(⑤からの続き)
男言葉を話す女もいれば、女言葉を話す男もいる。これが今の時代的趨勢だとすれば、おそらく言語のみならず、様々な趣味嗜好やファッションなども性別において固定化されることなく、各個人が任意に選び取れるようになってきているのではないだろうか。ファンシーな小物を身に付ける男の子もいれば、バイオレンスなフィクションに嗜癖する女の子もいる、といったふうに。
少し前にファミレスに行った時のことだが、その日はたまたま近くの小学校でお祭りが開かれており、店内は若い子で賑わっていた。その中に女3、男1の中学生グループがいたのだが、男が一人混じっているという違和感を感じさせることなく、楽しげにキャイキャイお喋りをしていた。雰囲気だけなら女の子4人組のようであった。
小生が子供の頃(つまり、80~90年代ね)は、男女の間に壁があった。男子の中には、女子と仲良くするのは恥ずかしいこと、という空気が共通認識としてあった。たぶん女子の側にも同じ空気があったはずである。今の若い子にはその壁はなく、男であるか女であるかとは無関係に、純粋に気が合うもの同士で仲良くしているようだ。先程女子の中に男子が一人混じっている状態を「違和感」と表現したが、これはあくまで小生の感じ方であって、今の若い子にはそのような感覚はないのだろう。
男女間に気兼ねがいらないのは羨ましい限りである。ただ、壁があるからこそ恋愛や性愛がその乗り越えの動力となるのであって、現在は壁がないので恋愛や性愛が駆動しにくい、という一面もあるのかもしれない。よく「今の若い子は恋愛に消極的」と言われるが、それは若い子の意識の問題ではなく、恋愛が芽生える条件自体がなくなりつつあるということなのかもしれない。
いずれにせよ、これらの変化を通覧するに、女の子が(男言葉を話すなどによって)男っぽくなるだけでなく、男の子も女っぽくなり、次第に「男らしさ/女らしさ」という区分自体が曖昧になり、それによって、元々「らしさ」の指標としてあったそれぞれの事物は、男か女かに関係なく、個人の好みに応じて選び取られるようになった・・・という経緯が確認できる。
だいぶ長文になってしまった。「男と女」に関して、言いたいことが溜まっていたようである。しかし、これでもまだ言い足りない感が残る。もっと丁寧に腑分けする必要があるのではないかと思うのだ。だがこれ以上は知識と能力が及ばない。とりあえず、現時点での結論を出す。
男の弱体化を嘆く女達がいる。特に恋愛に消極的な点に批判的な態度をとっている。かといって、それなら自分から積極的に男に迫る、というわけでもない。行動を起こすのは男のほうから、という前提を崩そうとはしないのだ。
男が恋愛に消極的なのは、かつて自分に自信をつける場としてあった「経済=労働」が低迷したことと、個性の尊重や全体主義的な教育の批判などによって「男らしさ/女らしさ」が言挙げされなくなり、その影響で男女の間の壁がなくなって、恋愛が発動する基盤も希薄になった、というのが理由として考えられる。
そして、二足歩行を始めてからこっち、男に主導権を担ってもらうのが習い性であった女は、「男がダメなら自分達が主導権を」と考えることができない。あくまで男の強化を待ち望むのみである。
しかし、先に確認したように、男が強い社会というのは「ビビったらおしまい」という男性原理が支配する、弱肉強食の世界である。男は強さを証明せねばならないので、至る所で争いが起き、競争に次ぐ競争で弱者は切り捨てられる。そして、その延長線上に、究極的な諍いとしての戦争が起こる。
また、男が強くなれば恋愛の積極性は回復されるだろうが、それと同時にDVや性犯罪も増加するはずである。それらを、やむを得ない代償として許容するわけにはいかない。
酒井は、『男尊女子』のあとがきで次のように述べている。
私の中にも、男尊女子成分は確実に存在しています。本書を書く中でしみじみ感じたのは、自分内男尊女子を完全に消す勇気を私は持っていない、ということ。男尊女卑にプンスカしながらも、何かというと男尊女子の陰に逃げ込もうとする自分もいるのです。
私は一生、この矛盾を抱えて生きていくのだと思います。そしてこの矛盾は、昭和に生まれて平成を生きる女性の多くに、存在しているものなのではないか。
これからも、日本に生きる男女の感覚は変化を続けることでしょう。未来の女性がこの本を読んだなら、
「男尊女卑も男尊女子も、どうもよくわからないんだけど?」
と、ポカンとするに違いありません。
酒井は同書の中で、過去の経緯の記述と現状の分析を行っているが、未来の提言を発してはいない。上の引用に見られるように、あくまで現在は男尊女卑がなくなりつつある過程と見做しており、放っておいてもいずれそれは消滅する、と考えているようだ。
だが、本当にそうだろうか。一方に「男を立てることに喜びを見出す女」がいて、他方に、その対としての「女に立ててもらいたがる男」がいる限り、男尊女卑と男尊女子は、今後も温存され続けるのではないだろうか。男の弱体化を嘆く女がいるのを見ていると、そうとしか思えない。だとすると、男尊女卑は消滅に向かうどころか、歴史に逆行して甦ってくるかもしれない。そうなれば、力の理論が支配する男性原理も本格的に復活してしまう。
だから、男が弱っている今は、チャンスなのである。再び男に強くなってもらうのではなく、女が男性原理に拠らずに主導権を握る。そうしてこそ、弱肉強食の冷酷な力の理論ではなく、より手触りの温かい、共存の度合いが高い社会を構築できるのではないか。
