり、助けられたり」には、喜びだけでなく、他の利点もあるのです。
助けを求めない場合、人はひとりで問題を解決しなくてはならない。助けを求めた場合は、ふたりか、それ以上の人数で問題に臨める。
人は、ひとりよりも、ふたり以上のほうが、力を発揮することができます。1+1=2ということではありません。人が力を合わせるということは、単純な足し算ではなく、1+1が3にも4にも、それ以上にもなるということです。人が力を合わせると、思いもよらない力を生み出す。ひとりずつでは到底なしえないことや、ひとりずつでは出てこない発想が可能になったりする。
それが「助ける」こと、「力を合わせる」ことのもうひとつの利点なのです。助け合うこと、力を合わせることで、1+1=2以上の出力を生み出すことができる。だから、助け合うことは、すごく効率がいいし、創発的なのです。
それは、頭脳面においては「3人寄れば文殊の知恵」ということわざで言い表されていますし、身体面においては、「共‐身体」という哲学用語で表現されています。
ことわざのほうは言わずもがなでしょうから、「共‐身体」のほうだけ説明します。「共‐身体」とは、複数の身体の結合によって仮構的に顕現する複素的身体のことです。お神輿を担いでる人たちや、音楽バンドなんかを思い浮かべればわかりやすいでしょう。
これらの人々は、声を掛け合わなくても動きが同期します。2人以上の人たちが、まるでひとつの頭脳につながっているように「呼吸」が合う。複数の身体がキメラのように競合して動く共動体、それが「共‐身体」です。「助け合う」こと、「身体を結合する」ことで、人間の動力の可能性を拡張しているのが「共‐身体」なのです。
人間は頭脳においても、身体においても、共動することによって飛躍的にパフォーマンスを向上させることができるのです。
なので「迷惑をかける」ではなく、「助け合うことで人の可能性を拡大する」というふうに、ポジティブに言い換えてみてはどうでしょうか。

なんか今回はコロナ絡みというより人生訓みたいになっちゃいましたね。まあこれはこれでアリということで。

サントリー BOSS(ボス) プレミアム・微糖

2020-05-22 21:54:40 | 
矢沢永吉はBOSSのCM出演を機に周囲から「ボス」と呼ばれるようになった・・・というのはどうでもいい話だが、男は黙ってボスプレミアムだ。






本日は第8回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのは岡崎京子の『ジオラマボーイ パノラマガール』(全1巻・マガジンハウス)です。
岡崎さんも有名だから説明する必要はないでしょう。本作は初期のころの、ごくポップな作品です。いちおうラブコメなのですが、話がちょいちょい脱線するので本筋がわかんなくなりがちです。でも実はそこが面白さのポイントで、「ウキウキ」とか「ワクワク」といった気分が作中に充満してます。
んでね、詳しくは読んでもらえばそれでいいとして、僕は岡崎さんにかんして言いたいことがあるんですよ。それは、『リバーズ・エッジ』の評価のことです。
『リバーズ・エッジ』って、一般的にはすごく高く評価されてるじゃないですか。僕はそれが不思議でしょうがないんですよ。というのも、僕の評価は世間とは真逆だからです。はっきり言って僕は、『リバーズ・エッジ』は大駄作だと思ってるんですよね。
『リバーズ・エッジ』には、過激な要素がこれでもかと出てきます。いじめ、ゲイ、レズ、売春、ドラッグ、芸能人の同級生、愛のないセックス、暴力、死体、死・・・。これらの要素は、いずれも上っ面を軽く描写されるだけで、深く掘り下げられないまま話は終わります。僕にはこれは、視聴率を取りたいがために、刺激的な要素を詰め込めるだけ詰め込んだ、なんのメッセージ性もないテレビドラマ(ひと昔前はよくそういうのがありましたよね)のように見えるのです。
だから疑問なのです。「僕の評価が間違っているのか?」と。僕は上に述べた理由から『リバーズ・エッジ』は駄作だと考えている。でも、世間の圧倒的多数は傑作だと言ってる。このズレがモヤモヤするんですよね。
しかも、傑作と評してる人の意見を聞いても、「文学的」だとか「深みがある」とかいう漠然とした評ばかりで、いまいちピンとこないんですよ。
僕はポップな岡崎さんが好きなんです。『ジオラマボーイ~』のほかにも『pink』とか『セカンドバージン』とか『ハッピィ・ハウス』とか大好きなんです。
でもシリアスな岡崎さんはあんまりなんですよ。『チワワちゃん』や『私は貴兄のオモチャなの』までなら受け付けるんですけど、『リバーズ・エッジ』とか、『ヘルタースケルター』なんかは全然ダメ。
なんかね、僕思うんですけど、岡崎さんって交通事故に遭ってマンガ描けなくなっちゃったっていう悲劇のせいで、過剰に神格化されてませんかね?いや、これ僕の思い過ごしだったら申し訳ないんですけど、でも作品の実際の価値以上に持ち上げられてる感じがどうしてもするんですよね。
誰か納得のいく説明をください!『リバーズ・エッジ』はなぜ傑作なの?


