(前編からの続き)
少し冷静に見ていただきたい。ニュース番組が冒頭から取り上げているからといって、それが果たして「社会的影響力の高い」事件と言えるだろうか。ただ単に、「話題性が高い」だけではないだろうか。社会的影響力など皆無に等しい、放っておいても大した害悪はもたらさない事件ではないだろうか。不倫もまた、その程度のものと断じて構わないのではないだろうか。
話題性が高ければ、新鮮に映る。新鮮に映れば、とんでもないことが起きている、と思うだろう。しかし、その事件に感じた「衝撃の強さ」と、「社会的影響力の高さ」は、イコールではない。
「衝撃の強さ」をいったん脇に置いて、「社会的影響力の高さ」はどの程度のものなのか、を見定める必要がある。そうすれば、それがどれほどの非難に値する事件なのか、がわかるだろう。
小生は、この「メディア‐世間‐インターネット」の三位一体によって行われている〈報道/バッシング〉の在り様を、いじめだと思っている。
「一定の年齢に達した大人が犯した犯罪や非常識を咎めるのは、倫理的に正当な行為であって、いじめには当たらない」と思われるだろうか。だが、「自分(達)より力や立場が弱く、逆らうことができない者に対して行われる、肉体的・精神的苦痛をもたらす行為」をいじめとするならば、「社会的影響力の低い事件の過剰報道」は、紛れもなくいじめである。
「メディア‐世間‐インターネット」がスクラムを組めば、凄まじい力となる。一個人や単一の団体では、到底太刀打ちできない。抗おうとすれば、反省していないと見做され、より大きな攻撃となって跳ね返ってくる。だから、非難が収まるまで、じっと縮こまって耐え忍ぶしかない。
一切の反論を許されず、好き勝手叩かれるままの状態に甘んじねばならない様を、いじめと呼ぶのではないのか。
ニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターは、悲痛な表情で子供のいじめ事件に言及する。いじめた側や、適切な対応をしなかったとおぼしき学校を非難し、いじめられた子供に同情の言葉を囁く。しかし、話題が転じるや否や、その同じ口で、いじめの言葉を吐き散らすのである。
これが、ずっと昔から、連日連夜、飽くことなく繰り返されてきた、社会の木鐸とされる、我が国の報道機関の姿である。
報道は基本的に「正義の執行」として行われるが、子供のいじめもまた、往々にして正義の名のもとに執り行われる。人は自らを正義と信じて疑わない時、内省的になることができない。正当性を疑うことなく行為を遂行させ、場合によっては破局的な結末をもたらしてしまう。
子供のいじめは、時として自殺という結果をもたらすが、「メディア‐世間‐インターネット」による大人のいじめもまた、多くの自殺者を生み出している。
2004年2月に起こった鳥インフルエンザ事件では、ちょうど鳥インフルエンザの危険性が喧伝されていた頃に、その感染のおそれがありながら死んだ鶏を流通させたとして京都にある養鶏場が大バッシングを受けた。この養鶏場の会長夫妻は、最終的に首を括っている。
2005年11月に発覚したマンション等の建築物耐震強度偽装事件では、槍玉に挙げられた建築士の妻が投身自殺している。
2013年6月に、岩手の県会議員が、受診した病院で本名ではなく番号で呼ばれたことに腹を立て、代金を支払わずに帰宅し、その顛末を自身のブログに綴ったことで、非常識との謗りを受けた事件でも、やはりこの県議がメディアに報じられてからひと月も経たないうちに自ら命を絶っている。
今思い出せるのは上に挙げた3件だけだが、報道によって自死に追いやられた事例は他にいくらでもあるし、そこまではいかなくても、精神に変調をきたしたり、家族や友人などの人間関係が壊れたり、仕事や学校を辞めざるを得なくなったりするなどの、人生を狂わされる事例であれば、その数はもっと膨大なものとなるだろう。
震災によって避難生活を強いられた結果、心労によって死に追いやられる事例を「災害関連死」と呼ぶが、それと同様に「報道関連死」と呼ぶべき事態が出来していると言わなければならない。