つまり、今こそフェミニズムを蘇らせるべきなのである。それは、かつて権勢を誇っていた上野千鶴子や田嶋陽子を引き継ぐ形での復権ではない。彼女達をアンチテーゼとして正しく乗り越える形での復権でなくてはならない。過去のものとされたフェミニズムを、止揚するのだ。
男に一方的に責任を押し付けず、女も権利の及ぶ範囲で責任を負うフェミニズム。自分の都合だけ、あるいは女の都合だけを考えるのではなく、男の側の都合も考え、そして男と女、並びに性的マイノリティも含めた社会全体のことも考えるフェミニズム。女が主導権を握ったとして、「ビビらない」ことを旨とする男性原理では運営しない、それとは一線を画するフェミニズム・・・。
今のところ小生が構想できるのはここまでである。来たるべきフェミニズムについては、これからも考えていきたい。
オススメ関連本・小谷真理『女性状無意識(テクノガイネーシス)――女性SF論序説』勁草書房
男言葉を話す女もいれば、女言葉を話す男もいる。これが今の時代的趨勢だとすれば、おそらく言語のみならず、様々な趣味嗜好やファッションなども性別において固定化されることなく、各個人が任意に選び取れるようになってきているのではないだろうか。ファンシーな小物を身に付ける男の子もいれば、バイオレンスなフィクションに嗜癖する女の子もいる、といったふうに。
少し前にファミレスに行った時のことだが、その日はたまたま近くの小学校でお祭りが開かれており、店内は若い子で賑わっていた。その中に女3、男1の中学生グループがいたのだが、男が一人混じっているという違和感を感じさせることなく、楽しげにキャイキャイお喋りをしていた。雰囲気だけなら女の子4人組のようであった。
小生が子供の頃(つまり、80~90年代ね)は、男女の間に壁があった。男子の中には、女子と仲良くするのは恥ずかしいこと、という空気が共通認識としてあった。たぶん女子の側にも同じ空気があったはずである。今の若い子にはその壁はなく、男であるか女であるかとは無関係に、純粋に気が合うもの同士で仲良くしているようだ。先程女子の中に男子が一人混じっている状態を「違和感」と表現したが、これはあくまで小生の感じ方であって、今の若い子にはそのような感覚はないのだろう。
男女間に気兼ねがいらないのは羨ましい限りである。ただ、壁があるからこそ恋愛や性愛がその乗り越えの動力となるのであって、現在は壁がないので恋愛や性愛が駆動しにくい、という一面もあるのかもしれない。よく「今の若い子は恋愛に消極的」と言われるが、それは若い子の意識の問題ではなく、恋愛が芽生える条件自体がなくなりつつあるということなのかもしれない。
いずれにせよ、これらの変化を通覧するに、女の子が(男言葉を話すなどによって)男っぽくなるだけでなく、男の子も女っぽくなり、次第に「男らしさ/女らしさ」という区分自体が曖昧になり、それによって、元々「らしさ」の指標としてあったそれぞれの事物は、男か女かに関係なく、個人の好みに応じて選び取られるようになった・・・という経緯が確認できる。
だいぶ長文になってしまった。「男と女」に関して、言いたいことが溜まっていたようである。しかし、これでもまだ言い足りない感が残る。もっと丁寧に腑分けする必要があるのではないかと思うのだ。だがこれ以上は知識と能力が及ばない。とりあえず、現時点での結論を出す。
男の弱体化を嘆く女達がいる。特に恋愛に消極的な点に批判的な態度をとっている。かといって、それなら自分から積極的に男に迫る、というわけでもない。行動を起こすのは男のほうから、という前提を崩そうとはしないのだ。
男が恋愛に消極的なのは、かつて自分に自信をつける場としてあった「経済=労働」が低迷したことと、個性の尊重や全体主義的な教育の批判などによって「男らしさ/女らしさ」が言挙げされなくなり、その影響で男女の間の壁がなくなって、恋愛が発動する基盤も希薄になった、というのが理由として考えられる。
そして、二足歩行を始めてからこっち、男に主導権を担ってもらうのが習い性であった女は、「男がダメなら自分達が主導権を」と考えることができない。あくまで男の強化を待ち望むのみである。
しかし、先に確認したように、男が強い社会というのは「ビビったらおしまい」という男性原理が支配する、弱肉強食の世界である。男は強さを証明せねばならないので、至る所で争いが起き、競争に次ぐ競争で弱者は切り捨てられる。そして、その延長線上に、究極的な諍いとしての戦争が起こる。
また、男が強くなれば恋愛の積極性は回復されるだろうが、それと同時にDVや性犯罪も増加するはずである。それらを、やむを得ない代償として許容するわけにはいかない。
酒井は、『男尊女子』のあとがきで次のように述べている。
私の中にも、男尊女子成分は確実に存在しています。本書を書く中でしみじみ感じたのは、自分内男尊女子を完全に消す勇気を私は持っていない、ということ。男尊女卑にプンスカしながらも、何かというと男尊女子の陰に逃げ込もうとする自分もいるのです。
私は一生、この矛盾を抱えて生きていくのだと思います。そしてこの矛盾は、昭和に生まれて平成を生きる女性の多くに、存在しているものなのではないか。
これからも、日本に生きる男女の感覚は変化を続けることでしょう。未来の女性がこの本を読んだなら、
「男尊女卑も男尊女子も、どうもよくわからないんだけど?」
と、ポカンとするに違いありません。
酒井は同書の中で、過去の経緯の記述と現状の分析を行っているが、未来の提言を発してはいない。上の引用に見られるように、あくまで現在は男尊女卑がなくなりつつある過程と見做しており、放っておいてもいずれそれは消滅する、と考えているようだ。
