徳丸無明のブログ

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M-1グランプリ2024 優勝予想

2024-12-06 23:08:41 | 雑文
いったん冬らしい寒さが訪れるも、ここ数日冷え込みが落ち着き、ずっとこれくらいだったらいいなとは思うものの、環境のことを考えたらもっとしっかり冷え込んだほうがいいはずで、しかし人間というのは勝手だから、この冬も暖冬であってくれとついつい願ってしまいつつ、まつもときんに君がテレビに復帰するのかどうかが気にかかる今日この頃、皆さんいかがお過ごしですか的なM-1優勝予想です。昨日準決勝が行われ、今月22日に決勝戦が放送される、漫才の祭典M-1グランプリ。そのM-1の、優勝予想をいたしますってばよ。

ファイナルに残ったのは以下の9組。


ママタルト
令和ロマン
ジョックロック
真空ジェシカ
エバース
トム・ブラウン
ダイタク
ヤーレンズ
バッテリィズ


この中から僕が予想する優勝第1~第3候補は次の通り。


①エバース・・・去年の敗者復活戦で初めて観たんですけど、ネタの完成度の高さと、独自の着眼点に感心しました。将来有望なのは間違いなし。まだ認知度は低いでしょうから、初見のインパクトで思いっきりハネてほしいです。そんな期待を込めて第1候補。

②ヤーレンズ・・・去年の決勝進出と準優勝、そしてそれによるブレイクは、まあ嬉しかったです。前々から面白いと思ってましたのでね。認知度が上がることでよりウケるようになるタイプと、その逆のタイプがいるわけですが、楢原のキャラを考えると、ヤーレンズは前者。なので、初決勝の翌年優勝という、錦鯉パターンがおおいにあり得るだろうという予測に基づいて第2候補。

③ダイタク・・・キャラクター先行になりがちな双子コンビでありながら、ネタの完成度が高く、ウデもあるダイタク。今年ラストイヤーということは、これまでコツコツ積み上げてきたものがあるはずです。単に双子だというだけじゃない、漫才だってちゃんとしてるんだ、というところを世間に見せてほしい。評価されるべきが正しく評価されてほしいという願いを込めて第3候補。


ほかのファイナリストにもひとこと。


ママタルト・・・肥満のキャラ立ちまくりのママタルト。ネタ何度か観たことありますけど、個人的には今一歩という印象です。好みの問題なのかもしれませんが、正直優勝は考えられません。まーちゃんごめんね!

令和ロマン・・・去年優勝した俊英が、史上初の2連覇を獲りにきました。いや、あると思いますよ、2連覇。令和ロマンの実力ならね。おおいにあり得ます。でも、そうなってほしくない。やっぱこういう賞レースって、くすぶってる芸人のチャンスの場であるべきだと思ってますので。ただそれはあくまで僕の個人的願望。公平に実力で審査されるなら2連覇は充分あり得るし、第2候補くらいにしておくべきなのですが・・・。やっぱり連覇してほしくないので、今回は賑やかしになってくれることを期待します。

ジョックロック・・・NHK新人お笑い大賞、2年連続準優勝の実力コンビ。しかしなぜかネタ番組で見かけることはありません。あまりテレビに出たくないのでしょうか。充分面白いことは承知しているのですが、それでもなんとなく優勝まではいかないのではないかと。

真空ジェシカ・・・奇人・川北擁する真空ジェシカ。今年で4年連続ファイナリスト。すごすぎます。でもなぜか、真空ジェシカが優勝している絵が想像できません。良くて4位くらいな気がします。まーごめ!

トム・ブラウン・・・今年ラストイヤー。去年の敗者復活戦のあと、「あれだけすごいネタしたのに決勝行けなかった」ってグチってましたね。2018年のM-1で初めて観たときは衝撃でした。2人の漫才にかける気持ちはわかりますけど、それでも2018年のインパクトを超えることはできないんじゃないか、今回も望むような評価は得られないんじゃないかっていう気がします。

バッテリィズ・・・1回くらいは観たことあるかもしれませんが、記憶にない・・・。なのでなんとも言えません。どんなネタやるのかを楽しみにさせてもらいます。次のブレイク芸人になる期待も。


以上の9組に、敗者復活戦から選ばれる1組が加わって決勝が行われます。敗者復活の予想もしときます。出場者はまだ発表されていませんが、ワイルドカードのロングコートダディを除いた準決勝進出組になるはずです。だとすると、敗者復活戦に臨むのは以下の21組。


マユリカ
カベポスター
家族チャーハン
十九人
金魚番長
ナイチンゲールダンス
ドンデコルテ
シシガシラ
カラタチ
ひつじねいり
例えば炎
オズワルド
フースーヤ
今夜も星が綺麗
インディアンス
豆鉄砲
男性ブランコ
ダンビラムーチョ
滝音
豪快キャプテン
スタミナパン


去年審査方法が変わりました。ネットからの視聴者投票だったのが、観客による投票と、芸人審査員の投票に。今回もそうなんですかね?僕はそちらのほうが、純粋に面白さでの評価になりやすいから望ましいと思います。視聴者投票は半分くらい人気投票だと思ってますので。
オズワルド、インディアンスといった決勝常連組が、あと一歩のところでもがいているのが痛々しい。カベポスター、男性ブランコ、滝音あたりも充分復活を狙える位置にいます。ハゲネタ1本のシシガシラがまた来る可能性もおおいにある。「ネタパレ」で活躍中の家族チャーハンが、ここでもハネるかもしれない。でもやっぱ、ナイチンゲールダンスを推します。とにかく完成度が高く、なかるてぃんのキャラも立ってる。ちなみに、2年連続の復活推しです。


皆さんもよろしければコメント欄から優勝予想にご参加ください。第1~第3候補まで予想可とさせていただきます。今回も当たっても何も出ません。
gooブログのコメントフォームには名前とタイトルとURLの入力欄がありますが、これらは必須じゃなくて、コメントだけでも投稿できるはずですので、お気軽にお寄せください。

キングオブコント2024 感想

2024-10-17 23:41:52 | 雑文
真夏日が連続した猛暑も緩み、すっかり短くなった秋の訪れを感じるも、日中はまだ夏を思わせる気温になることもあり、寒暖差が体にこたえてしまう今日この頃、ジャングルポケットは今後2人体制でエントリーするのかどうかが気にかかる、キングオブコントの感想をお届けします。
年々感想文の公開が遅くなってますが、今回は特に遅めになっちゃいましたね。まあオレにもいろいろあんだよ!
前回の優勝予想の記事で、「今回はお笑いの日との同日開催ではないらしい」と書きましたが、KOCの公式サイトでその発表がなかっただけで、実際は同日開催でした。すみません。
去年の「お笑いの日」では、まつもときんに君が、総出演者126人に触れ、「ホンマは127人だったんです。フジモンが来なくなっちゃったんで」と言ってましたが、なんの因果か、今年はそのきんに君が来られず。KOCの審査員は、きんに君の代わりにシソンヌのじろうが選出。きんに君が復帰したら外されるのでしょうか。そんな「じろうの行く末」が気にかかる大会となりました。

