徳丸無明のブログ

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M-1グランプリ2016 優勝予想

2016-11-23 22:34:06 | 雑文
キングオブコントに引き続いて、M-1の優勝予想をさせてもらいます。

①銀シャリ
②スーパーマラドーナ
③さらば青春の光

予想としては手堅すぎるかもしれないけど、一番は銀シャリ。万人受けするスタイルで、キャリアも充分。そろそろてっぺん取りそうな予感。
心情的には一番優勝してほしいのが第二候補のスーパーマラドーナ。長年売れずにくすぶっているので、タイトル取ってほしいところ。何度も「あと一歩」の所まで行っているので、その「あと一歩」を見せられるかどうか。
第三候補も同じく苦労人コンビのさらば青春の光。でもこの二人ってコント師じゃなかったっけ。

他の出場者に関しては以下の通り。
アキナ・・・面白いんだけど、手数を増やそうとして、ネタの流れをおかしくするボケを詰め込んでいて、それがマイナスになっている感があります。
カミナリ・・・知らないコンビなのでノーコメント。
相席スタート・・・ケイちゃんのキャラに頼りすぎだと思う。
スリムクラブ・・・2010年のM-1出場時はすごかった。「台風の目」どころか、台風そのものになって大会をかき回していた(「点数の付け方がわからなくなった」とボヤいていたのは島田紳助だったか)。でも、もうあの時のようなインパクトを与えることはできないんじゃないでしょうか。漫才師って、一時期すごく光り輝くことがあるわけだけど、スリムクラブはその期間が過ぎてしまっているんだと思う。でも、だからこそ「その先」に何を見せるか、っていう勝負どころがあるわけで、その意味で二人が何を見せてくれるか、が楽しみではある。
ハライチ・・・個人的にはハライチのスタイルって好きじゃなくって、予想が難しいところ。でもやっぱ、いつも通りのやり方で行くなら、優勝まではいかないのではないかと。

あと、敗者復活戦の勝ち上がり予想もしときます。
独特の世界観でキャラ立ちまくりの大自然も捨てがたいけど、ここはAマッソにbet。今時珍しい不条理ネタもあれば、正統派のしゃべくり漫才もこなす期待の新星。