だが、本当にそうだろうか。一方に「男を立てることに喜びを見出す女」がいて、他方に、その対としての「女に立ててもらいたがる男」がいる限り、男尊女卑と男尊女子は、今後も温存され続けるのではないだろうか。男の弱体化を嘆く女がいるのを見ていると、そうとしか思えない。だとすると、男尊女卑は消滅に向かうどころか、歴史に逆行して甦ってくるかもしれない。そうなれば、力の理論が支配する男性原理も本格的に復活してしまう。
だから、男が弱っている今は、チャンスなのである。再び男に強くなってもらうのではなく、女が男性原理に拠らずに主導権を握る。そうしてこそ、弱肉強食の冷酷な力の理論ではなく、より手触りの温かい、共存の度合いが高い社会を構築できるのではないか。
つまり、今こそフェミニズムを蘇らせるべきなのである。それは、かつて権勢を誇っていた上野千鶴子や田嶋陽子を引き継ぐ形での復権ではない。彼女達をアンチテーゼとして正しく乗り越える形での復権でなくてはならない。過去のものとされたフェミニズムを、止揚するのだ。
男に一方的に責任を押し付けず、女も権利の及ぶ範囲で責任を負うフェミニズム。自分の都合だけ、あるいは女の都合だけを考えるのではなく、男の側の都合も考え、そして男と女、並びに性的マイノリティも含めた社会全体のことも考えるフェミニズム。女が主導権を握ったとして、「ビビらない」ことを旨とする男性原理では運営しない、それとは一線を画するフェミニズム・・・。
今のところ小生が構想できるのはここまでである。来たるべきフェミニズムについては、これからも考えていきたい。
オススメ関連本・小谷真理『女性状無意識(テクノガイネーシス)――女性SF論序説』勁草書房
(④からの続き)
言葉の問題にも検討を加えたい。酒井は、今時の女子高生が使う男言葉にも触れているが、これには小生も思うところがある。
1966年生まれの酒井自身が若い頃には、女同士で会話するときには下品な言葉を使うことはあっても、男の前では女言葉に切り替えていたそうだが、ここ10~20年ぐらいの傾向として、誰が相手であっても男言葉で話すのが女の子にとって当たり前となっている。小生が20代の頃には、10代の女の子が「お前マジ死ね」などど口にするのを聞くにつけ、頑固爺のごとく「やれやれ、世も末だ」と嘆いていたのだが、段々これは望ましい傾向なのではないかと考えるようになっていった。
望ましい、というのは男女平等という観点からの話である。ただ単に、男女ともに同じ言葉を話していれば平等だ、ということではない。男言葉というのは攻撃力が高いが、それに比べて女言葉は弱い。男言葉と女言葉で口喧嘩になれば、男言葉のほうに分があるので、女言葉の使い手のほうは、相手をうまく遣り込める話術がないと勝てない。
また、口喧嘩をする状況だけに限らない。使用する言葉がその話者の言動――コミュニケーション能力・態度・礼節・人当たりの良し悪し・声の大きさなど――を左右する面は大いにあるわけで、女言葉が男言葉より弱いということは、女言葉の話者はその弱さを内面化している、ということである。なので、必然的に女言葉の話者は、男言葉の話者より「一歩下がった存在」になってしまう。
同じ言葉を内面化していれば、日常の至る場面で男女が関わり合う際、「話し言葉の違いからくる不平等」に直面しなくてすむ。だから女の子が男言葉を使うのは男女平等に適うのではないか、と考えるようになったのだ。
女が男言葉を話すことを、品がないなどとことさら問題視する必要はない。英語には男言葉・女言葉の違いなどないが、そのことで英語話者の女がとりわけ下品になっているとは言えない。(ただし、男女共通の言語である英語は、父権社会の維持・存続のために高度に男性化された構造を備えており、そのため英語の話者となることは無自覚的に父権社会の加担者となることを意味するので、女は、自らの言語を新たに創出していかねばならない、という議論が欧米のフェミニストの間にはあるらしいのだが)
ただ、『男尊女子』の中でも言及されているのだが、最近は「女言葉を使う男」も少なくない。オネエなどの同性愛者だけの話ではない。「異性愛者でありながら女言葉を使う男」がいるのである(オネエタレントの増加がこの傾向に拍車をかけている面もあるのだろうが)。
小生は、女の子がみんな男言葉を話すようになり、女言葉の話者の消滅によって、「男言葉と女言葉」という区分自体がなくなり、日本人の話し言葉はひとつに統一される・・・というふうに進展すると思っていた。だが、事はそれほど単純ではないようだ。男の中に、女言葉を使う者がいる。それはつまり、彼等が女言葉に何かしらの使用価値を見出した、ということだ。ならば、女の側にもその価値を保持しておこうとする動きがあっていいはずで、男であろうが女であろうが各個人の価値観や狙いに応じて男言葉・女言葉の使用を選択する、というのが今後の趨勢になるはずである。
うん、それこそが本当の男女平等に適うのかもしれない。ではなぜ女言葉を話す男がいるのか。これは何らかの社会的動向を反映しているのか。
これに関しては、少し個人的な話をする。実は小生自身も、女言葉を使うフシがあるのである。小生は小さい子が好きで、特に1,2歳ぐらいの子が好物なのだが(保育士資格所有者でもある)、小さい子を見ると「キャッ」となって、オカマと化してしまうのである。このオカマはいつの頃からか小生の中に住み着いていたのだが、年々存在感を増しており、表に現れる頻度が高まってきている。なので、いずれはオカマに体を乗っ取られる予感がしているのだが、その時はその時、受け入れる覚悟はできている(たぶん尾木ママみたいになるのだと思う)。
