徳丸無明のブログ

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真にオスプレイを忌避する者

2015-10-30 22:55:17 | 雑文
以前、日本国内の米軍基地に、オスプレイが配備されることになった時、大きな反対が沸き起こった。
オスプレイは、過去に何度も墜落事故を起こしており、これが配備されれば、演習中にも墜落が起きるかも知れない。
「日本国民を危険に晒すな」
マスコミの論調は、概ねそのようなもので、国民もまた、それに違和感なく同意していた。
「傲慢で、血も涙もなく、日本人のことなど露ほども気にしないアメリカ政府およびアメリカ軍が、強行的にオスプレイの配備を推し進めている」というわけだ。
でも小生は、「これってなんかヘンだ」と思っていた。
仮にオスプレイが墜落したとして、必ずしも日本人の上に落ちてくるとは限らない。空き地や道路や河川、無人の建物など、人がいない所に落ちるかも知れない。というか、可能性としてはそちらのほうが高いかも知れない。つまり、墜落しても、必ずしも日本人が死傷するわけではないのだ。
だが、オスプレイの乗組員は、ほぼ間違いなく死ぬ。だからこそ“未亡人製造機”の異名を取るわけだ。
だから、日本人よりも、アメリカ軍の隊員の方が、オスプレイの配備をしてほしくないはずなのである。
では、米軍の上層部はどうだろうか。
命を落としかねない輸送機に、現場の隊員が乗り込まなくてはいけない、ということは、当然士気の低下につながる。上層部との信頼関係も損なわれかねない。
だから、上層部も本心では、オスプレイの配備に反対のはずだ。
じゃあ、アメリカ国民はどうだろう。
アメリカ国民は皆、少なからず軍の隊員に敬意を抱いている。身を挺して自分達を守ってくれている、我々のヒーローだ、と。
そのヒーローに対して、危険な輸送機に乗ってほしいなど、思うはずもない。隊員の中に、家族や友人がいる者だっているだろう。
アメリカ国民もまた、オスプレイを望んでいない。
ではでは、アメリカ政府は?
米軍内は士気が下がる。国民からは反発が起こる。それは当然、政府の支持率低下を引き起こす。
だからアメリカ政府も、オスプレイを使いたくないはずなのだ。
米軍も、アメリカ国民も、アメリカ政府も、誰もオスプレイを望んではいない。
なのに、配備が進められている。
一体なぜ?
この疑問ももとよりなのだが、それより、少し想像力を働かせれば、簡単に気づくであろうこの疑問に、日本国民のほとんどが全く気づいていない、というのが、小生には不思議でしょうがなかった。
ただ、「被害者の日本」対「加害者のアメリカ」という、単純な二項対立の図式で語られるのみだったのである。ひょっとしたら、論壇誌あたりにはその辺の事情に突っ込んだ記事が出ていたのかもしれないが、大手マスコミでは全くと言っていいほど触れていなかった。
小生は、おそらく「軍産複合体によるゴリ押し」があるのではないかと睨んでいた。
オスプレイの製造を行う軍需産業のCEOあたりが、ホワイトハウスの中枢に入り込んでいて、自社の利益のために、強権的に配備を推進しているのではないか、と。
しばらくして、オスプレイ騒動が落ち着いたころ、報道ステーションが、その核心に迫っていた。うろ覚えなのだが、オスプレイは、開発段階から多額の資金を投じており、欠陥が発覚しても、事業として後戻りできなくなっている、とのことだった。
推測は、当たらずとも遠からじであったようだ。
この、旧聞に属する話題を、しかもオスプレイの運営に何の影響も与えない文脈であるにも関わらず、あえて書き記しているのは、想像力の大切さを訴えるためだ。
本当は、日本よりもアメリカの方が、オスプレイを配備したくない。その事実に気付くのは、そんなに難しいことじゃない。ほんの少しの想像力があれば足りることである。
想像力を用いて、「被害者の日本」対「加害者のアメリカ」という定見から脱することができれば、これまでにはない問題解決のヒントを得ることができるかも知れない。
そんな、新しい視点を獲得するための訴えなのである。


