今日は世界三大珍味のひとつです。
わずか100円ちょっとで珍味にありつけるのです。なんともありがたい話ではありませんか。珍味は甘かった。
中学のとき、友達が「世界のミュージシャンベスト100」というものがあると教えてくれたことがあります。世界中のミュージシャンの中から特に優れている100組(人)を、ランキング形式で発表したものでした。
友達は、「日本のミュージシャンはひとりも入っとらんとばい」と言いました。世界のレベルは高く、日本のミュージシャンはその水準まで届いていないのだ、ということでした。ランキングには、ビートルズやローリング・ストーンズやボブ・ディランやマイケル・ジャクソンなどが選出されていたように記憶しています。
対して、日本のミュージシャンはただのひとりもランクインしていませんでした。世界のサカモトも北島サブちゃんも入っていなかったのです。
僕は不愉快に感じながらも、やむを得ないことなのかと思いました。事実としてランキングに入っていない以上、それは評価されていないということであり、いくら自分が日本の音楽を優れたものと考えていようとも、世界中のありとあらゆる音楽を聴きこんでいる人達にとっては、けっしてレベルが高いとは言えないということなのかと。
中学生だった僕は、それを悔しさとともに納得せざるを得ませんでした。世界レベルとはそれほど高いものであり、日本はまだその足元にも及んでいないのだと。
ですが、今となってはそれは間違っていたとはっきり言えます。「世界のミュージシャンベスト100」の「世界」とは、「欧米」のことだったからです。
このランキングを決めた人たちはみな欧米人で、欧米のミュージシャンしか選別の対象になっていなかったのです。彼らは、「欧米」を「世界」と呼んでいたのです。
すべての国の有名どころの音楽を聴いたうえで公正に選出したのではなく、ごく限られた国の音楽しか聴いていなかったのです。アジアやアフリカや南米の音楽は、最初から範疇に入れていなかったのです。
ひょっとしたら、「ちゃんと世界中が対象になってますよ」という言い訳のために、中国やメキシコやソビエトやトルコのミュージシャンを「お情け程度」にランクインさせていたのかもしれませんが、それはあくまで「世界のミュージシャン100選」の体面を保つための方便。公正な評価でもなんでもなかった。
結局、「世界のミュージシャンベスト100」とは、そのような性質のものだったのです。欧米こそが世界だと思い上がった人々が、欧米以外の音楽、欧米以外の評価軸には目もくれず、自分達の感性、自分達の評価軸こそが絶対、もしくは普遍的なのだと決めつけていた。その独断と偏見に基づいて選定されていたのが「世界のミュージシャンベスト100」だったのです。テレ朝でやってる「プロレス総選挙」が露骨に新日寄りなのと一緒ですね。
中学のときの僕は、そのことに気づかなかった。思い上がった欧米様の前に、こうべを垂れるしかなかったのです。
このような思い上がりは、ほかの場面でも見られます。
たとえば、「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」という表記。僕は初めて「世界大戦」という言葉を聞いたとき、世界中のすべての国が入り乱れて繰り広げられた戦争のことだと思いました。「世界」大戦というからには、世界中で戦いが起こっているはずだと。つまり、すべての国が参戦しているはずだと解釈したのです。
でも、そうではありませんでした。世界大戦に加わっていたのは、おもに欧米の国々。それ以外はソ連やオスマン帝国や中華民国や日本など、ごく一部。あとは参戦したというより、巻き込まれたといったほうが正しい植民地の国々。
「世界大戦」とは、おもに欧米を舞台とした戦争であって、参戦していない国のほうが圧倒的多数でした。「世界」と呼ぶにはふさわしくない、極めて局地的な戦争だったのです。
子供のころの僕は、「世界中のすべての国が戦う」という光景を夢想してワクワクしていましたし、世界中の国が参戦していなかったと知ったときはガッカリしました。それは不謹慎極まりない幼稚な感情だったのですが、それはそれとして、「世界」という言葉の表記の問題もあります。
なぜ「欧米」を「世界」と呼ぶのか。なぜごく一部の国を世界そのものと取り違えるような錯誤を犯すのか。
それはひとことで言うなら、「思い上がり」にほかなりません。
自分達こそが世界の中心だと、自分達の基準こそが世界基準だという思い上がり。自分たちが世界を作り上げているのであって、すべての国は否応なしにそれに従わなければならないという思い上がり。このような思い上がりこそが、「世界とは欧米様のことだ」という妄想にリアリティを与えていたのです。