そのオカマと同居している実感から言わせてもらうと、女言葉を使うのはある種の戦略というか、宣言のようなものなのだと思う。では、その戦略・宣言とは何かというと、「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」という一言に集約される。
男性原理。強いものが勝ち上がり生き残る、力の理論が支配する世界。弱者に同情が寄せられることはなく、「もっと強くなれ」という叱責だけがある。この原理の中では、人は物事を深く考えることはなく、気合や根性といった精神論が幅を利かせる。
これを一言にまとめると「ビビったらおしまい」となる。そう、男性原理を体現する者はビビってはいけないのである。その一つの典型的な表れが、ドナルド・トランプと金正恩のチキンレースのごとき軍事挑発合戦である。ビビってはいけないから、止めることができない。相手が仕掛けてきたことよりも一段上の行為を仕掛け返さねばならない。たとえその先に破滅が待ち構えていることがわかっていたとしても。
ドナルド・トランプにせよ金正恩にせよ腹の中は冷静で、ここから先は踏み込んではいけない、という一線はちゃんとわきまえており、本格的な軍事衝突・戦争に至ることなどありえない、という意見もある。それはもちろん承知しているし、同意見である。しかしながら、ボタンの掛け違いというのも起こりうる。国際政治のような、無数のファクターが複雑に絡み合う場においては殊更だ。キューバ危機だって、あと少し条件が違っていたらどうなっていたかわからない。破局というのは、そのようにして訪れるのだ。
そもそも戦争は男が起こすものである。歴史を端倪してみれば、戦争のほとんどが男の発端によるものであったことがわかる(例外的に戦争を起こした女は、男性原理を内面化した女である)。戦争もまた「生きているだけでは不安」な心理の捌け口となっているのだろうが、男はビビってはいけないから戦争をするのである。
ビビらない男は、とかく尊敬を集めがちである。女にもモテるし、組織の中で高い地位を獲得しやすい。しかし小生は――これはビビりの遠吠えと受け取ってもらって差し支えないのだが――、ビビらない男というのは、決して強いのでも優れているのでもなく、ただ単に、人間として当然備わってなくてはならない感情の一部が欠落しているだけではないか、と思っている。ビビるというのは、言い換えれば危機を察知・回避するということであるが、ビビらない男は危機があってもそこに突っ込んでいく。実際、つまらないケンカで10代のうちに命を落とす者は少なくない。
小生は、ビビることは大事だと思う。男であっても適切にビビるべきだし、ビビらないことを崇める風潮をどうにかすべきだとも思う。ブレーキが付いていない車は、そんなに魅力的だろうか。
では、「ビビらない」ことで守られるものとは、一体なんだろう。それは、プライドである。
プライド。この、あるのかないのかよくわからないものに、男は命をもかけるのである。小生は、これほど馬鹿らしいことはないと思う。だから、若いときにはプライドにこだわっていた時期もあったのだが、今はもう捨てている。プライド、ゼロである。
他にもプライドには問題点があって、ひとつは、それが内側を向いている時には自らを律する役目を果たすのだが、ひとたび外側に向けられると、他人を平気で見下す態度に繋がるということ。また、プライドは「自分はこのようなものである」という自己規定でもある。なので、プライドがある者はこの自己規定に沿って行動する。何らかの選択をしなければならない時、前もってこちらを選べば有利、こちらは不利、という結果がわかっていたとしても、有利な選択肢がプライドに反するのであれば、彼はそれを選べない。プライドが、不利な道へと進ませるのである。
そんなのはつまらないし、損だと思う。だからプライドには否定的なのである。そして、男性原理にも興味がない。
「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」。女言葉を話す男は、言外にそう訴えている。小生は、彼等と協調関係にありたい。
このように述べれば、それでは男言葉を話す女は男性原理を内面化しているのか、と思われるかもしれない。だが、それは違うと思う。酒井も、男言葉を使う女子高生のことを「若くて勢いがある年代だからこそ、彼女達は言葉の男装をしているのです」と分析しているが、エネルギーに満ちている年頃だから、その年頃の感覚を表出するのにふさわしい言語として男言葉を選んでいるだけで、男性原理に魅入られているというわけではないだろう。男言葉を話す女子高生が、ケンカに明け暮れたり、盗んだバイクで走りだしたりしているという話を聞くことなどないのだから。
男言葉と女言葉には、一応「男らしさ/女らしさ」の指標が残ってはいるものの、それよりも「攻撃力の高さ/低さ」、あるいは「融和性の高さ/低さ」の違いのほうに主眼が置かれており、それらの価値観の表出のためにそれぞれの使用の選択がなされているのだろう。
(⑥に続く)
言葉の問題にも検討を加えたい。酒井は、今時の女子高生が使う男言葉にも触れているが、これには小生も思うところがある。
1966年生まれの酒井自身が若い頃には、女同士で会話するときには下品な言葉を使うことはあっても、男の前では女言葉に切り替えていたそうだが、ここ10~20年ぐらいの傾向として、誰が相手であっても男言葉で話すのが女の子にとって当たり前となっている。小生が20代の頃には、10代の女の子が「お前マジ死ね」などど口にするのを聞くにつけ、頑固爺のごとく「やれやれ、世も末だ」と嘆いていたのだが、段々これは望ましい傾向なのではないかと考えるようになっていった。