このように述べれば、常日頃からメディアに批判的な人々は賛意を表してくれるだろう。だが、メディアを批判するだけでは駄目なのだ。メディア批判の言説が、「己を正義と信じて疑わない姿勢」によって繰り出されているとするならば、それは「己を正義と信じて疑わないメディア」の映し絵でしかない。
鏡に向かって文句を言ってもしょうがない。原因は、メディアの側にだけあるのではない。「正義と信じて疑わない姿勢」そのものが根本的な問題なのであって、世間の側、つまりはほかならぬ我々自身の責任でもあるのだ。
自分以外の誰かを批判するだけでは、根本的な解決にはならない。そもそも、「自分以外の誰かを批判する態度」こそが、いじめを生み出す温床なのだから。
批判ももちろん必要ではあるだろう。だがそれと同時に、そして批判以上に、反省の身振りが不可欠なのである。我々世間はメディアと結託し、日々いじめを行っている。だから、メディアに反省を促すとともに、自らも内省しなくてはならない。そうしなければ、常にターゲットを見付けては集団で石を投げる我々の、陰湿な陋習は今後も温存され続けるだろう。
子供のいじめがなかなかなくならない原因の一つ。それは、大人達が公然といじめを行っているからである。
大人達は、口では「いじめはいけない」と言っておきながら、自らは毎日のようにいじめの言葉を吐いている。子供は、大人のそんな姿を見て育つ。そして、問わず語らずいじめの仕方を学習している。同時に、無意識のレベルで、「大人は口ではああ言っているけど、本当はいじめを肯定しているんだ」と理解している。
子供は、大人からいじめを学んでいる。「いじめはよくないと言いながらいじめをする大人」がいなくならない限り、学びの連鎖は終わらない。
だから、もうはっきりと言おう。この国の大人達に、子供のいじめを非難する資格などないのだ。
自分達が嬉々として、率先していじめを行っているのだから。
子供のいじめを非難するより先に、自分がいじめをやめるのが筋というものだろう。
「いじめはやめなさい」という言葉は、子供ではなく、大人達にこそ向けられねばならない。
少し冷静に見ていただきたい。ニュース番組が冒頭から取り上げているからといって、それが果たして「社会的影響力の高い」事件と言えるだろうか。ただ単に、「話題性が高い」だけではないだろうか。社会的影響力など皆無に等しい、放っておいても大した害悪はもたらさない事件ではないだろうか。不倫もまた、その程度のものと断じて構わないのではないだろうか。
話題性が高ければ、新鮮に映る。新鮮に映れば、とんでもないことが起きている、と思うだろう。しかし、その事件に感じた「衝撃の強さ」と、「社会的影響力の高さ」は、イコールではない。
「衝撃の強さ」をいったん脇に置いて、「社会的影響力の高さ」はどの程度のものなのか、を見定める必要がある。そうすれば、それがどれほどの非難に値する事件なのか、がわかるだろう。
小生は、この「メディア‐世間‐インターネット」の三位一体によって行われている〈報道/バッシング〉の在り様を、いじめだと思っている。
「一定の年齢に達した大人が犯した犯罪や非常識を咎めるのは、倫理的に正当な行為であって、いじめには当たらない」と思われるだろうか。だが、「自分(達)より力や立場が弱く、逆らうことができない者に対して行われる、肉体的・精神的苦痛をもたらす行為」をいじめとするならば、「社会的影響力の低い事件の過剰報道」は、紛れもなくいじめである。
「メディア‐世間‐インターネット」がスクラムを組めば、凄まじい力となる。一個人や単一の団体では、到底太刀打ちできない。抗おうとすれば、反省していないと見做され、より大きな攻撃となって跳ね返ってくる。だから、非難が収まるまで、じっと縮こまって耐え忍ぶしかない。
一切の反論を許されず、好き勝手叩かれるままの状態に甘んじねばならない様を、いじめと呼ぶのではないのか。
ニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターは、悲痛な表情で子供のいじめ事件に言及する。いじめた側や、適切な対応をしなかったとおぼしき学校を非難し、いじめられた子供に同情の言葉を囁く。しかし、話題が転じるや否や、その同じ口で、いじめの言葉を吐き散らすのである。
