徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

不良のための鎮魂歌・後編

2016-03-22 20:51:50 | 雑文
(前編からの続き)

さて、先に「学歴競争から脱落」してなお「ファルスを希求する」時に、人は不良になると書いた。それは言い換えれば、学歴競争からの脱落が、必ずしも不良と化す条件ではない、ということだ。脱落しても、不良にならない場合もある。
いくらファルスがその輝きを失いつつあるとはいえ、まだそれに惹きつけられる人はいるし、学歴社会も機能している。である以上、落ちこぼれが一定数生み出されている状況にも変わりはないはずだ。
学歴競争から脱落し、不良にならないのであれば、何になるのか。それは、ニート、もしくは引きこもりだろう。
ファルス、つまり世の権威に背を向けて生きているのがニートや引きこもりだ。年長者達はニート・引きこもりを「甘ったれてる」と評価する。しかし、これまで上昇続きだった近代社会が行き詰まりつつある時代の変化が、若者の様態に少なからず影響を与えているであろうことを鑑みれば、個人の努力や気の持ちようだけに責任を還元させる訳にはいくまい。
「不良・暴走族の減少」と「ニート・引きこもりの増加」は、おそらく相関関係にある。「不良・暴走族+ニート・引きこもり」の数を、青少年全体の総和から割ったパーセンテージは、(学歴社会が成立して以降の)どの時代であっても、ほぼ一定なのではないかと思う(誰か調べてくれませんか?)。
先に、「不良は基本的に真面目」たと述べた。
だから、不良には「度量の大きい中小企業の経営者に見込まれ」たり、「先輩の紹介で車の整備工場に雇ってもらったり」するなどの、キャリアパスの道があった。なので、不良の寿命は概ね短いものであった。
対して、ニートと引きこもりには、キャリアパスの選択肢がほぼ存在しない。そして、一度なったら一生そのままであることが多く、不良と比して寿命は長い。
この両者の差が、社会問題としての扱われ方の差に直接的に反映されている。かつての不良・暴走族よりも、ニートと引きこもりの方が、社会問題としての深刻度が遥かに高いのである。
さてそれでは、不良はこれからどうなっていくのか。
近代が嵌まり込んだ袋小路は益々すぼまり続け、ファルスもまた先細りしていくのは必定と思われる。ならば、表の世界と足並みを揃えて、不良が属する裏の世界も衰えてゆくのだろうか。
多分、それは少し違うと思う。
と言うのも、表の世界はその特質上、ほぼ全ての人間が下支えに加わっているからだ。例えば、夫に家事を一任された専業主婦や、定年後にボランティアで地域奉仕をするおじいさんなど、非ファルス所有者達も、ファルス獲得者と共に表の世界を支えている。
しかし、裏の世界には、下支えをしてくれる者は存在しない。裏の世界の体制維持は、プレーヤーである不良自らが行わなくてはならない。強いて言えば、不良の走狗となるパシリあたりがその任を担っていることになるが、貧弱すぎるので、いてもいなくても大差ないだろう。
「ツッパることが男の/たった一つの勲章」とは歌の歌詞ながら、事実に言及しているのではなく、自分達にそのように言い聞かせなければ制度を維持することができないという、裏の世界の脆弱さを暗に仄めかした言葉だと言えるのではないだろうか。
空中楼閣たる裏のファルスは、誰もそれを「勲章」と見做さなくなった瞬間に、崩落を余儀なくされる。
だから、この表と裏の構造上の相違を比較すれば、近代社会よりも、不良の世界の方が先に維持不能になり、崩壊するはずなのだ。
学校に馴染めない者、公の体制に逆らう者、粗暴な者、触法行為を働く者は、これから先も一定数は存在し続けるだろう。しかし、単独で活動する者は不良ではない。髪型・服装・言動・嗜好を「不良のコード」に合わせようとしない者は、言葉の本来の意味での不良ではない。それは、ただの問題児である。
不良よ、眠れ。
近代が潰えるよりも先に、あなたたちの世界は消滅するだろう。
あなたたちは、近代という特殊な時代が、日本という文化圏と混交したことにより産み落とされた、鬼っ子だったのだ。
あなたたちは悪くない。多分、誰も悪くない。
ただ、そういう時代だったのだ。ただ、それだけのことなのだ。


