徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

扇屋食品 チーズおやつ

2022-04-29 21:53:16 | 
今日はおやつ以外に食べてはいけないチーズです。






パッケージに「カマンベール入り」とありますが、このチーズ、鱈のすり身で挟んであるんですよね。そちらのほうが美味しさを引き立ててるから、カマンベールよりすり身を推し出したほうが売れるんじゃないかと思いますけど、余計なお世話ですかね。
あとコレ、最近短くなったんですよね。春先に値上げが相次いでましたけど、その一環でしょうか。値段はそのままで量を減らすパターンの値上げ。子供のおこづかいは増えませんからね。もちろん応援のために買い続けますよ。
また思い出話をします。小学1年生のときの話。小1の運動会の演目のひとつに、ダンスがありました。1年生全員が音楽に合わせて踊りを披露するのです。
BGMは、「天使のパンツ」でした。聴いたことあります?NHK教育・・・今はEテレですか。「みんなのうた」で流れてたやつです。
ご存じない方は一度聴いてみてください。もうね、ホントくそだりー歌ですから。夢々しいと言うか、幼稚っぽさの極みと言うかね。
それでしかもね、サビのところでケツを振る動きがあるんですよ。これがもうイヤだった。
振り付けを考えた大人に、「子供にケツ振らせときゃ可愛い」っていう安易な考えがあったんでしょうね。お尻フリフリであー可愛いのねーって。そんな考えが透けて見えるのもイヤでした。
小学1年でもケツ振りダンスはけっこう恥ずかしかったのですが、大人の思惑でそんな踊りを強要されることに、強い抵抗感を感じていたのです。もっとも当時は、自分の感情をこのようにうまく言語化できていたわけではないのですが。
しかし思えば、運動会というイベント自体が大人の思惑の結集みたいなものですよね。競争社会を学ばせるための徒競走。集団の歯車となることを学ばせる組体操。大会中はつねに全力で、大声を張り上げねばならない。勝ったら喜び、負けたら悔しがる、そんな感情すら半ば強要されている。低学年のうちはけっこう楽しめてましたけど、年々抵抗が強くなっていきましたね。
そんな細かいこと気にしてたら何も楽しめなくなるって?まあそうかもしれませんけど。
でもね、当時の運動会って、楽しませるのは二の次だったんですよ。入場行進をやたらと繰り返し練習させられましてね。生徒の動きをキチッとそろえさせようとしてたんですね。こっちにしたらどうでもいいんですよ、入場行進なんて。運動会始まりますよって合図に過ぎないわけですから。
それをね、見た目の美しさを過剰に追求して、何度も何度も行進させて、姿勢とか動きがちょっとズレただけでやかましく注意されるんです。軍隊さながらにね。楽しいはずないでしょ、そんなの。
なんか、徒競走をみんなで手をつないでゴールして順位をつけない、っていうのを悪しき平等主義だって批判する意見がありますけど、別にいいんじゃないでしょうかね?「現実社会に競争はある。現実は厳しいんだ。競争を否定してはいけない」って言う人いますけど、現実に競争が存在するのは事実として、なぜそれを肯定しなくてはならないのでしょうか。
僕は、競争はできるだけなくしていくほうがいいと思っています。競争はしんどいし、それによって傷つく人もいるからです。
世の中には競争が好きで好きでしょうがないって人もいるでしょうから、多少は競争する余地も残しておいたほうがいいでしょうけど、でもそんな苦しいことを積極的に選び取る必要なんてない。競争がイヤな人は競争から降りられる社会のほうが望ましいはずです。なぜそのように考えられないのでしょうか。
高度経済成長マインドが今も日本人に取り憑いているということでしょうか。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
先週、「日本はいつになったらマスク生活を解除すべきか?」という話題が、メディアでちらほら取り上げられていました。欧米の多くの国々ですでに、公の場でのマスク着用の義務が撤廃されている流れを受けて、「じゃあ日本ではどうすべきか」という意識が、少しずつ高まってきているのでしょう。
僕は以前、「日本は過剰に空気を読み合う社会であるため、「もうマスクは着用しなくてもいいんじゃないか」と思っても、なかなかそれを言い出しにくい。みんながみんな「もうマスクを外すべき」と思うようになっても、誰も「外そう」と言い出さないのではないか」と書きました。空気の読み合いに終始する無責任社会ゆえ、みんながマスクを外すべきと考えていても、責任を取りたくないから誰も外そうと言い出さず、結果としてマスク着用生活が延々続いてしまう・・・ということです。
たぶん、僕と同じ危機意識を持った人がいるんじゃないでしょうか。その人が、マスク着用の空気を緩和すべく、着用解除の議論をメディアに流させたのではないか、という気がするのです。
もちろん、一度の議論だけでは空気は変わりません。二度三度と議論が起きて、少しずつ変わり始める。
だから先週の話題は、空気を変えるための第一段階。マスク解除に向けて、その方向性を形作るための布石としての話題喚起だったのではないか、と考えます。
だとすれば、今後また時間をおいて、マスク解除の議論が間欠的にメディアを賑わすことになるはずです。そうやって、議論が繰り返されることで、空気が少しずつ「マスク着用絶対」から「マスク着用解除」へと切り替わっていくのです。
この予想、当たるでしょうか。推移にご注目ください。