望ましい、というのは男女平等という観点からの話である。ただ単に、男女ともに同じ言葉を話していれば平等だ、ということではない。男言葉というのは攻撃力が高いが、それに比べて女言葉は弱い。男言葉と女言葉で口喧嘩になれば、男言葉のほうに分があるので、女言葉の使い手のほうは、相手をうまく遣り込める話術がないと勝てない。
また、口喧嘩をする状況だけに限らない。使用する言葉がその話者の言動――コミュニケーション能力・態度・礼節・人当たりの良し悪し・声の大きさなど――を左右する面は大いにあるわけで、女言葉が男言葉より弱いということは、女言葉の話者はその弱さを内面化している、ということである。なので、必然的に女言葉の話者は、男言葉の話者より「一歩下がった存在」になってしまう。
同じ言葉を内面化していれば、日常の至る場面で男女が関わり合う際、「話し言葉の違いからくる不平等」に直面しなくてすむ。だから女の子が男言葉を使うのは男女平等に適うのではないか、と考えるようになったのだ。
女が男言葉を話すことを、品がないなどとことさら問題視する必要はない。英語には男言葉・女言葉の違いなどないが、そのことで英語話者の女がとりわけ下品になっているとは言えない。(ただし、男女共通の言語である英語は、父権社会の維持・存続のために高度に男性化された構造を備えており、そのため英語の話者となることは無自覚的に父権社会の加担者となることを意味するので、女は、自らの言語を新たに創出していかねばならない、という議論が欧米のフェミニストの間にはあるらしいのだが)
ただ、『男尊女子』の中でも言及されているのだが、最近は「女言葉を使う男」も少なくない。オネエなどの同性愛者だけの話ではない。「異性愛者でありながら女言葉を使う男」がいるのである(オネエタレントの増加がこの傾向に拍車をかけている面もあるのだろうが)。
小生は、女の子がみんな男言葉を話すようになり、女言葉の話者の消滅によって、「男言葉と女言葉」という区分自体がなくなり、日本人の話し言葉はひとつに統一される・・・というふうに進展すると思っていた。だが、事はそれほど単純ではないようだ。男の中に、女言葉を使う者がいる。それはつまり、彼等が女言葉に何かしらの使用価値を見出した、ということだ。ならば、女の側にもその価値を保持しておこうとする動きがあっていいはずで、男であろうが女であろうが各個人の価値観や狙いに応じて男言葉・女言葉の使用を選択する、というのが今後の趨勢になるはずである。
うん、それこそが本当の男女平等に適うのかもしれない。ではなぜ女言葉を話す男がいるのか。これは何らかの社会的動向を反映しているのか。
これに関しては、少し個人的な話をする。実は小生自身も、女言葉を使うフシがあるのである。小生は小さい子が好きで、特に1,2歳ぐらいの子が好物なのだが(保育士資格所有者でもある)、小さい子を見ると「キャッ」となって、オカマと化してしまうのである。このオカマはいつの頃からか小生の中に住み着いていたのだが、年々存在感を増しており、表に現れる頻度が高まってきている。なので、いずれはオカマに体を乗っ取られる予感がしているのだが、その時はその時、受け入れる覚悟はできている(たぶん尾木ママみたいになるのだと思う)。
そのオカマと同居している実感から言わせてもらうと、女言葉を使うのはある種の戦略というか、宣言のようなものなのだと思う。では、その戦略・宣言とは何かというと、「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」という一言に集約される。
男性原理。強いものが勝ち上がり生き残る、力の理論が支配する世界。弱者に同情が寄せられることはなく、「もっと強くなれ」という叱責だけがある。この原理の中では、人は物事を深く考えることはなく、気合や根性といった精神論が幅を利かせる。
これを一言にまとめると「ビビったらおしまい」となる。そう、男性原理を体現する者はビビってはいけないのである。その一つの典型的な表れが、ドナルド・トランプと金正恩のチキンレースのごとき軍事挑発合戦である。ビビってはいけないから、止めることができない。相手が仕掛けてきたことよりも一段上の行為を仕掛け返さねばならない。たとえその先に破滅が待ち構えていることがわかっていたとしても。
ドナルド・トランプにせよ金正恩にせよ腹の中は冷静で、ここから先は踏み込んではいけない、という一線はちゃんとわきまえており、本格的な軍事衝突・戦争に至ることなどありえない、という意見もある。それはもちろん承知しているし、同意見である。しかしながら、ボタンの掛け違いというのも起こりうる。国際政治のような、無数のファクターが複雑に絡み合う場においては殊更だ。キューバ危機だって、あと少し条件が違っていたらどうなっていたかわからない。破局というのは、そのようにして訪れるのだ。
そもそも戦争は男が起こすものである。歴史を端倪してみれば、戦争のほとんどが男の発端によるものであったことがわかる(例外的に戦争を起こした女は、男性原理を内面化した女である)。戦争もまた「生きているだけでは不安」な心理の捌け口となっているのだろうが、男はビビってはいけないから戦争をするのである。
ビビらない男は、とかく尊敬を集めがちである。女にもモテるし、組織の中で高い地位を獲得しやすい。しかし小生は――これはビビりの遠吠えと受け取ってもらって差し支えないのだが――、ビビらない男というのは、決して強いのでも優れているのでもなく、ただ単に、人間として当然備わってなくてはならない感情の一部が欠落しているだけではないか、と思っている。ビビるというのは、言い換えれば危機を察知・回避するということであるが、ビビらない男は危機があってもそこに突っ込んでいく。実際、つまらないケンカで10代のうちに命を落とす者は少なくない。
