外山滋比古の『お山の大将』(みすず書房)を読んでの気付き。
同書はエッセイで、著者の外山は英文学を専門とする、大学教授や評論家も務める文学博士で、おもにベストセラーになった『思考の整理学』で知られている。外山は、この本に収録された「気はやさしくて、チカラモチ・・・・・・されど」の中で、「昔の話にはPRを目的としたらしいものがすくなくない」として、おとぎ話の桃太郎を次のように分析してみせる。
川から流れてきた桃をおばあさんがひろってくる。(中略)
流れてきたのはくだものではなくて、女性だったとしたらどうか。流れものと言っては人聞きが悪いが、よそから迎えたお嫁さんというように考えれば、さしさわりがない。モモとは桃のことではなくて、人間の体の一部のことだと思ってみてはいかが。
(中略)
どうして流れてきた女、遠くからのお嫁さんがいいのか。
同じ部族の間で代々、同族が結婚を重ねていると、生まれる子が虚弱になりやすい。危険である。いまの法律が三等親以内の婚姻を禁じているのも、そのためである。同種繁殖(インブリーディング)がよくないというのは優生学の常識であるが、大昔から、そんなことがわかっていたわけがない。
いたましい犠牲がたくさん出て、どうしたら、こういうことが避けられるか、みんなが考えた。そして、遠くからきた女の産む子が強く育つことを発見した。
せっかくの新発見である。世間に広めたい。しかしテレビ、ラジオは言うまでもなく、新聞、週刊誌、雑誌もなければ、本すら一般の人たちの手の届かないところにあった時代である。口コミによるほかはない。それで桃太郎の話が生まれた。
目からウロコとはまさにこのこと。
桃太郎の設定には以前から疑問の声があった。桃太郎が桃から生まれる必然性がわからない、という疑問である。たとえば、桃太郎が「口から桃汁を噴き出す」とか、「肌が桃でできている」などの身体的特徴を備えているならともかく、ただ単に「元気がよくて力持ち」というだけなら、普通に人間から生まれていてもよかったのではないか、というわけだ(マツコ・デラックスもどこかでそんなことを言っていた)。
外山の説明は、この疑問へのきれいな回答になっている。
人類は村落共同体を築いて以降、極めて閉鎖的な生活を営んできた。特にその傾向が強い共同体では、部内者同士での婚姻が繰り返され、結果として集団全体がひとつの家族のように均質化されることになった。そんな時に外部から自分たちとかけ離れた遺伝子を持ちこんで、血の活性化を図る必要がでてきたわけだ。
補足させてもらえば、大きな桃とは、出産適齢期にある女性のお尻の比喩で、特に元気な赤ん坊を産むことができる安産型のそれを指しているのだろう。また、外山は引用箇所のあとで、桃太郎の母にはお婿さんがいない点に触れているが、これはつまり、重要なのはよそからお嫁さんを連れてくることであって、その相手は(共同体内の男であれば)誰でもいい、という暗黙のメッセージなのだと思われる。
さらに外山の分析は続き、桃太郎はすぐれた政治家で、イヌ族とキジ族とサル族が三国志よろしく争っていたのを、キビダンゴという褒美をあたえて配下においた。そしてそのあと、三派が連合してクーデターを起こさないように外部に共通の敵をしつらえた。それが鬼ヶ島征伐だ。・・・という解釈を施しているのだが、正直こちらは今ひとつ説得力に欠けるというか、先に引用した遺伝学的解釈のほうが遥かに魅力的に感じる。
なんだか、彼にならって昔話の分析に乗り出してみたい衝動に駆られてしまう話である。
同書はエッセイで、著者の外山は英文学を専門とする、大学教授や評論家も務める文学博士で、おもにベストセラーになった『思考の整理学』で知られている。外山は、この本に収録された「気はやさしくて、チカラモチ・・・・・・されど」の中で、「昔の話にはPRを目的としたらしいものがすくなくない」として、おとぎ話の桃太郎を次のように分析してみせる。
川から流れてきた桃をおばあさんがひろってくる。(中略)
流れてきたのはくだものではなくて、女性だったとしたらどうか。流れものと言っては人聞きが悪いが、よそから迎えたお嫁さんというように考えれば、さしさわりがない。モモとは桃のことではなくて、人間の体の一部のことだと思ってみてはいかが。
(中略)
どうして流れてきた女、遠くからのお嫁さんがいいのか。
同じ部族の間で代々、同族が結婚を重ねていると、生まれる子が虚弱になりやすい。危険である。いまの法律が三等親以内の婚姻を禁じているのも、そのためである。同種繁殖(インブリーディング)がよくないというのは優生学の常識であるが、大昔から、そんなことがわかっていたわけがない。
いたましい犠牲がたくさん出て、どうしたら、こういうことが避けられるか、みんなが考えた。そして、遠くからきた女の産む子が強く育つことを発見した。
せっかくの新発見である。世間に広めたい。しかしテレビ、ラジオは言うまでもなく、新聞、週刊誌、雑誌もなければ、本すら一般の人たちの手の届かないところにあった時代である。口コミによるほかはない。それで桃太郎の話が生まれた。
目からウロコとはまさにこのこと。
桃太郎の設定には以前から疑問の声があった。桃太郎が桃から生まれる必然性がわからない、という疑問である。たとえば、桃太郎が「口から桃汁を噴き出す」とか、「肌が桃でできている」などの身体的特徴を備えているならともかく、ただ単に「元気がよくて力持ち」というだけなら、普通に人間から生まれていてもよかったのではないか、というわけだ(マツコ・デラックスもどこかでそんなことを言っていた)。
外山の説明は、この疑問へのきれいな回答になっている。
人類は村落共同体を築いて以降、極めて閉鎖的な生活を営んできた。特にその傾向が強い共同体では、部内者同士での婚姻が繰り返され、結果として集団全体がひとつの家族のように均質化されることになった。そんな時に外部から自分たちとかけ離れた遺伝子を持ちこんで、血の活性化を図る必要がでてきたわけだ。
補足させてもらえば、大きな桃とは、出産適齢期にある女性のお尻の比喩で、特に元気な赤ん坊を産むことができる安産型のそれを指しているのだろう。また、外山は引用箇所のあとで、桃太郎の母にはお婿さんがいない点に触れているが、これはつまり、重要なのはよそからお嫁さんを連れてくることであって、その相手は(共同体内の男であれば)誰でもいい、という暗黙のメッセージなのだと思われる。
さらに外山の分析は続き、桃太郎はすぐれた政治家で、イヌ族とキジ族とサル族が三国志よろしく争っていたのを、キビダンゴという褒美をあたえて配下においた。そしてそのあと、三派が連合してクーデターを起こさないように外部に共通の敵をしつらえた。それが鬼ヶ島征伐だ。・・・という解釈を施しているのだが、正直こちらは今ひとつ説得力に欠けるというか、先に引用した遺伝学的解釈のほうが遥かに魅力的に感じる。
なんだか、彼にならって昔話の分析に乗り出してみたい衝動に駆られてしまう話である。