個別の評価は以下の通り。まずはファーストステージから。


ロングコートダディ・・・彼女に花束を買うため花屋に来た男。「センスがない」と言っておきながら、店員さんが作る花束に片っ端からケチをつけていく。
シンプルな構成ですよね。日常の延長というか、実際にあってもおかしくない話。東京03の飯塚が絶賛してましたが、やっぱこういうのが好きなんだなーって思いました。僕はなんか、面白さよりも、兎の小憎らしさに腹立つ感じが上回ってしまいましたし、味付け薄めが物足りなかったです。
花言葉でイヤミを伝える展開はよかったですけど、もっとあり得ない花言葉にしてもよかったかもしれません。「肉団子サラリーマン」はコンプラOK?いや、これがダメだと言いたいのではありめせん。昨今の表現の規制、ちょっと行き過ぎてると思ってますしね。「あ、これはいいんだ」と思った、ということです。
「すごくシンプルな話だなー」と思ってたら最後に劇的な展開。命を救われるも、「まだマイナスです」。そうこなくっちゃ!と思いました。
去年のカゲヤマと同様、トップバッターで高得点を叩き出し、平均得点を大きく引き上げました。

ダンビラムーチョ・・・お祭りの舞台で「富安4発太鼓」という伝統芸能(?)が披露される。それは曲中4発しか太鼓を叩かないという奇妙な芸能だった。
まずはその設定の面白さがあります。「4発しか叩かない」とあらかじめ宣言するから、ワクワクしながら見守ることになるわけです。しかしこれだと、面白いパターンって限られてきますよね。早めに4発叩いてしまうパターン、終わる直前にあわてて4発叩くパターン、フチだけ叩くパターン。あまりパターンがないから、見物客に叩かせる展開になったわけです。
かまいたちの山内が、「音響さんに強く言いそうな腕時計してる」という細部に気づいたのは鋭い。4発太鼓の起源の説明と、懐にりんご飴をしまうところ、やり方次第でもっと笑い取れるのではと思いました。
大原優一はお祭りおじさんのキャラがよく似合いますね。登場しただけで笑いが起きていました。

シティホテル3号室・・・通販番組のネタ。ゲストのタレントが唐突に、限界を超えた値下げを社長に要求する。社長はしぶしぶ値下げに応じるも、すべては台本通りだった。
たしかに、ガチと思いきやヤラセだった、というのは意表を突かれましたが、こういう手法で意表を突くというのはわりと簡単にできることです。もっとその先を観たかった、というのが正直なところ。ケンカのアクションは上手いし、タレントの好感度を犠牲に売り上げ伸ばす手口のえげつなさは笑えます。ネタ終わりのタイミングが不自然な気がしました。3品目まで観たかったです。

や団・・・工場の休憩室での従業員のやり取り。本間の財布から一万円札がなくなっていることが発覚し、犯人捜しが始まる。正義感が強すぎる伊藤は、過剰な手口で中嶋を取り調べていく。
バカバカしさの極致というか、これぞコント、これぞお笑いという、安心してみられるネタですね。大好きです。
なぜか肛門に二千円札入れてる、わけのわからなさ。パンツが色違いなのは、のちの「男はユニクロで買いがち」という指摘で説明がつきましたが、二千円札は謎のまま。「説明がつく笑い」も、「説明がつかない笑い」も、両方あっていいんですよね。要はそのバランスをどうするかで、説明がつかない笑いばかりだと、付いていけなくなっちゃったりするし、説明がつく笑いだけだと、計算しすぎで堅苦しさを感じかねない。や団のこのネタはそのバランスがいいと思いました。
ただ、肛門に入れた指でビンタされたところ、「くせえ」のひとことは言わないほうがよかったですね。あそこはセリフではなく、表情だけで伝えたほうが笑えたはずです。説明過剰、ツッコミ過剰はよくない。
テーブルに中嶋を押さえつける瞬間、審査員のじろうを映していて、大事な笑いどころを撮り逃がしてしまいました。以前もカメラのスイッチング問題に触れたことありましたけど、ネタ中は無理に審査員の笑い顔撮ろうとしなくていいんじゃないでしょうか。そのへんもっと考えてほしいです。

コットン・・・自作の人形劇で遊ぶ子供と、それを見守る、偶然その場に居合わせたおじさん。その人形劇は、子供らしからぬ恋愛ドラマだった。
このネタ持ってきたのはけっこうなバクチでしたね。コントの中で人形劇を行う、しかも西村ひとりでやるというのは、コントの意義を疑問にふしてしまいます。そうすることで、西村ひとりにしか注目がいかなくなるからです。いや、劇に入り込めば、人形だけに注意が向けられてしまう。そうなると、「コントであること」の意義がわからなくなってしまうのです。最後にきょんが劇に介入してきましたが、もっと早く、中盤に入ってきて、2人のかけ合いが行われていれば・・・。恋愛劇も、よく観ればベタなストーリーですしね。人形の動きの細かさ、細部のこだわりはよかったです。

ニッポンの社長・・・野球部のネタ。監督が新一年生の素質をチェックする。一年生は、実力はあるが極端に声が小さかった。
なんか、ドリフターズがやってたようなコントですね。容赦のない暴力でバットやベンチが叩き壊されていく。「破壊」の痛快さがビシビシ伝わってきます。終盤の畳みかけがまた気持ちいい。その破壊の気持ちよさに、思わず「何言ってんの?」って訊きたくなる、聞こえるか聞こえないかくらいの小声の面白さが並走します。
メディアから暴力がどんどん排除されつつある昨今だからこそ、ドリフの時代より笑えるようになってきているのかもしれません。一方的にやられまくるのは、ケツのキャラクターによく合っていますね。声が小さい理由が不明なのも面白い。
ヒザを痛めて「無理すな」のところ、ややウケになっちゃって残念でしたね。もっと間が違っていたら大きな笑いになってたはずです。

ファイヤーサンダー・・・「毒舌散歩」という番組(有吉の「正直さんぽ」のオマージュ?)を始めたお笑い芸人。出会った人々を毒舌でイジる、という内容。その芸人のもとに警察官が訪ねてくる。彼の毒舌は、犯罪者を見抜く隠れた力を持っていた。
いやー、やっぱ面白い。この無自覚プロファイリングとでもいうべき能力設定だけでワクワクしてきます。「君は知りすぎた」の意味合いで「君は喩えすぎた」と言うところがツボ。「警察は表の顔で、実は裏の組織の工作員」というのは、サスペンス的どんでん返しとしてはありがちなので評価できませんが、これはあくまでストーリー展開のための設定ということで。まとまりがよく、完成度の高いネタでした。個人的に今大会で一番。
あと、ネタと関係ないんですけど、こてつは銃を持ったままMC席に来るなら、浜ちゃんに「お借りしてた銃、ありがとうございました」って手渡せばひと笑い作れたんじゃないかって、余計なこと考えちゃいました。

cacao・・・部員が2人だけの野球部のネタ。グラウンドが使えないから部室で練習をしようとする。
動きが素早い、というだけで単純に面白い。「部屋練」という独自のジャンルを極めた強さというか、「室内なら最強」と思わせてくれるわけですが、本来目指していた野球とズレてしまっていることに気づいていない、憐れさからくるおかしみもあります。あと、監督も一緒に練習する中で、上下関係がなくなっていってる面白さも。これだけの動きを仕上げてくるのは大変だったでしょうけど、効果音当ててる裏方さんのほうが大変なのかもしれません。暗転が妙に長くなかったですか?
それから高橋と浦田スターク、顔そっくりなんだから、せめて髪型だけでも差別化してくれ!5年目に怒られる浜ちゃんが微笑ましい。