小生は、ビビることは大事だと思う。男であっても適切にビビるべきだし、ビビらないことを崇める風潮をどうにかすべきだとも思う。ブレーキが付いていない車は、そんなに魅力的だろうか。
では、「ビビらない」ことで守られるものとは、一体なんだろう。それは、プライドである。
プライド。この、あるのかないのかよくわからないものに、男は命をもかけるのである。小生は、これほど馬鹿らしいことはないと思う。だから、若いときにはプライドにこだわっていた時期もあったのだが、今はもう捨てている。プライド、ゼロである。
他にもプライドには問題点があって、ひとつは、それが内側を向いている時には自らを律する役目を果たすのだが、ひとたび外側に向けられると、他人を平気で見下す態度に繋がるということ。また、プライドは「自分はこのようなものである」という自己規定でもある。なので、プライドがある者はこの自己規定に沿って行動する。何らかの選択をしなければならない時、前もってこちらを選べば有利、こちらは不利、という結果がわかっていたとしても、有利な選択肢がプライドに反するのであれば、彼はそれを選べない。プライドが、不利な道へと進ませるのである。
そんなのはつまらないし、損だと思う。だからプライドには否定的なのである。そして、男性原理にも興味がない。
「私は男ですけど、男性原理には興味ありません」。女言葉を話す男は、言外にそう訴えている。小生は、彼等と協調関係にありたい。
このように述べれば、それでは男言葉を話す女は男性原理を内面化しているのか、と思われるかもしれない。だが、それは違うと思う。酒井も、男言葉を使う女子高生のことを「若くて勢いがある年代だからこそ、彼女達は言葉の男装をしているのです」と分析しているが、エネルギーに満ちている年頃だから、その年頃の感覚を表出するのにふさわしい言語として男言葉を選んでいるだけで、男性原理に魅入られているというわけではないだろう。男言葉を話す女子高生が、ケンカに明け暮れたり、盗んだバイクで走りだしたりしているという話を聞くことなどないのだから。
男言葉と女言葉には、一応「男らしさ/女らしさ」の指標が残ってはいるものの、それよりも「攻撃力の高さ/低さ」、あるいは「融和性の高さ/低さ」の違いのほうに主眼が置かれており、それらの価値観の表出のためにそれぞれの使用の選択がなされているのだろう。
(⑥に続く)
(③からの続き)
つまりは、マッチポンプなのである。女は、文化を格段必要としていなかった。男のほうが、自分達の都合でそれを創りあげ、女達もそれに依存しないとやっていけないような世界に変えていったのだ。自分達(男)のためのシステムならば、自分達が優先的に活躍できるのは当たり前である。
ふたつほど例を挙げてみる。まず、英語の「MAN」という言葉。この言葉には、「男」という意味と、「人間」という意味がある。そして、「女」は「MAN」に「WO」を付けてあらわされ、まるで「男こそが人間であり、女は人間ではない」と言わんばかりだ。
しかし、言語もまた「男の不安」の産物である。不安を打ち消すために構築した体系の中に、「男が人間の基本形であり、女はその亜種である」というメッセージを意図的に込めたのだろう。
もうひとつは、旧約聖書の中の創世記。神は泥をこねてアダムを作り、アダムのあばら骨を一本取ってイブを作った、と記されている。これをもって、「男こそが先に産まれた原初の人間であり、女は男の一部分程度の存在でしかない」と判断する男もいるだろう。
残念ながら、と言うべきか、宗教と、それに付随する経典もまた「男の不安」が生み出したものである(アミニズムのような素朴な生活実感から滲み出てくる信仰形態のものはともかく、一神教のような人工的なものは間違いなくこれに該当する)。つまり、創世記も男が紡いだ物語なのである。不安を打ち消すために創りあげた物語の中で、その不安そのものを否定するような人類誕生の経緯を描いてみせたのだ。
男は、おそらくみな自分達の存在意義が種付けだけであることに薄々気づいている。そして、その事実に耐えられないから、懸命に否定しようとしてきた。「人間の基本形は男だ。男のほうが女より先に産まれた。男は女より優れているし、女は男を頼らないと生きていけない」。そういうふうに、事実とは違うことをひたすら言い続けてきた。ここに「弱い犬ほどよく吠える」という図式を見て取ることができる。
してみると、女より男のほうが歴史に多くの名を遺していることの説明もつく。生きているだけで自分の存在価値を実感できる女は、歴史に名を遺すこと、何かしらの偉業を達成することに、価値を見出さない。生きているだけでは不安な男が、已むに已まれずジタバタし、その人生の中で何かしらの達成を果たした者が結果的に歴史に名を刻むのである。
そもそも、なぜ歴史が存在するかというと、共同体が変容するからである。今日も昨日と変わりなく、100年前から何も変わっていないような共同体には、「歴史」はない。「進歩」と言っても「発展」と言ってもいいが、変化こそが歴史なのである。手掴みで食事をしていたのが、縄文土器を使うようになり、その後は弥生土器にとって代わられる。「男の不安」が人類の共同体に変化をもたらした。歴史とはその変化を指している。男が、ひたすら「女より男のほうが偉いんだ」と言い続けてきたのが人類の歴史だと言い換えてもいいかもしれない。