まあヨーロッパのほうじゃ「世界大戦」ではなく、「欧州大戦」って呼んでるらしいんですけどね。だとすると、思い上がった欧米様ではなく、欧米様のお仲間になりたいモンキーバナナの日本が、自分達はアジアではなく欧米に属していることにするべく、世界大戦という不自然な造語をでっち上げたのかもしれません。
あと「北米大陸」「南米大陸」っていう名称もねぇ。南米はアメリカじゃないじゃないですか。それにコロンビアだのベネズエラだの、アメリカと仲悪い国も多い。「南米は反米」ってわけわかんねーよ。
いずれにせよ、「世界」という言葉には、充分気をつけなくてはいけません。その「世界」とは、何を指しているのか。世界中のすべての国が含まれているのか。ごく一部の国や地域をもって「世界」と呼んでいるだけではないのか。その「世界」に含まれない国、こぼれ落ちている地域があるのではないか。
そして、その「世界」にスポットライトが当たるとき、そこからこぼれ落ちた国や地域はどのような状況なのか。光が当たれば、影もできる。輝かしい光を浴びる「世界」のその裏で、暗闇に覆われた「世界」に含まれない国々。その格差と差別。
ごく一部の国を「世界」と呼ぶとき、見えなくなっているものが確かにあるのです。
見たくないものを見ないために「世界」という言葉が使われているのかもしれない。「世界」という言葉によって見えなくなっているものほど、しっかり見据えないといけないものなのかもしれない。「世界」という言葉によって、意図的に現実が歪められているのかもしれない。
「世界」という言葉は、それだけ慎重に接する必要があるのです。自分が使う場合も、よく注意しなければならない。そうしないと、都合よく現実を改変する「自己中」の理論にからめ捕られてしまうかもしれない。気づかないうちに自分が自己中になっているかもしれないのです。
その「世界」は、本当に「世界」ですか。
わずか100円ちょっとで珍味にありつけるのです。なんともありがたい話ではありませんか。珍味は甘かった。
中学のとき、友達が「世界のミュージシャンベスト100」というものがあると教えてくれたことがあります。世界中のミュージシャンの中から特に優れている100組(人)を、ランキング形式で発表したものでした。
友達は、「日本のミュージシャンはひとりも入っとらんとばい」と言いました。世界のレベルは高く、日本のミュージシャンはその水準まで届いていないのだ、ということでした。ランキングには、ビートルズやローリング・ストーンズやボブ・ディランやマイケル・ジャクソンなどが選出されていたように記憶しています。
対して、日本のミュージシャンはただのひとりもランクインしていませんでした。世界のサカモトも北島サブちゃんも入っていなかったのです。
僕は不愉快に感じながらも、やむを得ないことなのかと思いました。事実としてランキングに入っていない以上、それは評価されていないということであり、いくら自分が日本の音楽を優れたものと考えていようとも、世界中のありとあらゆる音楽を聴きこんでいる人達にとっては、けっしてレベルが高いとは言えないということなのかと。
中学生だった僕は、それを悔しさとともに納得せざるを得ませんでした。世界レベルとはそれほど高いものであり、日本はまだその足元にも及んでいないのだと。
ですが、今となってはそれは間違っていたとはっきり言えます。「世界のミュージシャンベスト100」の「世界」とは、「欧米」のことだったからです。
このランキングを決めた人たちはみな欧米人で、欧米のミュージシャンしか選別の対象になっていなかったのです。彼らは、「欧米」を「世界」と呼んでいたのです。
すべての国の有名どころの音楽を聴いたうえで公正に選出したのではなく、ごく限られた国の音楽しか聴いていなかったのです。アジアやアフリカや南米の音楽は、最初から範疇に入れていなかったのです。
ひょっとしたら、「ちゃんと世界中が対象になってますよ」という言い訳のために、中国やメキシコやソビエトやトルコのミュージシャンを「お情け程度」にランクインさせていたのかもしれませんが、それはあくまで「世界のミュージシャン100選」の体面を保つための方便。公正な評価でもなんでもなかった。
