(前編からの続き)
ソクラテス研究者の間では、ソクラテスが文章を残そうとしなかった理由について、もっと多くの可能性が検討されているはずである。しかしそこに踏み込むと、記述があまりにも冗長になってしまうし、主題とは関係なくなってしまうおそれもあるので、ここではこれ以上立ち入らない。
ソクラテスの話を出したのは、文字が人類に及ぼした影響の一端を紹介するためである。文字の誕生は、人類に大きな変化をもたらした。
「口承文学」というものがある。現代の小説のように、書物内に綴られていたり、あるいは電磁パルスに変換された、電脳空間上の物語ではなく、人から人へ、口伝えで語り継がれていく物語のことである。
文字という記録手段が生まれる以前、文学とは、脳内に記録されるものであった。おもに神話、もしくは歴史として語られるその物語は、現代人には記憶するのが困難に思えるほどの長さの話も少なくないのだが、語り部たちは一語一句過たずに諳んじていたという。
ただし、だからといって口承文学が一切の変化を蒙ることなく人から人へと語り継がれてきた、というわけではない。個々の語り部によってアレンジが加えられたり、何らかの思惑によって部分的な加筆・削除が行われたり、記憶障害などの偶発的な事故によって中身が損なわれたりしたことも当然あったはずである。
いずれにせよここで指摘しておきたいのは、文字が誕生する以前――より正確に言えば、文字の誕生以降も、パピルスや紙などの媒体がある程度量産されるようになるまで――、人類は今よりも優れた記憶力を持ち、分厚い書物にも匹敵する物語を頭の中に入れておくことができた、ということである。
現代の人類にそれと同じことができないのは、文字によって情報を記録する術を覚え、それに頼りきりになったために記憶力が衰退したからである。
これを人類の堕落と見做すこともできる。文字記録によって記憶力が衰えたとするならば、「スマホを使っていたらバカになる」というのと同様に、「文字を使っていたらバカになる」という言い分が成り立つ(ソクラテスが考えていたのもこのことであったかもしれない)。
だが、当然それは悪い変化ばかりをもたらしたわけではない。文字記録によって、記憶できる以上の情報にアクセスできるようになったからだ(この流れを「記憶の外部化」と捉える向きもある。書物などの記録媒体が脳の代替の働きをしている、という意味である)。確かに、記憶力という一点にだけ注目すれば人類はバカになったと言えるのだが、記憶可能な情報以上の情報量に触れることが可能になったことで、文字誕生以前にはできなかったことができるようにもなったのだ。
人類は、文字以外にも様々な「便利なもの」を創り出してきた。火の使用・衣服・農耕器具・刃物・船・印刷技術・電気・蒸気機関車・自動車・飛行機・冷蔵庫・電子レンジ・エアコン・電話・インターネット・等々。
それは「能力の外部化」、もしくは「能力の拡張」と言える。
自分の身一つで負担せねばならなかった事柄を、道具によって代行することで、個の能力の限界を超えた営為を行うことが可能となったのだ。人類の歴史とは、「能力の外部化・能力の拡張の歴史」とも言える。人類は次から次に便利なものを創り出し、それに依拠することによって今日の繁栄を築いたわけだ。
なので、「スマホを使っていたらバカになる」というのが正しいとすれば、このベストセラーの著者もまた、原始時代の人類と比べれば相当なバカ者ということになってしまう。果たしてそれこそがこの世の真理と言えるのだろうか。
急に話題が飛ぶようだが、ここで身体障害者の話をする。
小生の母親に、盲目の友人がいる。母親がその友人と遊びに出かけた時に、手を怪我したことがあった。かすり傷程度だったので、友人には怪我したことは言わずに、黙ってカバンから絆創膏を取り出した。その絆創膏の封を開けた瞬間、友人が「ケガしたの?」と訊いてきたという。
「絆創膏の封を開ける音」という微細な音を聞き洩らさなかった、というだけではない。似たような音など他にいくらでもあるだろうに、「絆創膏の封を開ける音」と「それ以外の様々な音」を聴き分けることができたということでもある。そして、一瞬の聴き分けによって母が怪我をしたと悟ったのだ。
