今日は長芋です。
じゃがいもを原材料としながら、ここまでふんわり軽いスナック菓子があっただろうか。いや、ない。
シンプルな塩と油の味だけでずっと食べられる、サクサク揚げ菓子。
吉野家の話をします。庶民の味方の牛丼屋、吉野家の話。
あらかじめお断りしておきますが、吉野家好きの方は以下の文章を読まないでください。まあまあな悪口が含まれています。
では吉野家好きがいなくなったところで、まず最初にハッキリ言わせてもらいます。吉野家の牛丼はマズいです。
「激マズ」というほどではありません。「ややマズ」です。変な酸味があって、口当たりのよくないパサパサした低品質の肉。
「早い・安い・ウマい」というキャッチコピーがありますが、吉野家は「早い・安い・ややマズい」です。このマズさは、「安さ」によってなんとか許容できるマズさなのですね。安さによって担保されてる味なのです。安くなければ、とても食べることはできません。たとえシャブ漬けにされた常務取締役企画本部長であったとしても。
僕も2,3回食べたことがあります。まだ熊本に住んでいた10代のころ、熊本に吉野家ができる前から、「庶民の味方の牛丼屋」との評判だけは聴こえており、その後、自宅から少し離れたところにオープンしたのを知って、行ってみました。
初めて食べたその味に、ハテナマークが浮かびました。素直においしいと思えなかったのです。
そのときのコンディションがよくなかったのか、さもなくば、舌が馴染んでなかっただけかもしれない。そう思って、2度ほど再訪しました。
やはり感想は同じでした。どうしてもおいしいとは思えない。
僕は、「吉野家はマズい」という結論にたどり着きました。世間の評判と逆行しますがしょうがない。それが自分の感覚です。
なので、よっぽどのことがない限り、もう吉野家は食べないと決めました。ちなみに、松屋にはちょいちょい行きますが、食べるのはほぼ定食メニュー。すき家は生活圏内にないので行きません。
世の吉野家好きの人、吉野家の牛丼をありがたがって食べている人は、何よりも300円未満という安さにつられて食べているのでしょう。それを「おいしい」と言っているのは、「この安さであれば、この程度の味でも妥当」ということです。あるいは、ガマンできる範囲の「ややマズ」を、「これはウマいんだ」と自己暗示をかけることで、毎日食べても苦痛に感じないようにした。
つまり、
食費をおさえるために吉野家を選ぶ→できるだけ毎日食べたいが、マズいものを毎日というのは苦痛だ→この牛丼はややマズではなく、どちらかというとウマいほうだと自分に言い聞かせる→錯覚が生まれ、それによって吉野家を毎日食べられるようになる
このような流れがあったのでしょう。
「食費をおさえる」という現実的な取り組みは、マズいものをおいしいと錯覚させる作用まであるのです。不況とは恐ろしいものです。
で、そんな吉野家ですが、牛丼を販売できなくなった期間がありました。2003年の12月、アメリカでBSE(狂牛病)に感染したおそれのある牛が見つかり、アメリカ産の牛肉が輸入停止になったためです。吉野家では、翌2004年の2月に牛丼の販売が停止され、それは2006年の9月まで、約2年半続きました。
その間、代わりに豚丼を販売したり、牛丼がないことに腹を立てた客が従業員を暴行するといった事件が発生するなど、様々な出来事が起こり、ニュースで頻繁に報じられていました。
その販売休止期間中、東京で何かのイベントがあって、その会場内限定で吉野家の牛丼が販売されたことがありました。入場料を払った客だけ牛丼が食べられたのです。特別な出店ということで、牛丼の値段は2000円か3000円くらいになっていました。
その会場の様子がニュースで流れていたのですが、吉野家ファンが詰めかけており、泣きながら牛丼をほおばっている人までいました。
その中で、インタビュアーがお客さんに、「高くないですか?」と尋ねると、「値段は関係ない!大事なのは味!」という答えが返ってきたんですよ。
僕は、「だったら国産牛使った高級牛丼食べろよ!」と思いました。まあ、牛丼ってのはそもそも大衆的な食べ物であって、高級牛丼なんてものは存在してないのかもしれませんが。
それにしても、なんという転倒。なんという倒錯でしょう。
本来なら、吉野家の価値は「安さ」であったはずです。安いからこそ、なんとか食べられる。安さによって、ややマズをガマンできる。
だから、安くなくなれば、価値もなくなるはずです。マズいものに大枚払う価値などない。
なのに、毎日毎日吉野家を食べ、その味にならされてしまった人たちは、それを強固に「おいしい」と思い込むようになった。その思い込みのせいで、安くなければ食べる価値のないややマズの牛丼に、2000円か3000円払うようになってしまった。