隣人・・・自宅でチンパンジーの太郎くんを飼っているおじいちゃん。太郎くんはパソコンの読み上げ機能も使いこなせる天才。仲良く暮らしていたが、おじいちゃんは動物園に太郎を引き取ってもらおうとする。「自分の歳を考えて、先立つ前に」と説明していたが、実は太郎の成長を恐れていた。
去年のKOCを観ていた人は、冒頭で「またチンパンジーかい!」とツッコミを入れてしまいます。1年越しの天丼?ちょっと卑怯な気がしなくもないです。
太郎が「今すぐ出ていくかんじですか」と言ったとき、細かいニュアンスを言っていくパートに入ったと思いました。しかしそうはならず、なんか肩透かし。もっと「チンパンジーがこんな言い回しすんの」って発言が聞きたかったです。あと、チンパンジーが人間らしいことをするって、それだけでもう面白いじゃないですか。だから「人間らしい」だけにとどまらず、もうひとひねりが必要だったかもしれません。

ラブレターズ・・・引きこもりの息子を見守る夫婦。息子は2年間外に出てないと思っていたが、外出の痕跡が次々見つかりだす。
悲しくて、やるせなくて、やがて面白き哀愁コント。「少年時代」はいい曲だ。どんぐりという道具立てを持ってきたのはなかなか絶妙で、個数の面白さとか、散らばる面白さなんかを演出できるわけですね。息子本人は登場しないことで、断片的な情報からいろいろ想像させる面白さもあります。父親は最初、家庭のことはほったらかしで、息子にも冷淡なように見えますが、向き合うのが怖かっただけで、本当は強い愛情があったことがわかってきます。
袋入りどんぐりをぶちまける演出、うまくいきましたね。これが失敗して変な感じになってたら、優勝はなかったかもしれません。どんぐりを回収しきれず、ファイナルステージの舞台に出てきたら面白かったのに、なんて思っちゃいました。


続きましてファイナルステージ。


ラブレターズ・・・海を見に来た女と、その女をナンパする外国人の男。女は実はジュビロ磐田の熱狂的ファンで、男は実は釣り人だった。
女は占い師に「坊主にすれば優勝できる」と言われたが、それは逆効果になってしまった。なのに、バリカンで刈るのを止めることができない。これ、ギャンブラーがいくら負けてもお金つっこみ続ける心理と似ていて、悲しくて笑えます。いつの間にか丸刈りは、呪いの儀式へと変形していた。
「なんてカオスな設定」(山内)、「わけわからない」(ロバート秋山)、「釣りの要素いるのか」(じろう)、「どこに向かって行ってるのか」(バイきんぐ小峠)、「ストーリーがもうちょっとあったほうがいい」(飯塚)など、審査員を困惑させたネタでしたが、でもお笑いなんて、そんなもんでいいんですよね。「よくわかんないけど、なんか面白かった」って。計算された完成度の高いコントを、「これでもくらえ」と吹き飛ばすようなネタでした。
少数精鋭のASH&Dから、初のKOCチャンピオン。本当におめでとう。ザ・ギースも獲ってくれー!

ロングコートダディ・・・ファンタジー設定。岩壁に封印されたウィザードという人外に死の呪いを解いてもらうため、アグリの涙という宝物を持ってきた男。宝物の置き場を間違えていたのだが、ウィザードの言葉がわからないため、正解にたどり着けない。
面白さは申し分なしです。ですがこれ、兎も少しは動くとはいえ、ピンでもできちゃう構成。これをどう評価するか。コットンもそうでしたけど、採点判断が難しかったと思います。笑いと構成、どちらに比重を置くか。「2人でやってるのにかけ合いがなかった」という点を重視するなら、どうしても点数低めになっちゃいます。単純に「面白さだけ」で評価されてたら、間違いなく優勝していたでしょう。
人間の言葉と全然違うのに、「やめて」が「ウグォケ」で、「動け」と応援しているみたいになっちゃうところが秀逸。一番よかったです。
セクシーピースは流行るのだろうか。

ファイヤーサンダー・・・甲子園出場を真剣に目指す野球部員と、それをバカにする不良。不良は、「もしお前らが甲子園行ったら、全裸でフルマラソンしてやる」と言い放つ。
話が進むにつれ、不良はバカにするフリをして後押ししようとしていたことがわかる胸熱展開。隠れた友情を感じさせ、感動は徐々に高まっていきます。しかし、感動が笑いを上回ってしまったのかもしれません。そうなると、いい話ではあったとしても、コントとしての評価は落ちてしまいます。
不良が練習に打ち込んだり、サングラス替えたりといった、変化の描写が実にうまい。個人的には、甲子園行けたかどうかまで見届けたかった気がします。


心情的に一番応援していたラブレターズが優勝し、優勝予想で推していたファイヤーサンダーが3位。満足度の高い結果となりました。
去年もそうだったと記憶してますが、今大会はトップバッターのロングコートダディが高得点を出したこともあり、審査員得点、全組80点代はなし。こうなってくると、0~89点の存在意義がわからなくなってきますね。10点満点にしても同じことのように思えてきます。
得点差が少ないことにも表れてますが、今回は頭ひとつ出たネタ、爆発したネタというのはなく、平均レベルちょい高めのネタがそろいました。
賞レースではたまにネタかぶりが起きますが、今回は野球部ネタが3本。最近野球ネタが流行っているのか、単なる偶然か。
今年の浜ちゃんは、コメント2周強要などしていましたが、年々KOCにおける立ち居振る舞いが自由奔放になっていってますね。それもまた、ひとつの名物ということでいいと思います。でも今年の結果発表は抑えめで、そこは全力でやってくれよと思いました。
そして、今年もバイきんぐの西村はいらなかった。

キングオブコント2024 優勝予想

2024-09-14 01:57:31 | 雑文
今年も気象庁が夏の暑さを異常気象と認定しましたが、おそらくこれで3年連続になるはずで、ここまで続くともはや異常気象が通常になってるのではないかと思わざるを得ず、毎日汗のプールに浸かってると言っても過言じゃないくらい大汗をかきつつ、気候が穏やかになる日を夢見ながら、塩飴舐めながら過ごしている今日この頃、皆さんご機嫌いかがですか的なキングオブコントの優勝予想です。当ブログの風物詩が今年も帰ってきてしまいました。
今年は10月12日に決勝が行われる、コントの祭典KOC。去年と一昨年は「お笑いの日」と同日開催だったのですが、今年はそうじゃないようですね。今年は初のファイナリストが3組。常連多めの顔ぶれになってます。ネタ番組ではお馴染みだけど、一般的な知名度は今ひとつって組が、広く認知されるようになる可能性が高そうです。