オススメ関連本・佐藤建志『バラバラ殺人の文明論――家族崩壊というポップカルチャー』PHP研究所

不良のための鎮魂歌・前編

2016-03-21 21:12:49 | 雑文
昔から疑問に思っていたシリーズ。
今回は「なぜ不良は、教師や校則に背くのに、学校の看板を背負って他校生と喧嘩するのか」問題を取り上げる。
これには、既にいくつかの説明がなされている。曰く、「不良というのは、必ずしも制度に馴染めない者のことではない。その証拠に、不良の世界の服装・髪型は極めて画一的で、個性がない。彼らは、学校のルールに馴染めないから、自分達でルールを作り上げているのだ」云々。
しかし、それではなぜ「反制度」にならないのか。なぜ独自の制度を求めるのかというと、その点にはこれといった説明がなく、せいぜい「本当は寂しがり屋だから」といった、曖昧でよくわからん回答があるくらいだ。
これに、小生なりの解釈を施してみたい。
小生は以前、ファルスという概念を用いて論を展開したことがある(「ご注文は蛇ですか?」参照)。今回も、その伝で行きたい。
ファルスとは、「父権社会での、男にのみ付与された特権全般」のことである。
男がその統合の中心にあり、権威・権力・地位などを、ほぼ独占しているか、女よりも優先的に手に入れやすい構造を有しているのが父権社会だ。
例えば日本だと、同じだけ仕事をこなしていても、男のほうが昇進しやすいだとか、そもそも女は、寿退社することを前提に、男性社員の嫁候補として雇用されるとかの、男女間の不平等がある。
男中心の社会において、能力や努力とは無関係に、男が、ただ男であるというだけの理由で享受できる権利。それがファルスである。
さて、社会のシステムが、男なら誰でも特権にありつけるように設定されているとはいえ、すべての男に均質なファルスが行き渡るわけではない。当然ながら、100人が100人とも社長になれるわけではない。
男が入手できるファルスには、優劣がある。では、その優劣は何によって決せられるか。日本では、学歴で篩にかける手法を採用している。(学歴競争には女も曝されているが、話をわかりやすくするために、本論では男だけに対象を絞る)
一点でも多くテストで得点し、一ポイントでも高い偏差値を叩き出し、一つでもランクの高い学校に入れた者が、より強く、より優れたファルスにありつけるようになっている。俗に言う学歴社会ってやつだ。
競争である限りは、当然勝者と敗者がいる。否が応にも敗者は生み出されてしまう、それが競争社会だ。学歴競争から落ちこぼれた者、あるいは、競争に加わるのがバカらしくなってドロップアウトした者が、一定数現れることになる。彼等は、ファルスにありつけないか、仮にありつけたとしても、貧弱なそれしか回ってこない。
そのような立場に立たされてなお、強大なファルスを渇望する時、人はどうなるのか。不良になるのである。
学歴社会の下での、強大なファルス獲得の道は絶たれた。それならば、別の世界のファルスを目指せばいい。
学歴社会の階梯を登るのは、言わば「表の世界」でのファルス獲得である。対して、不良の世界は「裏」に当たる。
つまり、強大なファルス獲得を諦めきれないから、不良は不良の制度に従うのである。一回でも多く喧嘩に勝ち、一つでも多くの武勇伝を作り、一人でも多くの舎弟を従えることが、裏の世界の階梯を上昇することに当たる。だから、「ガリ勉が予備校に通って東大を目指す」のも「番長が他校生を襲ってボンタン狩りをする」のも、より良きファルス獲得を主眼としている点において、本質的な違いはないのである。
裏のファルスの獲得を目指すのであれば、裏のルールに従わねばならない。だから不良の髪型・服装は画一的なのだ。これは暴走族にも同じ事が言える。
だからリーゼントやパンチパーマは、サラリーマンの七三分けに当たり、刺繍入り学ランは、背広にネクタイを締めることと同じなのだ。