これが、ずっと昔から、連日連夜、飽くことなく繰り返されてきた、社会の木鐸とされる、我が国の報道機関の姿である。
報道は基本的に「正義の執行」として行われるが、子供のいじめもまた、往々にして正義の名のもとに執り行われる。人は自らを正義と信じて疑わない時、内省的になることができない。正当性を疑うことなく行為を遂行させ、場合によっては破局的な結末をもたらしてしまう。
子供のいじめは、時として自殺という結果をもたらすが、「メディア‐世間‐インターネット」による大人のいじめもまた、多くの自殺者を生み出している。
2004年2月に起こった鳥インフルエンザ事件では、ちょうど鳥インフルエンザの危険性が喧伝されていた頃に、その感染のおそれがありながら死んだ鶏を流通させたとして京都にある養鶏場が大バッシングを受けた。この養鶏場の会長夫妻は、最終的に首を括っている。
2005年11月に発覚したマンション等の建築物耐震強度偽装事件では、槍玉に挙げられた建築士の妻が投身自殺している。
2013年6月に、岩手の県会議員が、受診した病院で本名ではなく番号で呼ばれたことに腹を立て、代金を支払わずに帰宅し、その顛末を自身のブログに綴ったことで、非常識との謗りを受けた事件でも、やはりこの県議がメディアに報じられてからひと月も経たないうちに自ら命を絶っている。
今思い出せるのは上に挙げた3件だけだが、報道によって自死に追いやられた事例は他にいくらでもあるし、そこまではいかなくても、精神に変調をきたしたり、家族や友人などの人間関係が壊れたり、仕事や学校を辞めざるを得なくなったりするなどの、人生を狂わされる事例であれば、その数はもっと膨大なものとなるだろう。
震災によって避難生活を強いられた結果、心労によって死に追いやられる事例を「災害関連死」と呼ぶが、それと同様に「報道関連死」と呼ぶべき事態が出来していると言わなければならない。
このように述べれば、常日頃からメディアに批判的な人々は賛意を表してくれるだろう。だが、メディアを批判するだけでは駄目なのだ。メディア批判の言説が、「己を正義と信じて疑わない姿勢」によって繰り出されているとするならば、それは「己を正義と信じて疑わないメディア」の映し絵でしかない。
鏡に向かって文句を言ってもしょうがない。原因は、メディアの側にだけあるのではない。「正義と信じて疑わない姿勢」そのものが根本的な問題なのであって、世間の側、つまりはほかならぬ我々自身の責任でもあるのだ。
自分以外の誰かを批判するだけでは、根本的な解決にはならない。そもそも、「自分以外の誰かを批判する態度」こそが、いじめを生み出す温床なのだから。
批判ももちろん必要ではあるだろう。だがそれと同時に、そして批判以上に、反省の身振りが不可欠なのである。我々世間はメディアと結託し、日々いじめを行っている。だから、メディアに反省を促すとともに、自らも内省しなくてはならない。そうしなければ、常にターゲットを見付けては集団で石を投げる我々の、陰湿な陋習は今後も温存され続けるだろう。
子供のいじめがなかなかなくならない原因の一つ。それは、大人達が公然といじめを行っているからである。
大人達は、口では「いじめはいけない」と言っておきながら、自らは毎日のようにいじめの言葉を吐いている。子供は、大人のそんな姿を見て育つ。そして、問わず語らずいじめの仕方を学習している。同時に、無意識のレベルで、「大人は口ではああ言っているけど、本当はいじめを肯定しているんだ」と理解している。
子供は、大人からいじめを学んでいる。「いじめはよくないと言いながらいじめをする大人」がいなくならない限り、学びの連鎖は終わらない。
だから、もうはっきりと言おう。この国の大人達に、子供のいじめを非難する資格などないのだ。
自分達が嬉々として、率先していじめを行っているのだから。
子供のいじめを非難するより先に、自分がいじめをやめるのが筋というものだろう。
「いじめはやめなさい」という言葉は、子供ではなく、大人達にこそ向けられねばならない。