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
先週緊急事態宣言が解除されたのを受けて、行きつけの図書館の臨時休館が終わりました。んで約3か月ぶりに行ってきたんですけどね。
でも、マスク着用じゃないと入館お断りというルールができましてね。ウチにはまだアベノマスクも届いておらず、近所の薬局でもマスクの品切れ続いてまして、マスク持ってる人しか図書館利用できんのか?図書館にはマスクの用意がないのか?と思って、確認電話かけたところ、「マスクを持ってない人には自分でマスクを手作りしてもらう」とのこと。
僕ね、手作りっていうから、てっきりマスク製造キットみたいなもんがあるのかと思ったんですよ。したらですよ、ペーパータオルってあるでしょ、公衆トイレの洗面所に備え付けてあるやつ。あれを2つ折りにして、折り曲げた部分に梱包用のビニール紐を通して後頭部でくくりつけて、それを「簡易マスク」としていたんです。見た目ふんどしの前部分が顔についてるような感じです。上は紐を通してるから割としっかりしてますけど、下はヒラヒラしてるのです。なかなか間抜けでしたよ。

前前前世・・・じゃなくて前々回に、疫学的にはある程度積極的に伝染病に感染して抗体作るのが終息の近道と言える、という話をしました。
スウェーデンでは、ステイホームの呼びかけも、お店への自粛要請もなく、以前とほとんど変わらない生活を続けているそうですね。これ、日本とスウェーデンのどちらがいいか、という話ではありません。どちらのほうがいいのかは、一律には言えない。
スウェーデンって個人主義が強い国で、日本のように「一丸になる」ことがありません。そのため他人にはけっこう冷たく、スウェーデン人同士であっても、親身になる、ということが期待できません(あくまで傾向の話ですよ)。
「ひとつになる」ことが大好きな日本人にとっては、暮らしにくい国と言えるでしょう。そして、感染するままに任せているから、死亡者数もかなり多いはずです。しかしその代わり、これまでの日常が変更されることなく、経済活動もほとんど落ち込まずで、間接的な「コロナ禍」のダメージを被らずにすんでいるのです。
国民性というものを考えると、日本ではスウェーデンのような対応は採れませんね。それに、現状の日本でこれ以上医療現場には負担をかけられないから、感染するに任せるわけにはいかないでしょう。しかし、「感染症を抑え込む」という点においては、ひとつのいい見本といえますし、日本のコロナ対策を相対化してくれる。
潔癖なまでの感染症対策はある意味「病的」だし、不合理で、場合によってはむしろ悪影響となりかねない。もはや「コロナ以前」の世界は戻ってこず、コロナと共存するほかない以上、「コロナに感染する弊害」だけでなく、「コロナを過剰に避けることの弊害」も考えて、うまくバランスとって暮らしていかなくてはならないでしょう。