この種の、身体障害者による驚異的な能力の話(見えていないのに見えているかのように障害物をよける、声によって何人もの人を個体識別して記憶する等)は、誰しも一度や二度は聞いたことがあるはずだ。それくらい「身体障害者の驚異の能力」というのは普遍的な現象なのである。おそらく身体障害者であれば、みな何かしら健常者を驚かせる能力を備えているはずである。
これは何を意味するか。一部の能力が欠如することで、その欠落を補うために他の能力が高度に発展する、ということだろうか。
もっと単純にこう考えてもいいと思う。人間が五感に配分できる能力を「パワーポイント」と呼ぶとする。パワーポイントには上限がある。仮にこれを100とすると、それぞれ〈視覚60・聴覚20・嗅覚10・触覚5・味覚5〉といった具合に分配されるだろう(均等な配分ではなく、感覚の重要度に応じて、このように数値が偏るはずである)。
そこで視覚が失われたとする。すると行き場を無くした60のパワーは、残りの感覚に再分配される。それによって生じた健常者とは違うパワーポイントバランスが、健常者にとって脅威的な身体能力となって発現するのだ。
人間と道具(便利なもの)との関係も、これと同じようなものではないだろうか。人間の頭の良し悪しは、今も昔もさほど変わらない。便利なものが生まれれば、それに頼りきりになることで、本来備えていた能力を喪失してしまうこともある。だが、パワーポイントの総数自体は変わらないので、失った能力以外の能力にポイントを振り分けることができる。
こうして、便利なものの誕生によって、元々の能力が失われてきた面はあるものの、その代わりに便利なものを自分の一部として使いこなすことによって、人類は相対的にパフォーマンス能力を向上させてきた。・・・というのが真相なのではないだろうか。
それでも、なおもバカという言葉を使いたいのなら、こう言うべきだろう。「人類は、今も昔も同じぐらいバカなのである」と。
ソクラテス研究者の間では、ソクラテスが文章を残そうとしなかった理由について、もっと多くの可能性が検討されているはずである。しかしそこに踏み込むと、記述があまりにも冗長になってしまうし、主題とは関係なくなってしまうおそれもあるので、ここではこれ以上立ち入らない。
ソクラテスの話を出したのは、文字が人類に及ぼした影響の一端を紹介するためである。文字の誕生は、人類に大きな変化をもたらした。
「口承文学」というものがある。現代の小説のように、書物内に綴られていたり、あるいは電磁パルスに変換された、電脳空間上の物語ではなく、人から人へ、口伝えで語り継がれていく物語のことである。
文字という記録手段が生まれる以前、文学とは、脳内に記録されるものであった。おもに神話、もしくは歴史として語られるその物語は、現代人には記憶するのが困難に思えるほどの長さの話も少なくないのだが、語り部たちは一語一句過たずに諳んじていたという。
ただし、だからといって口承文学が一切の変化を蒙ることなく人から人へと語り継がれてきた、というわけではない。個々の語り部によってアレンジが加えられたり、何らかの思惑によって部分的な加筆・削除が行われたり、記憶障害などの偶発的な事故によって中身が損なわれたりしたことも当然あったはずである。
いずれにせよここで指摘しておきたいのは、文字が誕生する以前――より正確に言えば、文字の誕生以降も、パピルスや紙などの媒体がある程度量産されるようになるまで――、人類は今よりも優れた記憶力を持ち、分厚い書物にも匹敵する物語を頭の中に入れておくことができた、ということである。
現代の人類にそれと同じことができないのは、文字によって情報を記録する術を覚え、それに頼りきりになったために記憶力が衰退したからである。
これを人類の堕落と見做すこともできる。文字記録によって記憶力が衰えたとするならば、「スマホを使っていたらバカになる」というのと同様に、「文字を使っていたらバカになる」という言い分が成り立つ(ソクラテスが考えていたのもこのことであったかもしれない)。