オススメ関連本・内田樹『街場のアメリカ論』文春文庫

今後の運営について

2015-10-25 18:24:19 | お知らせ
皆さん、こんにちは。徳丸無明です。
いつも当ブログをご覧頂き、ありがとうございます。特に、読者登録してくださっている方には、厚く御礼申し上げます。
このブログを始める前には、言いたいことが溜まっていたので、毎日のように投稿できていたのですが、実は、だんだんストックが尽きてまいりました。まだアイディアはあるのですが、上手く文章に落とし込めずにいます。
なので、これから投稿頻度は落ちていく事になりますが、ぼちぼちお付き合いいただけたら、と思います。
それから、僕は元々マンガ家志望なので、これからはマンガも載せていこうと考えています。よろしければそちらもご覧ください。
それでは、また。

昔の射程を長くとってみれば③

2015-10-24 23:31:22 | 雑文
(②からの続き)

あともう一つ、「言葉の乱れ」に関して。
若者の言葉の乱れを嘆く声も、これまた多く存在する。
言葉については、主語と述語の関係など、文法の問題もあるのだが、この場合の乱れというのは主に単語の使い方、単語の意味の解釈を指している。
言葉というのは、移り変わるもの、変化し続けるものである。これまでの歴史の中で、常に変わり続けてきた。
だが、言葉の乱れを嘆く年配者は、変化を一切認めようとしない。
まあ、それも一つの考え方と言えなくもない。なら、その考えをもっと徹底させてほしい。
乱れ(変化)を一切認めない、と言うのなら、言葉の、その起源まで遡るべきである。言葉の乱れを嘆く年配者が模範としているのは、自分が子供だった頃の一般的な言葉遣いだろう。
しかし、それでは甘い。言葉の乱れが良くないのであれば、その起源を求めて、もっともっと過去に遡ってもらわねばならない。
室町、平安、飛鳥と、今から振り返ると相当昔の時代であっても、まだ甘い。じゃあ、行き着く先は縄文時代?いやいや、起源こそが正解であるならば、原始時代まで遡ってもらわねば困る。
原始時代の言葉とは、如何なるものであったか?サルから進化したばかりなので、文法とか大系といったものはなく、文字通り原始的な、「ウホウホ」とか「キーキー」といった話し方であっただろう。言葉の乱れを一切認めないのであれば、サルとほとんど変わらない話し方が正解、ということになってしまうわけだ。
というわけで、若者の言葉の乱れを嘆く年配者は、自らの言葉遣いを根本から反省し、これからは「ウッホ、ウッホ」と話すようにしていただきたい。

この手の、「昔は良かった」に類する議論に、「近頃の若いモンは」がある。
これなども、居酒屋でオダをあげるためのネタとして語っているだけなら害はないのだが、これを本気で若いモンに直接ぶつけてくると、「ちょっと待ってよ」となる。
子供というのは、大人が作り上げた社会の中に産まれてくる。そして、その社会の影響を受けながら育つ。社会から、全く影響を受けずに成長することはできない。なので、若いモンに何かしらの問題があるというのなら、その若いモンに影響を与えた社会づくりに関わってきた大人にも、その責任の一端があるということだ。
だから、若いモンを責めるより先に、若いモンを育ててきた自分たち大人の責任をまず問うべきである。大人に全ての責任があるというわけではないが、社会の一員として働き、子供を育ててきたのであれば、責任の一端はあると言わざるを得ない。
少なくとも、無責任に、まるで他人事のように若いモンを頭ごなしに説教する、という態度を取るべきではない。ま、どうしてもそうしたいって言うなら勝手だけど、そんなことしても「ああ気持ちよかった」っていう自己満足に浸れるだけで、若いモンから尊敬されることはないだろうし、今後はまともに話を聞いてもらえなくなるかもしれない。
「ああ、はいはい、言ってろよ」と。
だから、建設的な何かを求めるのであれば、他責ではなく、自責から始めねばならない。
「あなたは、近頃の若いモンのために、これまで何をしてきましたか?」


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