「感染リスク」といったときに、「ある」か「ない」か、もしくは「1」か「0」かで考える人もいるんじゃないでしょうか。しかし、リスクとは明確にあるなしで二分できるものではないのです。
「生きている」ということは、少なからず、常になんらかのリスクに晒されている、ということです。自宅でくつろいでいたら、家に放火されて焼死してしまうかもしれない。いつもの通り道をいつものように歩いていたら、通り魔に刺されて死んでしまうかもしれない。確率的には0,1パーセント未満の、ほとんどありえないことでしょうが、ゼロではない。
感染症(コロナ)もそうです。感染確率をゼロにすることはできません。感染確率は、高いか低いかという状態の差があるだけで、ゼロにはできない。
リスクをゼロにする方法はただひとつ、「死ぬ」ことだけです。死ねば感染することはありませんからね。
くだらない屁理屈言うなって思いました?でも真理でしょ。
生きてる以上感染リスクは常に付きまとう、という事実に思い至らない人が、県外ナンバーの車を傷つけたり、医療関係者を排除したりするのではないでしょうか。これらのコロナにまつわるイザコザは、「差別」と言われてますけど、差別というよりも、感染症というものに対する理解の浅さからくる誤りだと僕は思うんですよね。
感染リスクを「ある」か「ない」か、もしくは「1」か「0」かで考えているから、感染源(に見える人)を遠ざければそれでいいと考えてしまうのではないでしょうか。
でも、感染源(に見える人)を遠ざけても、リスクはゼロにはなりません。ウイルスという、人間の目に見えない存在は、どこに潜んでいるかわからない。どんなに感染対策に気を配っていようと、運悪く罹患してしまうかもしれない。
感染リスクは「高い/低い」があるだけで、ゼロにはならないから、そういうことが起こりえます。感染を避ける取り組みは、確率を極限まで下げることはできても、ゼロにはできない。この事実をよくよく考えると、感染を避ける取り組みのアレコレに、どれほどの必然性があるのか、学業や仕事や経済活動と比較考量した場合に、どれほど重きを置くべきなのか、という疑問がわくはずです。
もちろん「これが唯一の正解」というものはありません。「どの選択を正しいと信じて選ぶか」であって、あらかじめ正解があるわけではない。
ただ、感染リスクについて正しい理解ができていないと、選択肢を提示して比較衡量するという、当然行ってしかるべきことがあらかじめ放棄されてしまいます。それは、日本の将来の可能性を狭めてしまうことになります。それはあってはならない。
だから、せめて感染リスクについて正しく理解しましょう、そこから話を始めましょう、と申し上げているのです。

県外ナンバーの車を傷つけたり、医療関係者を排除したりしている人たちや、自粛警察の人たちは、「絶対に他人からコロナをうつされたくない」と考えているのでしょうか。しかし、人間社会というのは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中にあります。人間社会に生れ落ちるということ、人間社会の中で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」の網の目の中にいるということです。
社会の中で生きていく以上、だれしも人様に迷惑をかけることもあるし、かけられることもある。それを拒絶しては、生きていくことができません。この社会で生きていくということは、「迷惑をかけたり、かけられたり」を受け入れるということです。それが嫌ならば、リスクをゼロにする方法と同じように、「死ぬ」しかありません。
もちろん積極的に迷惑をかけるべきではないのと同じように、できるだけ他人にコロナをうつさない心がけはすべきでしょう。でも、人間社会の網の目の中では、迷惑をかけられることも、感染リスクも、ゼロにできない。「どうしてもイヤなら社会を離脱しろよ」ということになってしまいます。

コロナによるストレスで、鬱になったり希死念慮が生じている人がいると聞きました。しかし、「ひょっとしたらコロナに感染するかもしれない」と日々怯えて暮らすのは、「ひょっとしたら(病気や事故で)死ぬかもしれない」と考えながら一生を過ごすようなものです。
人は生きている以上、常になんらかのリスクに晒されています。コロナに限らず、ほかの病気や事故で命を落とすかもしれない。逆に言えば、新型コロナが発生する以前から、常に病気や事故のリスクはあって、コロナはそれら大勢の様々なリスクに、新たに付け加わったひとつのリスクにすぎない、ということです。
コロナ以前は、病気や事故のリスクなど、まず起こりえない、起きるときは起きるのだから、起きないうちから考えていても仕方ない、というふうに割り切っていたはずです。だったら、コロナも同じように割り切るべきではないでしょうか。
僕はコロナが流行の兆しを見せたときも、「感染したら、そのときはそのときだべ」と思いました。感染してもいないのに、感染したときのことを考えてクヨクヨしたり、余計なストレスをためるようなことはしませんでした。
「感染するかもしれない」と考えようが考えまいが、感染するときは感染する。感染してもいないのに、感染した場合のことで思い悩むのは、ありもしない悩みを自分ででっち上げているのと同じです。人間どうせ、死ぬときは死ぬ。生きてる以上、リスクはゼロにできない。
だったら、感染は「まず起きないもの」と割り切って、これまでと変わらない日常を送るのがベストなのではないでしょうか。もちろん感染防止の取り組みはできるだけ行うべきでしょうし、感染した場合の対処を冷静にシミュレーションしておくのもいいでしょう。でも、ストレスになるほど気にするべきではない。
「コロナとの戦い」とは、「コロナを相手にしすぎない」ということでもあるはずです。