小生自身もまた男である。なので、福岡と岸田の指摘は実感としてよくわかる(このブログも「生きているだけでは不安」な心理の産物なのだろう)。
我々は――つまり、男だけでなく女もまた――、今あるこの社会に慣れきっている。この社会を自明のものとして日々を生きている。だから、最初から男にとって都合よく作られていたこの社会の在り様に、疑問を持つということがない。おそらく、この習い性こそが「男の人は男というだけで威張ってていいと思う」という感覚をもたらしているのだろう。
ちなみに福岡伸一は先に挙げた著作の中で、遺伝子を運ぶ以外にもオスの使い道があると気付いたメスが、様々な仕事をオスに担わせてきたが、メスが欲張りすぎたせいでオスの労働が余剰を生み出すようになり、それが現在のオス(男)の支配的な社会をもたらした、と推察している。だとすれば、男中心のこの社会は、決して女が一方的に虐げられてきたということではなく、男と女の利害の一致によるものということになるだろう。
ならば、その誤りを指摘してやればいいだろうか。男が社会の中でデカい顔をしているのは、そもそも社会というのが男の都合で、男のために創り出されたことの結果であり、男のほうが優れていることの証拠にはならないのだ。そう言えばいいだろうか。
しかし、現実を眺めるとそう一筋縄でいきそうには思えない。
ここでようやく酒井順子の『男尊女子』の中身に触れる。酒井は、九州には「女は男の後ろを歩くべき」といった考えがいまだ根強いことなどを挙げ、そういう地域において特に語られがちな「家庭で実権を握っているのは女なのであり、男は女の手のひらで踊らされているようなものなのだ」という定型句に言及する。
日本の各地を旅していると、男尊女卑傾向が強めの場所はそこここにあるのですが、そういった地域の人達は皆、
「本当は女の方が強いのだ」
とおっしゃるものなのですから。
(中略)
それは、呪文のようなものなのかもしれません。男女に限ったことではなく、身分や経済力などで人間の上下が決まってしまっている社会において、「下」側の人は往々にして、腹の中で相手を憐れみ下に見ることによって、「下」であることのうっぷんを晴らそうとします。
(酒井順子『男尊女子』集英社)
この見立てはおそらく正しい。そして、小生はこの呪文のような定型句は、「下」側だけでなく、「上」にとっても都合がいいのだと思う。つまり、男が「本当は女の方が強いんだ」と言うことで、実質的に男がひたすら威張っているだけの現状を正当化し、女が不当に虐げられている面があったとしても、それを覆い隠してしまう。この言葉には、そんな働きもあるのではないだろうか。
男女ともにこの言葉によって現実から目を逸らし続けているのだとすれば、直視すべきを直視するのはなかなか困難であると言わざるを得ない。
ついでに言うと、ラグビー選手の五郎丸歩の「一歩二歩、後ろを下がって歩く女性が好み」という発言に象徴される九州男児であるが(五郎丸も一頃おおいにもてはやされたが、人気が持続しなかったのはこのあたりに理由があるのかもしれない)、小生はこの九州男児の特質というのは、文化や風土や遺伝子によって形作られている部分もあるだろうけれど、それよりも「九州男児という言葉それ自体」によって強く規定されているのではないかと思っている。
九州男児という言葉がいつできたのか。九州人自らの名乗りによるものなのか、それとも九州外の人達の名指しによるものなのか。その辺はよくわからない。だが、ひとたびその言葉が生まれ、字義が定着すると、「九州の男ならかくあらねばならぬ」という意識が芽生える。その意識が、九州生まれの男達を、典型的な九州男児へと自己造形させる。九州の男を、あるべき九州男児の形質へと向かわせているのは、ほかならぬ「九州男児という言葉それ自体」なのである。九州男児という言葉が九州男児を九州男児たらしめているのだ。言葉によるイメージは、本来あくまでイメージでしかないのだが、それが強固に人々を捉えてしまうと実体を作り出し、蜃気楼でしかなかったイメージが、あたかも最初から具体的な姿形を備えていたかのように事後解釈されてしまうわけだ。
(⑤に続く)
つまりは、マッチポンプなのである。女は、文化を格段必要としていなかった。男のほうが、自分達の都合でそれを創りあげ、女達もそれに依存しないとやっていけないような世界に変えていったのだ。自分達(男)のためのシステムならば、自分達が優先的に活躍できるのは当たり前である。
ふたつほど例を挙げてみる。まず、英語の「MAN」という言葉。この言葉には、「男」という意味と、「人間」という意味がある。そして、「女」は「MAN」に「WO」を付けてあらわされ、まるで「男こそが人間であり、女は人間ではない」と言わんばかりだ。
しかし、言語もまた「男の不安」の産物である。不安を打ち消すために構築した体系の中に、「男が人間の基本形であり、女はその亜種である」というメッセージを意図的に込めたのだろう。
もうひとつは、旧約聖書の中の創世記。神は泥をこねてアダムを作り、アダムのあばら骨を一本取ってイブを作った、と記されている。これをもって、「男こそが先に産まれた原初の人間であり、女は男の一部分程度の存在でしかない」と判断する男もいるだろう。
残念ながら、と言うべきか、宗教と、それに付随する経典もまた「男の不安」が生み出したものである(アミニズムのような素朴な生活実感から滲み出てくる信仰形態のものはともかく、一神教のような人工的なものは間違いなくこれに該当する)。つまり、創世記も男が紡いだ物語なのである。不安を打ち消すために創りあげた物語の中で、その不安そのものを否定するような人類誕生の経緯を描いてみせたのだ。