ファイナルに残ったのは以下の10組。


コットン
ラブレターズ
隣人
ロングコートダディ
ニッポンの社長
cacao
シティホテル3号室
ダンビラムーチョ
ファイヤーサンダー
や団


この中から僕が予想する優勝第1~第3候補は次の通り。


①ファイヤーサンダー・・・2年連続2回目のファイナリスト。去年のモノマネ芸人のネタは面白かったですね。あまり点数高くなかったですけど、僕は前回大会で一番よかったんですよね。なので、個人的好みによる期待を込めて第1候補。ちなみに、2年連続の第1候補です。

②コットン・・・2年ぶり2回目のファイナリスト。彼らのネタは安定感があります。その優等生っぽさが個人的に鼻につくきらいはあるのですが、優秀なのは間違いない。確実に優勝取りに行ける実力アリという評価で第2候補。

③cacao・・・初のファイナリスト。「ネタパレ」で何度か観たことあるような・・・。面白かった記憶はあるような・・・。まだ若手ですよね?芸歴5年くらい?若手の勢いによる優勝もなきにしもあらずという推測に基づいて第3候補。


ほかのファイナリストにもひとこと。


ラブレターズ・・・2年連続5回目のファイナリスト。去年のネタ、けっこう面白かったのにあまりウケてませんでしたね。「順番が悪かった」なんて言われちゃって。実力は充分で、優勝狙える位置にはいると思います。苦労人が報われてほしいという願望もある。でも、なんとなく何かが足りないような気がします。優勝したら一番うれしいのがラブレターズではあるのですが。

隣人・・・2年連続2回目のファイナリスト。去年はクセのあるネタでしたね。今年もまた、独自の世界観を披露してくれるのでしょうか。楽しみではありますが、万人受けするタイプではないのではないか、だから優勝は難しいのではないかと思います。

ロングコートダディ・・・2年ぶり3回目のファイナリスト。M-1にも2回出てますよね。賞レース常連組。しかし個人的好みで言わせてもらうと、優勝とまではいかないのではないかと。

ニッポンの社長・・・5年連続5回目のファイナリスト。なんでも、5年連続というのは史上初だそうで。それだけで表彰ものです。ただ、前にも書きましたが、僕はニッポンの社長、あまり好みではないのです。なので、客観的な評価が難しいのですが、やはり優勝まではいかない気がします。

シティホテル3号室・・・初のファイナリスト。1回くらい観たことあるような、ないような。「ゴッドタン」の「この若手知ってんのか」に出てませんでしたっけ?

ダンビラムーチョ・・・初のファイナリスト。去年のM-1にも出てましたね。漫才もコントもできるということですか。ですが、個人的には去年のM-1のネタ、つまんなかったんですよね。だからあまり期待できません。「期待できない」のを裏切ってほしいとも思いますが。

や団・・・3年連続3回目のファイナリスト。初の決勝のときは、それまでの長い芸歴の中の厳選したいいネタ持ってこれたわけですが、連続で出てるとそうもいかなくなってきます。去年と一昨年を超えるネタを持ってこれるのか?面白いことは間違いないんですけど、それが優勝に届くものなのか。ひょっとしたら、決勝出れば出るほど順位を下げていくタイプなのかもしれません。


皆さんもよろしければコメント欄から優勝予想にご参加ください。第1~第3候補まで予想可とさせていただきます。今回も当たっても何も出ません。
gooブログのコメントフォームには名前とタイトルとURLの入力欄がありますが、これらは必須じゃなくて、コメントだけでも投稿できるはずですので、お気軽にお寄せください。

偽善とは何か――他人の足を引っぱりたがる人達

2024-08-28 00:54:53 | 雑文
日本は災害が多発する国である。台風がしょっちゅう訪れるし、地震も定期的に起こる。地震には津波が伴うこともあるし、稀に火山の噴火も発生する。梅雨の集中豪雨による水害もある。近年は特に、線状降水帯によるゲリラ雷雨が頻発している。
災害が発生すると、被災者が生まれる。被災者は一時的に自宅に戻れなくなったり、悪くすると住み家を失ってしまう。そこまでいかなくても、自宅が一部損壊したり、家具家電を破損してしまったりする場合もある。困窮した人々が一定数生み出されてしまうのだ。
それら困窮者には、支援が必要になる。政府が救済に動くし、メディアで寄付が呼びかけられる。中には、著名人が多額の献金を行うこともある。人より多く稼いでいるなら、献金の額が大きくなってしかるべきだし、より多くの人を、より素早く助けるためには、寄付の額は多いほうがいい。だから、多額の寄付は肯定されるべきである。
だが、そんな著名人には批判が集まりがちだ。そんなのは偽善だ、と。
とあるサッカー選手が、難病の子供の支援の顔役を買って出たことがある。治療の難しい病で、アメリカでしか手術が受けられない。そのための医療費も、渡航費用も高くつく。なので、その子供に手術を受けさせるために、サッカー選手が呼びかけ人となり、寄付を募ったのだ。元々家族が支援を求めていたのだが、それよりも著名人が呼びかけたほうが、多くのお金が集まるだろうと考えたわけだ。
そうしたら、そのサッカー選手に非難の声が上がった。その子だけ助けるのは不平等だ、と。
同じ病気に罹っている子供は他にもいて、みんな同じように苦しみ、死の間際にいるのに、なぜその子だけにしか手を差し伸べないのだ。それは平等ではない。止めるべきだ。そんな非難の声が上がったのだ。
彼らの言い分は、一見もっともらしく聞こえる。不平等なのはよくない。応対は平等であるべき。議論の余地のない正論に思える。
では、そのサッカー選手は、平等な扱いをすべきだったのだろうか。ちなみにこの場合、平等な対応は2つに分かれる。

①同じ難病の子供全員のサポートに乗り出す
②その難病の子供をひとりも助けない

①は原理的に不可能である。ひとりの人間が、数十人、もしくは数百人いるであろう難病の子供全員のサポートを行うなど、できるはずがない。金銭的にも、時間的にも、物理的にも不可能である。
ならば、平等を達成するには②しかない。ひとりの子供も助けない。誰にも救いの手を差し伸べず、命が尽きるに任せる。これなら確かに平等だ。
では、そのサッカー選手は、平等のために、誰も助けるべきではなかったのだろうか。
そんなことはない。「ひとりも助けない」よりは、「ひとりだけでも助ける」ほうが遥かにマシだ。
つまりサッカー選手は、平等を最優先事項にすることはせず、自分のできる範囲で人助けを行おうとしたのである。平等とは、いついかなる時でも最優先されるべきものではない。平等より大切なものなど、いくらでもある。「ひとりも助けない平等」よりも「助けられるひとりの命」が優先されるのは当然のことだ。そのサッカー選手は、正しい判断をしたのである。なのに何故、批判されてしまったのだろうか。
サッカー選手を批判していた人達は、現実的に可能かどうかをよく考えず、助けるなら全員助けるべきだと主張していたのかもしれない。だが、実際問題として全員を助けることなど不可能であり、そのうえで平等を重視するなら、ひとりも助けるべきではない、という結論に到達してしまうのである。
批判していた人達は、そこまで考えていなかったのかもしれない。だが、そんな考えなしの批判によって、「ひとりの命も救われない」という事態を招いていたかもしれないのだ。もし、このサッカー選手が批判の声に傾き、「平等に反するから誰も助けるべきではない」という誤った考えに落ち込み、サポートを撤回していたら、その子供は助からなかったかもしれない。「平等じゃないからよくない」という非難の声が、ひとりの子供の命を失わせてしまっていたかもしれないのである。
このように、他人を偽善者呼ばわりする人達、他人の足を引っぱりたがる人達というのは、社会に一定数存在する。彼らは、何が目的なのだろうか。何を考えているのだろうか。