無印良品 ごぼうスナック

2020-05-15 23:05:18 | 
シンプルイズベスト!末永く愛されるであろう無印のごぼうスナックです。




本日は第7回私が好きなマンガの話。今回取り上げるのは松本大洋の『花男』(小学館・全3巻)です。
この『花男』というタイトルですけど、エレファントカシマシの曲名からきてるんですよね。ファンなのでしょう。その縁あって、エレカシのカバーアルバムのジャケットイラストに『花男』が使われています。ついでに言うと、新井英樹さんもエレカシのファンみたいで、『宮本から君へ』の主人公は宮本浩次から造形されています。
ただ、エレカシは大まかに言って「悲しみの果て/以前」と「以降」にわかれるんですけど、松本さんは「以前」のファンだと思います。「悲しみの果て」でブレイクしたエレカシ。この曲を機に、広く大衆に膾炙する、ポップなミュージシャンに転向したわけですが、それ以前はすごく尖ってたんですよね。
「花男」はファーストアルバムに収録されてるんですけど、その初期のころの、「尖ったエレカシ」を松本さんは(たぶん新井さんも)愛してたんじゃないかと思うんですね。
僕も「悲しみの果て/以前」のエレカシが好きでねぇ・・・。「デーデ」や「奴隷天国」みたいなパンクな曲なんかたまらないし、「浮雲男」や「上野の山」のような演歌調の曲も好きだし、「冬の夜」や「何も無き一夜」みたいな静謐な曲もいいし、「遁世」みたいな暗すぎる曲も沁みるし・・・。
え、マンガの話?
トランキーロ!あっせんなよ!

松本大洋さんはまあ有名ですよね。この『花男』は、「これぞマンガ!」っていう作品です。
僕はごくまれに「これぞマンガ!」と感じることがあります。その感覚はどこから来るのか。非現実的なキャラクターや世界設定、エログロナンセンスなどのキャッチ―な要素、目まぐるしいストーリー展開といった「過剰な要素」を極力削ぎ落し、シンプルな設定とストーリーだけで充分「魅せる」内容に作り上げている作品・・・。
そういう作品から、マンガの原初的な面白さが漂ってくるんですね。それが「これぞマンガ!」というマンガのことです。
で、この『花男』が、「これぞマンガ!」と感じられる数少ないマンガのひとつなのですよ。いい歳こいてプロ野球選手を目指している天然親父と、そんな父に反発しているニヒリストの息子の物語。マンガの原初的な面白さと、松本さん独自の、のびやかで個性的な画風がすごくマッチしてて、奇跡的な仕上がりになっています。
こういう作品を1本残せただけで、作家としては成功と言っていいんじゃないでしょうか。
僕は『花男』以外では『ピンポン』と短編集の『青い春』が好きですね。『鉄コン筋クリート』はそれほどでもないです。そして『GOGOモンスター』、『ナンバーファイブ』あたりで、「松本さんは僕が好まない方向に行こうとしてるな」って思って、それ以降はフォローしていません。今も描いていらっしゃるんですかね?


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
福岡は昨日緊急事態宣言が解除されました。これで飲食店が通常営業に戻ってくれればありがたいです。

