徳丸無明のブログ

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社会運動の陥穽に関する2つの断章

2016-08-23 22:57:28 | 雑文

元外務省主任分析官の作家・佐藤優は、『国家の自縛』『北方領土「特命交渉」』等の著作の中で、「北方領土ビジネス」なるものの存在を指摘している。
北方領土返還運動を行っている団体(と言っても、私設団体ではなく、独立行政法人に限定されるのだろうけど)には、国から予算が下りる。つまり「カネになる」わけだが、この運動に携わっている運動家の中には、返還に向けて事態が前進しようとすると、敢えて足を引っ張る者がいるという。返還運動が彼等の食い扶持になっているので、北方領土返還が達成されてしまうと、「メシの食い上げ」になってしまう。それゆえ――意識的にか無意識的にかはわからないが――返還が達成されないように妨害行為に及ぶのだそうだ。
もともとは純粋な善意・正義感から運動に関わり始めたのかもしれない。だが、それが「ビジネス」になってしまうと、「失業したくない」という願望が芽生えてしまう。また、中には最初から運動がカネになることを理解したうえで入団してくる者も出てくるだろう。
お金の問題だけではない。社会運動を長く続けていると、それが生活の一部、もしくは生き甲斐になっていく。すると、「生き甲斐を失いたくない」「運動を止めたら、何をすればいいのかわからなくなる」という思いが生まれてしまう。
そうなると、当初は「社会を変革する」という目的があって、その達成の手段として社会運動をしていたはずが、社会運動そのものが目的となってしまい、変革は手段へと頽落してしまう。
かくして、何の変革ももたらさない不毛な社会運動が継続されていく。
60年代に隆盛を極めた新左翼による学生運動は、次第に思想の対立から党派分裂を繰り返し、内ゲバに陥っていった。理想社会を実現するためのものであった運動体が、思想の純化を追及する場、微細な思想の差異を言い立てて、自身の思想的優越を証明する場へと成り替わってしまったわけだ。
戦場カメラマンのロバート・キャパは、「戦場カメラマンにとっての一番の願いは失業することだ」という言葉を残している。社会運動もまた、基本的にはこのような姿勢で臨むべきなのだ。
自らの運動の達成として目的を遂げ、その達成によって運動体の存在意義を抹消する。それこそが本来あるべき、社会運動の真っ当な形なのである。そのことにどれだけ自覚的であるかが、運動を成功させるためのカギである、と言うこともできるだろう。


2008年1月15日、南極海を航行中の日本の捕鯨船に、高速ボートで横付けした環境保護団体・シーシェパードの船員2人が乗り込んでくるという事件が起こった。この時、日本船側は2人を丁重に保護したにも関わらず、シーシェパードの船長のポール・ワトソンは、「日本船の職員はメンバーに暴行を加えたうえ、マストに縛り付けた」と、事実無根の情報を国際社会に向けて発表した。
これ以外にも、シーシェパードが発信している嘘情報には、枚挙にいとまがない。この事実を、当のシーシェパード、並びに彼等の信奉者たちは、どのように捉えているのだろうか。
「捕鯨を禁じる」という大きな目標の為なら、多少の嘘は許されるという「嘘も方便」だとでも考えているのだろうか。だが、平気で嘘をつき続ける人達の、一体どこを信じたらいいのだろう。彼等の発言のうち、どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、わからないではないか。極端に言えば、「捕鯨を禁じないとクジラが滅んでしまう」という根本の主張ですら本当なのか、疑わざるを得なくなる。
小生は、嘘をつくことを全面的に否定するものではない。他人のため、社会全体のために敢えてつく嘘はあっていいし、むしろあるべきだと思っている。だがシーシェパードの嘘は、そのような種類の嘘とは異なる。それは、相手を貶め、自身が優位に立つための利己的な嘘でしかない。
この問題をつらつら考えていると、一つの疑念を禁じえなくなる。
それは「彼等はただ単に“正義として振る舞いたい願望”があるだけで、クジラや自然環境のことなど、本当はどうでもいいと思っているのではないか」という疑念である。
まず最初に正義として振る舞いたい意識があって、そのために見付けた手段がたまたま反捕鯨などの環境保護運動に過ぎなかったのではないか。あくまで目的(正義になること)のための手段に過ぎないから、いくらでも代替可能であり、本心ではどうでもいいと思っているのではないか。仮にクジラが絶滅してしまったとしても、嘆き悲しんだりすることなく、すぐに正義の使者であり続けるための次の材料を探すだけではないのか。
真に社会のため、地球全体のために活動している人には、「内省」という機能が備わっている。どのような方法がより社会のためになるのか、これまでの活動にどれほど意義があったか、善意の押し付けになってはいないか・・・等々。自分達の存在意義までひっくるめて疑ってかかるのが正しく内省的な人間であって、これらの社会活動に従事する者に欠かせない姿勢であろう。
しかし、シーシェパードの「自分達の正しさを信じて疑わなさ加減」はどうだろう。彼等はせいぜい「捕鯨船に与えたダメージが今ひとつだったので、次はもっと過激にやろう」といった反省を行うくらいで、自らの正当性それ自体は露ほども疑っていない。
また、正義として振る舞いたい願望は、神として振る舞いたい願望に発展する恐れがある。自身のやることなすことの一切を疑うことなき態度、一般人よりも一段高い位置に立ったつもりで説教・教示を垂れる態度などは、まさに神そのものだ。
俗にカルトと呼ばれる宗教団体の代表を務めるのは、何を言っても馬の耳に念仏な御仁ばかりである。神の御心を代行しているつもりの社会活動家に対してもまた、迷妄を晴らす術はないのだろうか。


オススメ関連本・佐々木正明『シー・シェパードの正体』扶桑社新書