骨と音楽と呪術

2022-04-26 21:44:41 | 雑考
金関丈夫の『考古と古代――発掘から推理する』(法政大学出版局)を読んでの気付き。
この本は、考古学・人類学・民族学を専攻し、発掘調査も行う金関が、様々な媒体に発表した、おもに考古学に関する論考をまとめたものである。その中の一章「髑髏盃」で、インド洋アンダマン島のオンギ族や、台湾の高砂族、ヒマラヤ地方などに、人の骨を加工して様々な道具を作る「人骨文化」があるとして、次のような具体例を挙げている。


また、人の大腿骨や脛骨で、笛をつくって、祭りのときに演奏したりする。(中略)
この、人骨で笛をつくる風習は、しかし、この地方だけではなく、近東からアフリカにまでひろがっていて、例えば古代エジプト人は、人間の脛骨で笛をつくり、これを、その骨の名をとって、シビと呼んだ。これは今の脛骨の学名であるラテン語のチビアと同語であり、またその笛が唐代に中国に伝わって、尺八ともなった。「尺八」はチバ、すなわち脛骨からきた西来の名前だといわれている。このように、われわれがいま何気なく使用している品物や言葉にも、人骨文化の遺残はあるのである。


てっきり笛というのは、木をくりぬいて作ったのが始まりとばかり思っていた。しかしこのような文化の存在は、人骨を用いたものが笛の始まりである可能性を示唆している。
原始社会とは、呪術に覆われた社会である。人はみな、この世の理の説明を欲する。なぜこの世界があるのか、なぜ人は死ぬのか、なぜ天変地異は起こるのか。現代の我々には、科学がその疑問に答えを提供してくれるが、科学を知らない社会は、代わりの何かに解釈を求めねばならない。人間は、「わからない」ままではいられないのだ。
そして、科学以外の説明体系となると、基本的には呪術となる。この世は目に見えない力に満ちており、その不可視の力こそが理として万物に働きかけているのだと。
当然、人にも呪力は宿っている。腕力が強かったり、頭がよかったり、権力を有していたりする人ほど、呪力は強いとされる。そういった人々が死後、骨を加工されるのだ。彼らの秘めたる力を我が物とすべく、骨を身近な道具へと加工して身につける。脛骨の笛もまた、そのような意味合いのものであったのだろう。
そうすると、音楽の意味もまた、現在の我々が考えるようなものとは違っていたおそれがある。祭りや儀式などの特別な日にしか音楽を演奏しない部族もあるからだ。
それはつまり、現代日本にとっての娯楽としての音楽、スマホにアプリをダウンロードして、ブルートゥースイヤホンで四六時中気軽に聴けるような音楽とはまったくの別物としてある、ということだ。
儀式としての音楽は、時と場所と手順を慎重に選んで開催される。恐らくは、そうしないと力を正しく使えないから、もしくは、力が誤った方向に流れ、暴発してしまうから、なのだろう。呪術としての「音楽の力」が。
仮に、音楽は元々呪術としてあったとすると、毎日イヤホンから浴びるように音楽を聴いている我々は、少なからず呪力の影響を被っている、ということになる。
「呪力」と言うと、悪しきイメージしか湧かないかもしれないが、必ずしもマイナスの効果ばかりをもたらすものではない。しかし、その力に無頓着すぎると痛い目に合うかもしれない。「骨の笛」は、そんな警告を発しているようにも思える。それとも、骨の楽器を用いない音楽からは、呪力はきれいに祓われているのだろうか。
ちなみに「髑髏盃」には、次のような記述もある。


真偽はわからないが、わが国でも、水戸の常福寺の什宝の髑髏盃について、同じような話が伝わっている。『甲子夜話』などによると、徳川光圀が、自分を裏切った家臣の某を憎むのあまり、年月を経てその死体を掘り出させ、頭骨に金箔をほどこして、盃にしたという。
この盃は一升を容れた。光圀は酒豪であったとみえて、在世中、常にこれを用いて酒を飲み、酔うと、「蓮の葉にやどれる露は釈迦の涙かありがたや。そのとき蛙とんででて、それは己が小便じゃ」と歌っていたそうである。


徳川光圀、つまり水戸黄門ね。光圀って若い頃はけっこうヤンチャで、どこまで本当かはわからないが、ケンカで相手を斬り殺したり、女性を手籠めにしたりしていた、という話も聞いたことがある。
もちろんドラマの「水戸黄門」は史実とは違うんだけど、それにしても実像とのギャップが激しすぎる。
盃にされてしまった家臣は、助さん格さんに懲らしめられたのだろうか・・・ってんなわきゃねえ。