習慣というのは、なんと恐ろしいものでしょう。マズいものでも長期間食べずにいると、食べたくてしょうがなくなってしまうのです。
吉野家の牛丼が販売休止になっていた期間、吉野家ファンが、アメリカ産の牛肉の輸入をすぐに再開しろと訴えていました。はやく牛丼が食べたいという訴えです。
当時、BSEの恐ろしさが広く喧伝されていたにもかかわらず、それでも安い牛丼を食べたいと考えている人が大勢いたのです。
貧乏というのは、なんと恐ろしいものでしょう。脳がスポンジ状になるリスクよりも、食費の高騰のほうを憂うようになっていたのです。
でもまあ、その後BSEを由来としたプリオン病に感染した人は現れていませんので、結果的には騒ぐほどのことではなかったのかもしれませんが。
ただ、食べてすぐに発症するのではなく、発症まで時間がかかるということもあり得ます。発症するには、一定量のBSE感染肉を食べねばならず、その量に達するには、何年か感染肉を食べ続けねばならない、とかですね。
なんでも、生物学者の福岡伸一さんによると、現代の人類ってのはプリオン病にかかりにくいらしいんですね。なぜかっつーと、「人類は歴史の中でたびたび飢饉を経験してきた」からだそうで。
プリオン病は、共食いによって発症します。人類は過去、飢饉が起きた際、食べられるものがなくなると、やむを得ず共食いをしてきたのです。
そこでプリオン病を発症した人がいた。発症した人は、そのまま亡くなった。
しかし、発症しない人もいた。遺伝子的に、プリオン病に強い人もいたのです。その人たちは、共食いしてもプリオン病を発症せず、生き延びた。
そうやって生き残った人たちが、我々の先祖なのです。つまり人類は、飢饉に見舞われるたびに共食いをして、プリオン病に耐性のある遺伝子の人だけが生き残る、という経験をくり返してきたのです。飢饉というふるいが、プリオン病に強い人を選別してきた。
そのため現代の我々は、プリオン病に強いのです。それは、ご先祖様が共食いをしてくれたおかげなのです。ということは、おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさん、というふうに先祖をたどっていけば、必ずどこかの時点で共食いをした人がいるということです。
つまりそれは、人類が共食いをしてきたから安い牛丼をおいしくいただける、ということ?
あまり考えすぎないほうがいいかもしれません。
なんにせよ、僕はこれからも吉野家食べませんけどね。
じゃがいもを原材料としながら、ここまでふんわり軽いスナック菓子があっただろうか。いや、ない。
シンプルな塩と油の味だけでずっと食べられる、サクサク揚げ菓子。
吉野家の話をします。庶民の味方の牛丼屋、吉野家の話。
あらかじめお断りしておきますが、吉野家好きの方は以下の文章を読まないでください。まあまあな悪口が含まれています。
では吉野家好きがいなくなったところで、まず最初にハッキリ言わせてもらいます。吉野家の牛丼はマズいです。
「激マズ」というほどではありません。「ややマズ」です。変な酸味があって、口当たりのよくないパサパサした低品質の肉。
「早い・安い・ウマい」というキャッチコピーがありますが、吉野家は「早い・安い・ややマズい」です。このマズさは、「安さ」によってなんとか許容できるマズさなのですね。安さによって担保されてる味なのです。安くなければ、とても食べることはできません。たとえシャブ漬けにされた常務取締役企画本部長であったとしても。
僕も2,3回食べたことがあります。まだ熊本に住んでいた10代のころ、熊本に吉野家ができる前から、「庶民の味方の牛丼屋」との評判だけは聴こえており、その後、自宅から少し離れたところにオープンしたのを知って、行ってみました。
初めて食べたその味に、ハテナマークが浮かびました。素直においしいと思えなかったのです。
そのときのコンディションがよくなかったのか、さもなくば、舌が馴染んでなかっただけかもしれない。そう思って、2度ほど再訪しました。
やはり感想は同じでした。どうしてもおいしいとは思えない。
僕は、「吉野家はマズい」という結論にたどり着きました。世間の評判と逆行しますがしょうがない。それが自分の感覚です。
なので、よっぽどのことがない限り、もう吉野家は食べないと決めました。ちなみに、松屋にはちょいちょい行きますが、食べるのはほぼ定食メニュー。すき家は生活圏内にないので行きません。
世の吉野家好きの人、吉野家の牛丼をありがたがって食べている人は、何よりも300円未満という安さにつられて食べているのでしょう。それを「おいしい」と言っているのは、「この安さであれば、この程度の味でも妥当」ということです。あるいは、ガマンできる範囲の「ややマズ」を、「これはウマいんだ」と自己暗示をかけることで、毎日食べても苦痛に感じないようにした。