僕は新型コロナにかんしては、一貫して「火消し」を意識してきました。メディアというのは、基本的に「大袈裟」に騒ぎ立てます。騒ぎが大きくなるほうがお金になるからです。そして世間の側にも、騒ぎたい、騒ぎに乗じたい、という願望をかかえた人たちがいます。
「騒がせたいメディア」と「騒ぎたい世間」がスクラムを組み、循環構造を生み出すと、騒ぎはどんどん大きくなっていきます。実際の問題以上に、「騒ぎ」のほうが大きくなってしまう。
さて、新型コロナウイルスは、どれほどのものでしょうか。「騒ぎ」と「実態」の間に、かなりの落差があるのではないでしょうか。
現在までで感染者数は約16000人。死亡者は約700人。
あくまで数字だけ見るなら、それほどの被害は出ていませんね。もちろん日本の抑え込み対策がうまくいったからでもあるでしょうけれども。これぐらいならインフルエンザや旧型の肺炎のほうがよっぽど死者を出してるでしょう。「正しく恐れよ」って言葉が繰り返しつぶやかれてましたけど、それは「恐れすぎるな」とか、「恐れによって、コロナを実態以上に大きく見せるな」ということでもあるはずです。
僕が火消しを心掛けていたのは、騒ぎを実態以上に大きくしたくなかったからであり、意見を相対化するために、あえて世間とは反対の意見を述べる必要がある、と考えたからでもあります。「皆さんそうおっしゃってますけど、こういう考え方もありますよ」ってね。そうすりゃ騒ぎもいくらか治まり、人々の頭も少しは冷静になるだろうと期待したのです。
パチンコ屋もそうですよ。営業自粛しないパチンコ屋が連日批判的に取り上げられていましたけど、パチンコ屋で感染が起きたという話は1件もありませんよね(今のところは、ですけど)。もちろんそれは結果論です。たまたま感染が起きなかった、というだけなのかもしれない。それに、感染の発生の有無にかかわらず、3密を避けなかったという点は道徳的に非難されて当然なのかもしれない。
でもそれと同時に、メディアと世間には、パチンコ屋に批判的な態度を取り続けてきたことに対する反省が、多少はあってしかるべきではないでしょうか。営業をやめないというだけで批判していい、と考えるのは正しくないのではないでしょうか。国か自治体が、自粛要請してすぐに、休業しても困らないくらいの補償金を提示していたならともかく、店舗にしてみたら安心して休業できる状態になかったわけですからね。

僕は「ひとつになれ」という言説に、どうしても気持ち悪さを感じてしまいます。
動物行動学では、「ひとつになる」のは、非常に危険なこととされています。遺伝情報がみな同じだったら、伝染病が発生したときに一気に絶滅してしまうかもしれない。小魚がスイミーよろしく一塊になっていたら、クジラにひと飲みにされて全滅してしまうかもしれない。
だから遺伝情報はできるだけバラけていたほうがいいし、群れの中には全体とは違う行動をとる個体が1~2割はいたほうがいい、とされています。それが生物にとっての生き残り戦略なのですね。
だから、日本で今言われてるように「ひとつになれ」という訴えは、極めて危険な、生き残り戦略に反した意見だと思うのです。生き残り戦略を念頭に置いて考えると、営業をやめなかったパチンコ屋と、そこに通い続けた客は、「集団とは違う行動をとる1~2割の個体」だと言えます。だから、僕は彼らをわりと好ましく感じていました。
もちろん天敵に襲われた場合、群れを成している集団よりも、別行動をとっている1~2割のほうが先にやられがちですし、パチンコ屋に通い続けていた客のほうが、そうでない人よりも、確率的には新型コロナに感染しやすかったでしょう。
でも、動物行動学的には、ひとつになってはいけないのです。ひとつになることほど危険なことはないのです。生き残りたいのであれば、ひとつになってはいけない。僕が「ひとつになれ」というメッセージに気持ちの悪さを感じてしまうのは、生き残り戦略に反しているからです。
「お前がそうしたいならそうすればいいよ。俺はこうするから。どっちが正解かはわからないけど、どちらかは生き残るだろうさ」。そうやって行動をバラけさせるのが、絶滅を避け、種を存続させるための必須の策略なのです。
日本人は、「ひとつになれ」というメッセージに対する抵抗感が弱すぎます。先の戦争の翼賛体制や、一億総玉砕を持ち出すまでもなく、ひとつになるのは危険であることは明白です。「ひとつになれ」というメッセージに、本能的に反発してしまう人がいることは、多様性が確保されていて、種が生き残る可能性が高い証拠です。それは肯定的に捉えられなくてはなりません。
マジョリティとは違う発言をして意見を相対化するのも、集団と離れて別行動をとるのも、どちらも同じことです。いずれも「多様性を確保する」という目的に則した行為なのです。
ひとつになりたくてしょうがない人たちは、本気で総玉砕(絶滅)したがっているのでしょうか。北朝鮮のマスゲームを見て、うらやましく思っているのでしょうか。
ひとつになりたくない人がいるなら、放っておきましょう。それは、集団の多様性が担保されているという、きわめて健全な証なのですから。集団とは違う行動をしている彼らのほうが、生き残ってくれるかもしれない。ひとつになって全滅するより、バラバラになって生き残るべし、です。