だが、当然それは悪い変化ばかりをもたらしたわけではない。文字記録によって、記憶できる以上の情報にアクセスできるようになったからだ(この流れを「記憶の外部化」と捉える向きもある。書物などの記録媒体が脳の代替の働きをしている、という意味である)。確かに、記憶力という一点にだけ注目すれば人類はバカになったと言えるのだが、記憶可能な情報以上の情報量に触れることが可能になったことで、文字誕生以前にはできなかったことができるようにもなったのだ。
人類は、文字以外にも様々な「便利なもの」を創り出してきた。火の使用・衣服・農耕器具・刃物・船・印刷技術・電気・蒸気機関車・自動車・飛行機・冷蔵庫・電子レンジ・エアコン・電話・インターネット・等々。
それは「能力の外部化」、もしくは「能力の拡張」と言える。
自分の身一つで負担せねばならなかった事柄を、道具によって代行することで、個の能力の限界を超えた営為を行うことが可能となったのだ。人類の歴史とは、「能力の外部化・能力の拡張の歴史」とも言える。人類は次から次に便利なものを創り出し、それに依拠することによって今日の繁栄を築いたわけだ。
なので、「スマホを使っていたらバカになる」というのが正しいとすれば、このベストセラーの著者もまた、原始時代の人類と比べれば相当なバカ者ということになってしまう。果たしてそれこそがこの世の真理と言えるのだろうか。
急に話題が飛ぶようだが、ここで身体障害者の話をする。
小生の母親に、盲目の友人がいる。母親がその友人と遊びに出かけた時に、手を怪我したことがあった。かすり傷程度だったので、友人には怪我したことは言わずに、黙ってカバンから絆創膏を取り出した。その絆創膏の封を開けた瞬間、友人が「ケガしたの?」と訊いてきたという。
「絆創膏の封を開ける音」という微細な音を聞き洩らさなかった、というだけではない。似たような音など他にいくらでもあるだろうに、「絆創膏の封を開ける音」と「それ以外の様々な音」を聴き分けることができたということでもある。そして、一瞬の聴き分けによって母が怪我をしたと悟ったのだ。
この種の、身体障害者による驚異的な能力の話(見えていないのに見えているかのように障害物をよける、声によって何人もの人を個体識別して記憶する等)は、誰しも一度や二度は聞いたことがあるはずだ。それくらい「身体障害者の驚異の能力」というのは普遍的な現象なのである。おそらく身体障害者であれば、みな何かしら健常者を驚かせる能力を備えているはずである。
これは何を意味するか。一部の能力が欠如することで、その欠落を補うために他の能力が高度に発展する、ということだろうか。
もっと単純にこう考えてもいいと思う。人間が五感に配分できる能力を「パワーポイント」と呼ぶとする。パワーポイントには上限がある。仮にこれを100とすると、それぞれ〈視覚60・聴覚20・嗅覚10・触覚5・味覚5〉といった具合に分配されるだろう(均等な配分ではなく、感覚の重要度に応じて、このように数値が偏るはずである)。
そこで視覚が失われたとする。すると行き場を無くした60のパワーは、残りの感覚に再分配される。それによって生じた健常者とは違うパワーポイントバランスが、健常者にとって脅威的な身体能力となって発現するのだ。
人間と道具(便利なもの)との関係も、これと同じようなものではないだろうか。人間の頭の良し悪しは、今も昔もさほど変わらない。便利なものが生まれれば、それに頼りきりになることで、本来備えていた能力を喪失してしまうこともある。だが、パワーポイントの総数自体は変わらないので、失った能力以外の能力にポイントを振り分けることができる。
こうして、便利なものの誕生によって、元々の能力が失われてきた面はあるものの、その代わりに便利なものを自分の一部として使いこなすことによって、人類は相対的にパフォーマンス能力を向上させてきた。・・・というのが真相なのではないだろうか。
それでも、なおもバカという言葉を使いたいのなら、こう言うべきだろう。「人類は、今も昔も同じぐらいバカなのである」と。