結局、「世界のミュージシャンベスト100」とは、そのような性質のものだったのです。欧米こそが世界だと思い上がった人々が、欧米以外の音楽、欧米以外の評価軸には目もくれず、自分達の感性、自分達の評価軸こそが絶対、もしくは普遍的なのだと決めつけていた。その独断と偏見に基づいて選定されていたのが「世界のミュージシャンベスト100」だったのです。テレ朝でやってる「プロレス総選挙」が露骨に新日寄りなのと一緒ですね。
中学のときの僕は、そのことに気づかなかった。思い上がった欧米様の前に、こうべを垂れるしかなかったのです。
このような思い上がりは、ほかの場面でも見られます。
たとえば、「第一次世界大戦」「第二次世界大戦」という表記。僕は初めて「世界大戦」という言葉を聞いたとき、世界中のすべての国が入り乱れて繰り広げられた戦争のことだと思いました。「世界」大戦というからには、世界中で戦いが起こっているはずだと。つまり、すべての国が参戦しているはずだと解釈したのです。
でも、そうではありませんでした。世界大戦に加わっていたのは、おもに欧米の国々。それ以外はソ連やオスマン帝国や中華民国や日本など、ごく一部。あとは参戦したというより、巻き込まれたといったほうが正しい植民地の国々。
「世界大戦」とは、おもに欧米を舞台とした戦争であって、参戦していない国のほうが圧倒的多数でした。「世界」と呼ぶにはふさわしくない、極めて局地的な戦争だったのです。
子供のころの僕は、「世界中のすべての国が戦う」という光景を夢想してワクワクしていましたし、世界中の国が参戦していなかったと知ったときはガッカリしました。それは不謹慎極まりない幼稚な感情だったのですが、それはそれとして、「世界」という言葉の表記の問題もあります。
なぜ「欧米」を「世界」と呼ぶのか。なぜごく一部の国を世界そのものと取り違えるような錯誤を犯すのか。
それはひとことで言うなら、「思い上がり」にほかなりません。
自分達こそが世界の中心だと、自分達の基準こそが世界基準だという思い上がり。自分たちが世界を作り上げているのであって、すべての国は否応なしにそれに従わなければならないという思い上がり。このような思い上がりこそが、「世界とは欧米様のことだ」という妄想にリアリティを与えていたのです。
まあヨーロッパのほうじゃ「世界大戦」ではなく、「欧州大戦」って呼んでるらしいんですけどね。だとすると、思い上がった欧米様ではなく、欧米様のお仲間になりたいモンキーバナナの日本が、自分達はアジアではなく欧米に属していることにするべく、世界大戦という不自然な造語をでっち上げたのかもしれません。
あと「北米大陸」「南米大陸」っていう名称もねぇ。南米はアメリカじゃないじゃないですか。それにコロンビアだのベネズエラだの、アメリカと仲悪い国も多い。「南米は反米」ってわけわかんねーよ。
いずれにせよ、「世界」という言葉には、充分気をつけなくてはいけません。その「世界」とは、何を指しているのか。世界中のすべての国が含まれているのか。ごく一部の国や地域をもって「世界」と呼んでいるだけではないのか。その「世界」に含まれない国、こぼれ落ちている地域があるのではないか。
そして、その「世界」にスポットライトが当たるとき、そこからこぼれ落ちた国や地域はどのような状況なのか。光が当たれば、影もできる。輝かしい光を浴びる「世界」のその裏で、暗闇に覆われた「世界」に含まれない国々。その格差と差別。
ごく一部の国を「世界」と呼ぶとき、見えなくなっているものが確かにあるのです。
見たくないものを見ないために「世界」という言葉が使われているのかもしれない。「世界」という言葉によって見えなくなっているものほど、しっかり見据えないといけないものなのかもしれない。「世界」という言葉によって、意図的に現実が歪められているのかもしれない。
「世界」という言葉は、それだけ慎重に接する必要があるのです。自分が使う場合も、よく注意しなければならない。そうしないと、都合よく現実を改変する「自己中」の理論にからめ捕られてしまうかもしれない。気づかないうちに自分が自己中になっているかもしれないのです。
その「世界」は、本当に「世界」ですか。
日本一になったことはありませんけど
なんででもそう思っています
というか、劣っていても日本を選ぶ予定です
選ばれる基準ではないということです
むしろ、世界一というと、「ギネスでですか?」って聴きたくなっちゃいますね
日本がとにかく好きだということですか?
まあ、日本も信用できない部分が多いですが、まだマシレベルです
って、消去法ってなんか悲しくなりますね
消去法ですが
治安の悪い国、インフラがボロボロな国、まともな医療が存在しない国など、人が死にやすい国いくらでもありますから。