つまり、
食費をおさえるために吉野家を選ぶ→できるだけ毎日食べたいが、マズいものを毎日というのは苦痛だ→この牛丼はややマズではなく、どちらかというとウマいほうだと自分に言い聞かせる→錯覚が生まれ、それによって吉野家を毎日食べられるようになる
このような流れがあったのでしょう。
「食費をおさえる」という現実的な取り組みは、マズいものをおいしいと錯覚させる作用まであるのです。不況とは恐ろしいものです。
で、そんな吉野家ですが、牛丼を販売できなくなった期間がありました。2003年の12月、アメリカでBSE(狂牛病)に感染したおそれのある牛が見つかり、アメリカ産の牛肉が輸入停止になったためです。吉野家では、翌2004年の2月に牛丼の販売が停止され、それは2006年の9月まで、約2年半続きました。
その間、代わりに豚丼を販売したり、牛丼がないことに腹を立てた客が従業員を暴行するといった事件が発生するなど、様々な出来事が起こり、ニュースで頻繁に報じられていました。
その販売休止期間中、東京で何かのイベントがあって、その会場内限定で吉野家の牛丼が販売されたことがありました。入場料を払った客だけ牛丼が食べられたのです。特別な出店ということで、牛丼の値段は2000円か3000円くらいになっていました。
その会場の様子がニュースで流れていたのですが、吉野家ファンが詰めかけており、泣きながら牛丼をほおばっている人までいました。
その中で、インタビュアーがお客さんに、「高くないですか?」と尋ねると、「値段は関係ない!大事なのは味!」という答えが返ってきたんですよ。
僕は、「だったら国産牛使った高級牛丼食べろよ!」と思いました。まあ、牛丼ってのはそもそも大衆的な食べ物であって、高級牛丼なんてものは存在してないのかもしれませんが。
それにしても、なんという転倒。なんという倒錯でしょう。
本来なら、吉野家の価値は「安さ」であったはずです。安いからこそ、なんとか食べられる。安さによって、ややマズをガマンできる。
だから、安くなくなれば、価値もなくなるはずです。マズいものに大枚払う価値などない。
なのに、毎日毎日吉野家を食べ、その味にならされてしまった人たちは、それを強固に「おいしい」と思い込むようになった。その思い込みのせいで、安くなければ食べる価値のないややマズの牛丼に、2000円か3000円払うようになってしまった。
習慣というのは、なんと恐ろしいものでしょう。マズいものでも長期間食べずにいると、食べたくてしょうがなくなってしまうのです。
吉野家の牛丼が販売休止になっていた期間、吉野家ファンが、アメリカ産の牛肉の輸入をすぐに再開しろと訴えていました。はやく牛丼が食べたいという訴えです。
当時、BSEの恐ろしさが広く喧伝されていたにもかかわらず、それでも安い牛丼を食べたいと考えている人が大勢いたのです。
貧乏というのは、なんと恐ろしいものでしょう。脳がスポンジ状になるリスクよりも、食費の高騰のほうを憂うようになっていたのです。
でもまあ、その後BSEを由来としたプリオン病に感染した人は現れていませんので、結果的には騒ぐほどのことではなかったのかもしれませんが。
ただ、食べてすぐに発症するのではなく、発症まで時間がかかるということもあり得ます。発症するには、一定量のBSE感染肉を食べねばならず、その量に達するには、何年か感染肉を食べ続けねばならない、とかですね。
なんでも、生物学者の福岡伸一さんによると、現代の人類ってのはプリオン病にかかりにくいらしいんですね。なぜかっつーと、「人類は歴史の中でたびたび飢饉を経験してきた」からだそうで。
プリオン病は、共食いによって発症します。人類は過去、飢饉が起きた際、食べられるものがなくなると、やむを得ず共食いをしてきたのです。
そこでプリオン病を発症した人がいた。発症した人は、そのまま亡くなった。
しかし、発症しない人もいた。遺伝子的に、プリオン病に強い人もいたのです。その人たちは、共食いしてもプリオン病を発症せず、生き延びた。
そうやって生き残った人たちが、我々の先祖なのです。つまり人類は、飢饉に見舞われるたびに共食いをして、プリオン病に耐性のある遺伝子の人だけが生き残る、という経験をくり返してきたのです。飢饉というふるいが、プリオン病に強い人を選別してきた。
そのため現代の我々は、プリオン病に強いのです。それは、ご先祖様が共食いをしてくれたおかげなのです。ということは、おじいさんのおじいさんのそのまたおじいさん、というふうに先祖をたどっていけば、必ずどこかの時点で共食いをした人がいるということです。
つまりそれは、人類が共食いをしてきたから安い牛丼をおいしくいただける、ということ?
あまり考えすぎないほうがいいかもしれません。
なんにせよ、僕はこれからも吉野家食べませんけどね。