僕には、彼らの考えていることが手に取るようにわかる。彼らは、「疚しい」のである。
彼らは普段から、困窮している人達に対して、何も行っていない。被災している人達、難病を患っている人達が今、同じ社会にいることを知りながら、寄付のひとつもすることなく、安穏と暮らしているのだ。だから彼らは、そんな我が身を後ろめたく思っている。困窮している人、被災して家を失った人、病に苦しんでいる人がいるのに、自分は何もしなくていいのかと。
その一方で、多額の寄付をしている人もいる。難病の子供のために、多くの時間と労力を費やしている人もいる。何もしていない自分とは違う。
彼らは、疚しさを感じる。自分が冷血であるかのように、無慈悲な悪人であるかのように思えてくる。この疚しさをなんとかしたい。疚しさを拭い去りたい。そうしないと、いても立ってもいられない。
そこでふと気づく。そうだ、多額の寄付をしている人や、難病の子供を援助している人を、偽善者ということにしてしまえばいい。そうすれば、自分は偽善者よりマシ、ということになる。自分は困っている人がいると知りながら、何もしていない。あまりいい人間ではない。でも、そんな自分でも、偽善者よりはマシだ。自分の下には、偽善者がいる。多額の寄付や、難病の援助は、実は偽善なのだ。偽善をやっている人より、何もしていない自分のほうがよっぽどマシだ。自分の下には、偽善者という、自分より悪いヤツらがいる。だから自分は疚しさを感じる必要などないのだ。偽善者よりはずっとマシなのだから。
これが他人を偽善者呼ばわりする人々の心理である。彼らは、自分の疚しさを帳消しにしたいがために、他人に偽善者のレッテルを貼りつけているのだ。「疚しさを感じたくない」という、ただそれだけの、利己的な理由で。
これは自信を持って断言できる。なんなら、彼らに質問してみるといい。「あなたは他人を偽善者と決めつけているが、「善」と「偽善」を明確に区別したうえで言っているのか。あなたは「善」と「偽善」をどう定義しているのか」と。
間違いなく、誰ひとり答えることはできないだろう。彼らは、「善」と「偽善」について真剣に考えたことなど、ただの一度もないはずだ。何が「善」で、何が「偽善」なのか、きちんと考え抜いたうえで「偽善だ」と指摘しているのではなく、疚しさから逃れるために他人を偽善者呼ばわりしているだけなのだから。何が「善」で、何が「偽善」なのか、その定義もできていないくせに、ただ自分の疚しさを帳消しにしたいがために他人を偽善者呼ばわりしているのだ。
この、自分の疚しさを帳消しにしたいだけの人々こそが、多くのお金や時間を費やして人助けをしようとしている人を偽善者と呼び、足を引っぱっているのだ。

一応、僕が考える「善」と「偽善」の定義を述べておく。まず、人が誰かのためにする行為は、「相手」と「自分」がいて成立するものである。「相手」だけでも、「自分」だけでも成立しない。ゆえに、その行為には、基本的に「相手への思い」と、「自分への思い」が共に含まれるはずである。
ここで議論している行為は「善行」であるが、ひとつの「善行」の中には、「相手への思い」と「自分への思い」が込められている。「相手への思い」は、例えば「苦痛から解放してあげたい」とか、「笑顔にしてあげたい」などがあるだろう。「自分への思い」だと、「モテたい」とか、「お礼をしてほしい」などがあるはずだ。
人というのは、基本的に純粋な善人でも純粋な悪人でもない。善と悪がひとりの中に同居しているのが普通である。ゆえに、純粋に相手のためだけを思って善行を行うのは、ほぼ不可能である。善行には、少なからず「見返り」が込められる。「いい人に見られたい」とか、「あとでウマい目に合いたい」などといった見返りが。それらが「自分への思い」=「偽善」である。
ただしその場合でも、パーセンテージで見ると、「自分への思い」より「相手への思い」の比率のほうが高かったりする。純粋な善人でも純粋な悪人でもない普通の人が善行を成す時、どうしても「見返り」という不純物が紛れ込むのだが、それは比率では低めで、「相手を助けたい」とか、「相手のためになりたい」という、「相手への思い」の比率のほうが高いことのほうが多いはずだ。
つまり、ひとつの「善行」の中には、「相手を助けたい」とか、「いい人に見られたい」などの、複数の思いが混在している。そしてそれぞれ、「相手を助けたい」30%、「笑顔にしてあげたい」25%、「いい人に見られたい」10%、「モテたい」5%というふうに、パーセンテージで比率を表すことができる。とすると、ひとつの「善行」の中に混在している「相手への思い」と「自分への思い」をそれぞれ合計し、「相手への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「善」で、「自分への思い」の割合のほうが高ければ、その行為は「偽善」だと見做せよう。
自我というものがいっさい存在せず、純粋に相手のためだけに行動を起こせるような人であれば、混じりっけなし100%の「善」を行えるし、他人の感情をまったく考慮することができないサイコパスのような人であれば、100%の「偽善」を行いえるのかもしれない。だが、ほとんどの人はそのような、純粋な「善」も純粋な「偽善」も行いえず、その中間の「善=相手への思い」と「偽善=自分への思い」が入り混じった「善行」を行うのが通常であるはずだ。「見返り=自分への思い=偽善」がいっさい含まれていないというのは、自我が存在しないということと同義である。
以上が僕の考える「善」と「偽善」の定義である。もちろん個人的な見解でしかないので、同意してもらえなくてもいっこうに構わない。ここで言いたいのは、他人を偽善者呼ばわりしている人達は、ちゃんとここまで考えたうえで指摘しているわけではない、ということだ。偽善者という言葉を使うのであれば、最低限これくらいは考え抜いて使うべきなのだが、彼らは、何が「善」で、何が「偽善」か、ロクに考えもせずに他人を偽善者呼ばわりしているのだ。