彼等がタバコやシンナーを吸うのも、好き好んで吸っているのではなく、不良のマナーとしてやむを得ず嗜んでいた面も大きいのではないかと思う(こちらはサラリーマンの「酒席」や「接待ゴルフ」に該当するだろうか)。
それから、不良の基本姿勢とされる「ウンコ座り」だが、あれは足腰に相当な負担がかかる。あの姿勢を維持するには、ある種の勤勉さが必要である。つまり、不良は基本的に「真面目」なのだ。
さてそれでは、不良の世界はいつ誕生したのだろうか。
少なくとも戦前まではなかったはずである。歴史社会学者の竹内洋によれば、学歴社会は、学歴がすべての人々の重要事になり始めた1960年代後半に現れたという(『大衆の幻像』)。おそらくはその時期に不良の世界の基盤は生まれ、大学進学率が高止まりする頃にその最盛期を迎えたのではないだろうか。
ところで、不良にせよ暴走族にせよ、その数がとみに減ってきている。ビー・バップ・ハイスクールに象徴されるような典型的な不良は、小生が子供の頃の80~90年代までは少なからず生息していたが、近頃はほとんど目にすることはなくなった。これは何故なのか。(スケ番やレディースなどの、女の不良も存在するが、こちらも対象外とさせてもらう。また、最近話題の「マイルドヤンキー」は、本来の意味での不良とは異なると考えているので、やはり言及しない)
それから不良漫画の数も、徐々に減ってきているのではないだろうか。
「PTAの苦情」といった要因もあるだろうが、やはり需要の低下が大きいのではないだろうか。チャンピオンあたりでは今なお盛んなようだが、それにしたところで、現役世代が教科書代わりに読んでいるというよりも、むしろ元不良が、過去を懐かしむために耽読しているのではないだろうか(いや、推測ですけどね)。
先にも書いたことだが、ファルスは父権社会を前提とする。近代という時代は、人間が理性の力で自然を征服してゆき、その影響力を増大させていく指向性を有していた。その性格上、近代は父権的な理論で構成されていた。そして現在、今日より明日が良くなると信じられてきた、進歩主義を旨とする近代が、限界を迎えようとしている。
すると、当然ファルスも失墜する。他人を蹴落としてでも手に入れようとしていたファルスが、その輝きを失ってしまう。
今の若者には上昇志向がない、とよく言われる。出世しようとか、より高い賃金を求めようとせず、「そこそこ」であろうとしている、と。
より高い社会的地位を求めないということは、当然その前段の学歴競争にも力を入れない、ということになる。年長者は、この若者の傾向をよく「情けない」と嘆く。しかし、ファルスはかつて程の輝きを備えてはいない。魅力的なファルスは、既に先人達に専有されており、努力してもあまり良いファルスは回ってこないという面もあるし、苦労してファルスを入手したとしても、次の日にはゴミになってしまうかもしれないという、社会の不安定性の面もある。また、環境破壊が深刻化している現状では、強大なファルスの獲得が、環境悪化に直結しかねない可能性を考えると、積極的な上昇志向が憚られるのも無理はない。
「ファルスの獲得競争なんてバカバカしい。そんな意味のないモノ、苦労して手に入れたくないよ」
それが若者の本音である。
若者は、表のファルスの獲得を目指さなくなった。同時に、裏のファルスを狙う者も減少した。若者のそこそこ指向と、不良・暴走族の減少はパラレルである。
ひとつ注意しておくが、これは表のファルスと裏のファルスが共に失墜した、ということではない。表のファルスが魅力を失ったため、その獲得競争から脱落することで被るダメージが軽微なものとなり、裏の世界に逃げ込む必要性が減じた、ということである。

(後編に続く)


オススメ関連本・見田宗介『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』河出書房新社