男は、おそらくみな自分達の存在意義が種付けだけであることに薄々気づいている。そして、その事実に耐えられないから、懸命に否定しようとしてきた。「人間の基本形は男だ。男のほうが女より先に産まれた。男は女より優れているし、女は男を頼らないと生きていけない」。そういうふうに、事実とは違うことをひたすら言い続けてきた。ここに「弱い犬ほどよく吠える」という図式を見て取ることができる。
してみると、女より男のほうが歴史に多くの名を遺していることの説明もつく。生きているだけで自分の存在価値を実感できる女は、歴史に名を遺すこと、何かしらの偉業を達成することに、価値を見出さない。生きているだけでは不安な男が、已むに已まれずジタバタし、その人生の中で何かしらの達成を果たした者が結果的に歴史に名を刻むのである。
そもそも、なぜ歴史が存在するかというと、共同体が変容するからである。今日も昨日と変わりなく、100年前から何も変わっていないような共同体には、「歴史」はない。「進歩」と言っても「発展」と言ってもいいが、変化こそが歴史なのである。手掴みで食事をしていたのが、縄文土器を使うようになり、その後は弥生土器にとって代わられる。「男の不安」が人類の共同体に変化をもたらした。歴史とはその変化を指している。男が、ひたすら「女より男のほうが偉いんだ」と言い続けてきたのが人類の歴史だと言い換えてもいいかもしれない。
小生自身もまた男である。なので、福岡と岸田の指摘は実感としてよくわかる(このブログも「生きているだけでは不安」な心理の産物なのだろう)。
我々は――つまり、男だけでなく女もまた――、今あるこの社会に慣れきっている。この社会を自明のものとして日々を生きている。だから、最初から男にとって都合よく作られていたこの社会の在り様に、疑問を持つということがない。おそらく、この習い性こそが「男の人は男というだけで威張ってていいと思う」という感覚をもたらしているのだろう。
ちなみに福岡伸一は先に挙げた著作の中で、遺伝子を運ぶ以外にもオスの使い道があると気付いたメスが、様々な仕事をオスに担わせてきたが、メスが欲張りすぎたせいでオスの労働が余剰を生み出すようになり、それが現在のオス(男)の支配的な社会をもたらした、と推察している。だとすれば、男中心のこの社会は、決して女が一方的に虐げられてきたということではなく、男と女の利害の一致によるものということになるだろう。
ならば、その誤りを指摘してやればいいだろうか。男が社会の中でデカい顔をしているのは、そもそも社会というのが男の都合で、男のために創り出されたことの結果であり、男のほうが優れていることの証拠にはならないのだ。そう言えばいいだろうか。
しかし、現実を眺めるとそう一筋縄でいきそうには思えない。
ここでようやく酒井順子の『男尊女子』の中身に触れる。酒井は、九州には「女は男の後ろを歩くべき」といった考えがいまだ根強いことなどを挙げ、そういう地域において特に語られがちな「家庭で実権を握っているのは女なのであり、男は女の手のひらで踊らされているようなものなのだ」という定型句に言及する。
日本の各地を旅していると、男尊女卑傾向が強めの場所はそこここにあるのですが、そういった地域の人達は皆、
「本当は女の方が強いのだ」
とおっしゃるものなのですから。
(中略)
それは、呪文のようなものなのかもしれません。男女に限ったことではなく、身分や経済力などで人間の上下が決まってしまっている社会において、「下」側の人は往々にして、腹の中で相手を憐れみ下に見ることによって、「下」であることのうっぷんを晴らそうとします。
(酒井順子『男尊女子』集英社)
この見立てはおそらく正しい。そして、小生はこの呪文のような定型句は、「下」側だけでなく、「上」にとっても都合がいいのだと思う。つまり、男が「本当は女の方が強いんだ」と言うことで、実質的に男がひたすら威張っているだけの現状を正当化し、女が不当に虐げられている面があったとしても、それを覆い隠してしまう。この言葉には、そんな働きもあるのではないだろうか。
男女ともにこの言葉によって現実から目を逸らし続けているのだとすれば、直視すべきを直視するのはなかなか困難であると言わざるを得ない。
ついでに言うと、ラグビー選手の五郎丸歩の「一歩二歩、後ろを下がって歩く女性が好み」という発言に象徴される九州男児であるが(五郎丸も一頃おおいにもてはやされたが、人気が持続しなかったのはこのあたりに理由があるのかもしれない)、小生はこの九州男児の特質というのは、文化や風土や遺伝子によって形作られている部分もあるだろうけれど、それよりも「九州男児という言葉それ自体」によって強く規定されているのではないかと思っている。
九州男児という言葉がいつできたのか。九州人自らの名乗りによるものなのか、それとも九州外の人達の名指しによるものなのか。その辺はよくわからない。だが、ひとたびその言葉が生まれ、字義が定着すると、「九州の男ならかくあらねばならぬ」という意識が芽生える。その意識が、九州生まれの男達を、典型的な九州男児へと自己造形させる。九州の男を、あるべき九州男児の形質へと向かわせているのは、ほかならぬ「九州男児という言葉それ自体」なのである。九州男児という言葉が九州男児を九州男児たらしめているのだ。言葉によるイメージは、本来あくまでイメージでしかないのだが、それが強固に人々を捉えてしまうと実体を作り出し、蜃気楼でしかなかったイメージが、あたかも最初から具体的な姿形を備えていたかのように事後解釈されてしまうわけだ。
(⑤に続く)