ただし上の考えを前提とすると、次のような問題が起こる。定義上、「相手への思い」が51%で「自分への思い」が49%の行為は「善」で、「相手への思い」が49%で「自分への思い」が51%の行為は「偽善」となるが、比率がほとんど変わらないのに、明確に峻別してもいいものだろうか。また、「相手への思い」と「自分への思い」がちょうど50%ずつだったらどう判断すればいいのか。パーセンテージで捉えようとすると、このような問題が発生してしまうのである。
この問題はどうすれば解消するだろうか。もっと明瞭に「善」と「偽善」を峻別することはできないだろうか。
僕は、それはできないと考えている。「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中にグジャグジャと入り混じっているものであり、明確に峻別することはできない。パーセンテージによる比較も、あくまで便宜的なものであって、人の思いが目に見えず、数量化もできない以上、それは確固として存在しているものではなく、そのように考えることもできるという、方便のようなものだ。だから、明確に「善」と「偽善」を峻別することはできない。
しかしそうすると、ひとつの「善行」が「善」であるか「偽善」であるか、正確に指摘することはできなくなってしまう。でも、僕はそれでいいと思う。そもそも他人の心の中を見ることなどできないわけで、「善行」の中に「相手への思い」と「自分への思い」がそれぞれどれだけ込められているかなど、本人以外にわかりようがない(自分で自分の気持ちがわからないこともよくあるので、自身でも判断がつかなかったりするだろう)。だから、人様の行為に対して、偽善だのなんだの、知ったように指摘することがそもそも間違いなのである。
そして、僕が「善」と「偽善」を峻別する必要がないというのは、「善」か「偽善」かを見分けること自体が無意味だと考えているからである。どういうことか。例を挙げて説明しよう。とある人が、誰かのために「善行」を行ったとする。その人の行為の中身は、「お礼をしてほしい」という「自分への思い」が90%で、「助けてあげたい」という「相手への思い」が10%だった。圧倒的に偽善的な行為だったわけだ。だが、「お礼をしてほしい」という願いは叶えられなかった。相手が自己中心的な人だったのか、思いがうまく伝わらなかったのか、ただその行為だけが達成され、見返りはいっさい発生しなかった。
こうなったらどうだろう。その行為は「偽善」として出発したにも関わらず、目論見は挫折し、行為だけが「善行」として相手に受け止められた。つまりその行為は、純粋に相手のためだけに働き、行為者は見返りを受け取ることはなかったのである。そうなると、その「善行」は、目論見としては「偽善」であったにも関わらず、「偽善」が挫折したことによって、純粋な「善」として終わってしまったことになる。
こういうことだってよくあるのだ。行為が「偽善」として出発しても、結果的に純粋な「善」になってしまうことが。もちろんその逆もあるのだが、いずれにせよここで言いたいのは、「善」の目論見も「偽善」の目論見も、必ずしも果たせるとは限らないということである。
だから、ひとつの行為を「善」か「偽善」かという水準で議論することに意味はないのだ。哲学的、もしくは形而上学的になら、「善」か「偽善」かを議論することは、学問的価値があるのかもしれない。だが、日常生活の基準に、そんな七面倒くさい議論を持ち込む必要などない。
だから、「善」か「偽善」かではなく、その行為が「相手のためになっているか否か」という水準で判断するべきなのである。この点を踏まえ、もう一歩踏み込んで考えると、「相手のためになった行為」を「善」、「相手のためにならなかった行為」を「偽善」と見做すこともできるかもしれない。だが僕としては、あくまで行為者の内面の水準で「善」と「偽善」を見定めるべきで、「相手のためになったか否か」は、「有益」か「無益」(もしくは「有害」)かという分類で見るべきだと思う。
つまりまとめると、「「善」と「偽善」は、ひとつの「善行」の中に同居しているのが普通であり、純粋な「善」も、純粋な「偽善」も、ごく一部の人にしか行いえない。ゆえに、ひとつの「善行」を、「善」なのか「偽善」なのか判断しようとするのは、意味がない。そうではなく、その「善行」が、「相手のためになった」か、「相手のためにならなかった」かで判断するべきである」ということだ。

僕がこんなことをくだくだと書き綴っているのは、他人を偽善者呼ばわりする行為が、本人の疚しさを帳消しにするのみならず、公共の福祉を減少させてしまいかねないからである。百歩譲って、「あいつは偽善者だ」という言葉を、心の中で呟くだけなら黙認してもいいと思う。その場合は、本人の疚しさが解消されるだけだからだ。だが、その言葉が直接相手に向けられたらどうだろう。その相手は、たじろぐかもしれない。自分がやろうとしていることは、間違っているのだろうかと戸惑うかもしれない。迷った挙句、寄付や援助を取り消してしまうかもしれない。
そうなったらどうだろう。多額の寄付があれば新しい住まいを手に入れられていたはずの被災者が、体育館での避難生活を長引かせることになってしまうかもしれない。著名人のサポートがあれば多額の寄付を集め、手術を受けられたはずの難病の子供が、目標の金額を集めることができず、そのまま亡くなってしまうかもしれない。
他人を偽善者呼ばわりする人達のせいで、被災者はより困窮し、難病の子供は命を落としてしまいかねないのだ。自身の疚しさから逃れたいという、そんな身勝手な動機によって、他人を不幸に陥れてしまうかもしれない。他人を偽善者呼ばわりする行為は、それほどの問題を孕んでいるのである。
だから、他人を偽善者呼ばわりしている人には、たったひとこと、こう言ってやればいい。
「そんなことを言っているヒマがあったら、お前もお前のできる範囲で誰かを助けてやれ」
難病の子供のサポートを行ったサッカー選手は、「平等じゃない」と批判された。だが、そのサッカー選手ひとりだけでは、できることに限りがある。難病の子供全員を救うことなどできるはずがない。
では仮に、サッカー選手を批判していた人達が、他の難病の子供の支援に動いたらどうだろう。そうしたら、サッカー選手だけではひとりしか救えなかったのが、ふたりさんにんと、救える子供の数を増やしていけるかもしれない。その援助の輪がどんどん大きくなっていけば、難病の子供全員を救うことだって可能になるのだ。そうなれば、事実上「平等な援助」の達成となる。
だから、他人を批判しているヒマがあったら、自分で援助に乗り出すべきなのである。できる範囲でいい。寄付するだけでもいい。お金にゆとりがないのであれば、100円でも10円でもいい。やらないよりはやったほうがいいのだ。その一助によって、命が助かる子供がひとりだけでも増やせるかもしれないのだから。
だから、他人を偽善者だの不平等だのと批判するより、できる範囲の援助をすべきなのである。
そのうえで、さらにひとこと付け加えるならこうだ。
「それができないのなら、せめて他人を偽善者呼ばわりするようなマネだけはするな」
どうしてもお金と時間に余裕がなくて、寄付もサポートもできないというなら、それは仕方ない。援助は無理強いするべきものではない。
だがそれなら、せめてものマナーとして、他人の足を引っぱるマネだけはすべきじゃない。足を引っぱるというのは、これまで散々繰り返してきたように、他人を偽善者呼ばわりすることである。「偽善だ」という指摘によって、指摘された人は、寄付を取り止めるかもしれない。サポートを中止するかもしれない。そうなれば、助かるはずの人も助からなくなってしまう。他人を偽善者呼ばわりすることで自分の疚しさを帳消しにしたいという卑しい願望によって、助けを逃してしまう人が出てくるかもしれないのだ。それは場合によっては命にかかわる。疚しさを帳消しにしたいという身勝手な動機のせいで、最悪人の命を奪ってしまうことになるのだ。だから他人を偽善者呼ばわりしないというのは、せめてものマナーとすべきなのである。
上のふたつの言い分を、どちらも聞き入れられないというなら、最後にこう言わなければならない。
「どうしても自分の疚しさを帳消しにしたくて、他人を偽善者呼ばわりせずにはいられないというのなら、最低限のルールとして、誰にも聞こえないように言え」
「それは偽善だ」という指摘は、本人の耳に届くと、寄付やサポートをキャンセルしてしまいかねない。世の援助を減少させる、極めて有害な行為なのだ。だから厳に慎まれなければならないのだが、それでも疚しさをなんとかしたくてしょうがないという人もいるだろう。その願望は、人間らしいといえばあまりに人間らしいものだ。僕はその人間らしさそのものを否定するつもりはない。
だから、どうしてもというのなら、疚しさを帳消しにすることそれ自体は黙認されるべきである。しかしだとしても、それが援助の減少に繋がるようなことになってはならない。だから、「誰にも聞こえないように言う」。これが譲ることのできない最終ラインだ。最低限度、これだけは弁えておかねばならないルールなのだ。
いっさい寄付をしない(誰も助けない)のは認めてもいい。疚しさを帳消しにするのも、まあいい。だが最低限、誰の足も引っぱらない形で疚しさを帳消しにするべきだ。それだけは守ってもらわねばならない。
「偽善だ」という指摘が――直接的であれ間接的であれ――援助をしようとしている人の耳に入ると、援助が取り消されてしまうかもしれない。だからその指摘は、本人の耳に入れてはならない。いや、本人以外の耳にも入れてはいけないのだ。今はしていないけど、将来的には寄付をするかもしれない人の耳に、「寄付は偽善」という声が入ったらどうなるか。それを真に受けて、これから先もずっと寄付をするまいという判断を下してしまうかもしれない。つまり、「偽善だ」という声は、現在だけでなく、将来の寄付まで取り消しにしてしまいかねないのである。今現在でも「偽善だ」という指摘を真に受けている人、真に受けながら生きてきた人は一定数いるはずで、それによって失われてきた寄付の総額はかなりの額に上るであろうことは、想像に難くない。
だから、誰にも聞かせてはならない。地面に掘った穴に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶがごとく、誰にも聞こえないように言わなければならないのだ。それこそが、「いいことなど何ひとつしてなくて、自分は自分のことしか考えていないのではないかという疚しさを抱えている人」が弁えるべき、最低限のルールなのである。