人類の歴史とは脳機能の外部化のことではないか、という仮説

2016-11-21 21:27:59 | 雑文
NHKEテレの「ハートネットTV」で、ミュージシャンのGOMA(ゴマ)の特集をやっていた。(2016年9月29日放送)
オーストラリアの先住民アボリジニの伝統楽器、ディジュリドゥの奏者として活動していたGOMAは、2009年11月26日、首都高速で交通事故に遭う。病院に運ばれたものの、異常が見られなかったため、その日はそのまま帰宅。しかし、のちに高次脳機能障害を負っていたことが明らかになる。
GOMAの頭からは過去10年間の記憶が消え失せており、また、新しい記憶を留めておくことも困難となる。集中力が持続できなくなったこともあり、ミュージシャンとしての活動休止を余儀なくされる。
その頃からGOMAは、絵を描くようになる。それまでは全くと言っていいほど絵を描かなかったのに、「書きたい衝動」に憑りつかれるようになり、鮮やかな色彩の、主に点描画を書き始める。
なぜGOMAは絵を描くようになったのか?GOMAの脳内でどのような変化が生じているのか?それらの疑問が番組内で主題化される。(ちなみに、小生はこの事故以前からのGOMAのファンである。彼にはソロ名義と、バンド「GOMA & The Jungle Rhyhtm Section」(ゴマ・アンド・ザ・ジャングル・リズム・セクション)での楽曲がある。ぜひご一聴されたし)
番組内で脳科学者の茂木健一郎と対談したGOMAは、「描きたくなるのは脳が混線してるみたいな状態になった時」「それが描いていると落ち着いてくる」「(描くことで)脳が整理される」「ザワザワと記憶が混線しているような感覚が、余分なものを削ぎ落とされてストレートなラインになる」と語っていた。
それに対して茂木は、「記憶が整理されるのは脳の重要な機能の一つ」「眠っている間に記憶が整理されて定着する」「整理がないと記憶は定着しない」と答えていた。
脳に障害を負ったGOMAにおいて、絵を描くという行為が、記憶の整理という脳機能の代替となっていることが示唆されている。
これはつまり、脳機能が外部化している、ということだろうか。
脳が障害を負ったことにより、記憶を整理する機能が消失したため、その補填を外部に求めた。そして、理由はよくわからないが、絵画作成がその働きを備えていた。
GOMAは「描きたい衝動」と述べていた。これは、「絵を描くのが好きになった」ということではなく、「描かずにはいられない」ということだろう。脳機能の代償行為として、記憶の整理をつけるために、已むに已まれず描いている、というのが正確なところなのだろう。
これを敷衍すると、そもそも脳機能の外部化は、脳に障害を負った者のみならず、人類全体に共通の現象なのではないかと思われる。
ここで思い起こされるのが、精神分析学者岸田秀の、「人類は本能の壊れた生き物である」とする説である。
生物は、通常本能によって自らの分をわきまえており、ありのままで自然環境に適応して生きていくことができる。だが、本能が壊れた生き物である人類は、ありのままでは生きていくことができず、文明という、本能の補助となるものを発明した。道具も、宗教も、儀式・習慣も、音楽も、言語も、すべては本能を補完するための創出物である。人類は、文明という補助具に支えられることで何とか生存していけるようになった。・・・というのが岸田の理論である。
「脳機能の外部化」という見立ては、岸田の説と相似している(だからまあ、オリジナリティのある思い付きとは言えないのだが。違っている箇所を言えば、岸田の説は「本能」という、――「心」や「魂」のように――「ある」ようには思われるが、どのような形で存在しているかがよくわからない機能を対象としているのに対し、小生の説は、「記憶の整理」などの具体的な脳機能を対象としているところであろうか)。
一般的には「人類は、他の生物にはない機能を獲得したことにより高度な文明を築くことができ、地球の支配者となった」と言われる。だがそれは正確ではなく、「人類は、他の生物が有している脳機能の一部が欠落していた。そのため、その補填として文明という代替物を生み出した。文明に支えられることにより、人類は脳機能の欠落にもかかわらず生存することが可能となり、また、それが結果として地球を支配する力となった」ということなのではないだろうか。
地球の長い歴史の中では、人類に限らず、脳機能の欠落した生物種は、数限りなく誕生していたのではないかと推測される。だが、大半はその代替を外部に求めることができず、淘汰圧によって滅んでしまったのではないだろうか。
だとすると、人類にあって他の生物にはない能力とは、「脳機能の代替を外部に求めることができる能力」ということになるだろう。
思えば、芸術家にはエキセントリックな人物が多い。脳障害というほどではないにせよ、一般人よりは現実に適応する能力が乏しいため、芸術行為でそこを補っているということだろう。そして、その手の芸術家に限らず、人類はみな脳機能の欠落があるので、多かれ少なかれその補填を外部に求めており、つまりは、芸術のみならず、文明という人類の営為の全てが脳機能の外部化の産物なのではないだろうか。
番組収録中に一枚の絵を描き上げたGOMAは、「今日の生きた証しはもうこうして形に残ったからちょっと安心感はある」「今日の生存の証しが残った」と満足気に語っていた。ここでは絵画が記憶の代替となっていることが容易に見て取れる。(番組内では、茂木が「絵を描き続けることでGOMAの脳内に新たな変化が起こっている可能性」を指摘していた。GOMAの症状が改善に向かうことを祈りたい)
この「文明とは脳機能の外部化の産物である」というのは、まだ思い付きの段階であり、また、小生にはこのアイディアを検証、及び深化させるための知識の持ち合わせもない。なので、これは今後の課題として時間をかけて確かめていきたい。
脳科学に詳しい方、助言を寄せて下さったら幸いです。