自らの卑小な自尊心を慰めるため、疚しさを払拭するために他人を偽善者呼ばわりし、公共の福祉を減少させている人達。いい加減気づいてもらわねばならない。自分がどれだけ卑しいことをしているのかを。何が「善」で何が「偽善」であるかの区別すらついていないということを。知ったふうに偽善だと指摘することで、どれだけ害悪を撒き散らしているのかを。
自分が世の中のために何もしておらず、そのことを疚しく感じているのなら、せめてその疚しさに向き合い、受け入れ、耐えるだけの度量を持つべきである。どうしようもなく存在する疚しさは、他人の足を引っぱることで解消するものではなく、己の卑小さを自覚するために共存すべきものだ。「自分は何もしていない」という自覚とともに、謙虚に生きていく。それが分別ある大人の在り方というものだ。
僕は人の卑しさそのものを否定するつもりはない。そもそも人間というのは卑しい生き物であり、だからこそ愛おしいとすら思っている。問題は卑しさの在り方だ。卑しさとどう向き合うか。どうやって卑しさを飼い馴らすか。率直に「自分は卑しい」という自覚を持ったうえで、いかに謙虚に生きていくか。
「謙虚に生きる」という境地に辿り着けない人が、他人を偽善者呼ばわりするのである。自分の卑しさを自覚することも、卑しさと共存することもできない未熟な人が。

R-1グランプリ2024 感想

2024-03-12 23:47:44 | 雑文
3月に入り、寒さのピークはようやく過ぎたものの、それでも春の訪れにはまだしばらくかかりそうで、やはり冬は長いとあらためて実感せざるを得ないとはいえ、解散したプラス・マイナスの今後が気になってしょうがない今日この頃、皆さんご機嫌いかがですか的なR-1グランプリの感想文です。
明治がスポンサーになることで、ヨーグルトのR-1とのコラボという、長年の悲願がついに達成されたR-1グランプリ。今回から芸歴10年以内という制限が撤廃されましたが、それとネタ時間が3分から4分に変更されました。前からネタ時間が短いと思ってましたので、個人的には喜ばしいです。

個別の感想は以下の通り。まずはファーストステージから。


真輝志・・・高校に入学したての、一見平凡な少年。しかし隠れた才能があった?ドラマやマンガによくある、オープニングで「これはどのような物語か」「どんな結末が待ち受けているのか」をナレーションで示すという演出を利用したネタ。普通登場人物にナレーションは聞こえないが、なぜか聞こえてしまうことで、これから選択しようとしている活動が、つまらない結末をもたらすことを知ってしまう。
フィクションのお約束を逆手に取った、お遊びネタですね。英語のナレーション、なんて言ってたの?誰か教えて!あと、軟式ラグビーって実在するんですか?主人公の結末ばかりが示されるのかと思いきや、クラスメイトの女子も入ってきて、2人の物語が交差するというドラマチックな展開。全体のまとまりがよくできていました。
おそらくこれが全国はじめましての真輝志。「ほなええわ」の人として覚えられるかもしれません。

ルシファー吉岡・・・婚活パーティーに参加した男・戦原(そよぎはら)。しかし女性陣はパーティーのルールを理解しておらず、説明役を負わされてしまう。
1分ごとに対面相手が入れ代わる自己紹介タイムという形式をうまく利用しています。時間が1分しかないので、説明が終わるとともに相手が交代し、自己紹介をするヒマがない。同じパターンを繰り返すたびに、チャイムの「チーン」という音が主人公のガッカリ感の表れのようにむなしく響く。最初は説明するのが煩わしかった主人公が、だんだんムキになっていき、説明に対する責任感が生まれていく。
いや、よくできていますね。このシンプルな設定。日常の延長のようなありきたりなストーリーでよくここまで。「空回り」とか「孤軍奮闘」とか、お笑いの典型ですけど、その基本に立ち返りつつ精度の高さを見せつけられた思いです。

街裏ぴんく・・・ルシファーを称するのはともかく、「こう見えても女芸人」とは?ちょい不安なスタートでした。
作り話を実体験のように語る、ぴんくのファンタジー漫談。プールに行ったら石川啄木と遭遇、正岡子規やキュリー夫人まで登場するというタイムスリップ的な話。
ぴんくの漫談は、和田アキ子とX JAPANのToshiがケンカする話とか、芸能人が登場するのもありますけど、今回1本目にこのネタを持ってきたのは、認知度がほぼゼロだからでしょうね。自分のネタがファンタジー漫談だと知らなければ、事実を話してるのか、ウソの話なのかどうかが、よくわからない。芸能人が登場する話だと、本当のことと受け止めてしまうかもしれない。だから、作り話であるとすんなり理解してもらうために、歴史上の人物が登場する話にしたのです。その判断は正解でした。この1本目で街裏ぴんくという芸人を知らしめ、2本目のファイナルステージにつなぎ、優勝への流れを作ったのだと思います。

kento fukaya・・・マッチングアプリのネタ。男たちのプロフィールが奇妙なものばかりで混乱してしまう。フリップではなく、モニター使ってましたが、kentoの感覚ではフリップの変形(もしくは延長)なのでしょう。
最初は男の選択眼が厳しい女による毒舌ネタかと思いきや、登録している男の大半がおかしなやつらだった。ガラケーユーザーの僕には、iPhone 2Sのおかしさが理解できませんでした。「人人」を一発で「ひとんちゅ」と読めるのはスゴい。こういうプロフィールをひたすら考えるのが楽しくてしょうがないんでしょうね。それが伝わってきました。
陣内智則が指摘していた通り、くりちゃんの趣味がサプライズだったので、そこをオチに持ってくるべきだったと思います。あと、手にした「ト」の使い道が何かあったはずです。

寺田寛明・・・ツカミの「今日の偏見」、「インスタにしょっちゅう肉寿司の写真を載せる女は肉寿司がだぁいすき」って?思わず「そのまんまじゃねーか!」と叫んでしまいました。マイナスからのスタート。
国語辞典にネットのようなコメント欄があったら、というネタ。寺田らしい、知性を感じる考え込まれた作り。コメントによって、「言われてみればたしかにそうだな」と思わされる。聞いたことない言葉であってもちゃんと笑える構成。犬侍の、「応仁のわん」「ポメ騒動」みたいなダジャレは、いかにもネットのコメント欄にありそうなノリ。最後の「暗澹たる」の、「あんたんが重い樽を運んでいる」という解釈からの畳みかけで爆発していました。よくできていましたが、爆発、やや遅し。

サツマカワRPG・・・不審者と思わせといて、実は防犯ブザーの講習会。そういやサツマカワはカツラユーザーでしたね。今まで地毛を隠していたのが、武器として使う決意を固めたということでしょうか。カツラを取ったサツマカワ、うっすら遠藤憲一に似てますね。
お父さんの肉声バージョンに対する当たりが強すぎる。特定のユーモアに憎しみを抱いているのでしょうか。最後、子供と思いきや幽霊だったというオチ、少々安易に思いました。こういう「私のことが見えるんですか?」と話しかけられるのって、よくコントで使われてますよね。驚かす手法として便利なんでしょうけど、いろんな芸人さんが使ってるのを見てると、あまり軽々しくやらないでほしいと思っちゃいます。
大会後、でか美ちゃんとの結婚を発表したサツマカワ。末永くお幸せに。

吉住・・・彼氏の両親の家に挨拶に来た女。実は頻繁にデモ活動している危険人物だった。吉住の得意とする世界観。可愛い子ぶった振る舞いと狂気のギャップ。初め「ナオキさん」だったのが、2回目から「ナオくん」になっており、その礼儀のわきまえなさが、イタいキャラであることをさりげなく示しています。この作り込み、実にうまい。
多くの人が指摘していることですが、演技力も高く、ネタの世界に引き込まれます。さすが女優。個人的に今大会で一番よかったです。
なんでも、吉住のこのネタに対し、SNSで非難の声が上がっているそうで。いわく、「デモを揶揄するのはよくない」。あのね、これはお笑いなんですよ。冗談でコミカルに描いているのであって、本気でバカにしているわけじゃないんです。弱い立場にいる人を、さらに追い詰めかねない表現ならともかく、この程度で揶揄ってねえ。なんにでも難癖つけたがる人って、どこにでもいますね。

トンツカタン お抹茶・・・かりんとうの車のネタ・・・ってなんじゃそりゃ?かりんとうで作られた自動車が街を疾走。ミュージックビデオよろしく歌が情景を説明する。
歌ってるのは本人ではなく、録音された他人の声(ひょっとしたらボイスチェンジャーかも)で、たまに入るコーラスが本人。逆じゃない?もうわけがわからない。わからな過ぎて、「もう徹底的に好きなようにやってくれ」という気分になってしまいます。かりんとうと抹茶の相性のよさは認めざるを得ないとしても。審査員泣かせのネタ。あとなんか、ひさしぶりにかりんとうが食べたくなりました。
曲の完成度は高いので、聴いていて気持ちよくなります。しかし、「気持ちよさ」が「面白さ」を上回ってしまった感が否めません。ネタとして賞レースに持ってくるより、TikTokで流したほうがいいんじゃないでしょうか。バズりますよ、きっと。お抹茶はもう、好き勝手やらせるのが一番いい芸人のひとりと認めていいでしょう。トンツカタンではこのエキセントリックさがいっさい表れていませんが、そのほうがいいのでしょうか。トリオだとあまり目立てないので、その反動でこのようなピンネタが生まれてる、とか。それと、ここまでキャラが立ってるとは知りませんでした。なんとなくおとなしいタイプかと思っていたのに、妙にポジティブな陽キャ。このキャラだけで売れる余地アリです。
この世界観、クセになってしまうかもしれません。クセになる、つまりお抹茶にハマっちゃうということです。

どくさいスイッチ企画・・・ツチノコを発見した男の人生。よくも悪くもツチノコに振り回される一生を送る。リアルな描写を重視したんでしょうけど、10分後・3時間後・18時間後あたりは省いていいと思います。それよりもっとドラマチックなことが起こる場面を入れてたら、笑いが増えていたはずです。リアリティを多少犠牲にして、非現実的な飛躍をもうちょっと入れていたら。それでも充分面白かったですけどね。
どくさいはこれからもアマチュアのまま活動を続けるのでしょうか。だとしても、ネタ番組に呼ばれるようになってほしいです。


続きましてファイナルステージ。


吉住・・・窃盗事件の現場に駆けつけた鑑識。そこは交際相手の会社だった。彼氏の前では可愛い子ぶり、上司の前では冷静なプロの顔になる。ひとつ思ったのが、この「ツン」と「デレ」の切り替わりがもっと激しく行われてたらよかったんじゃないか、ということ。あと、浮気が発覚して態度豹変しますけど、その冷酷に詰め寄るさまが「ツン」と「デレ」より面白いので、このパートをもっと長くしてたら、と思いました。
1本目がよすぎたせいで、こちらがイマイチに見えているのかもしれません。

街裏ぴんく・・・実は自分はモーニング娘。の初期メンバーだったという告白。その舞台裏を打ち明ける。1本目で自己紹介は済んでますから、みんなファンタジーを素直に楽しめます。悦夫・越・嗚咽。漢字で入力して確認したくなりました。
トータルで感じたこと。台本の出来(面白さ)とは別に、話術の巧みさというのもあって、巧みであればあるほど「つい引き込まれる」とか「ずっと聞いてられる」ようになります。落語や講談などの話芸に共通する心地よさ。ぴんくにはその巧みさがある。加えて、熱量。とにかく懸命に、大きな声でまくし立てるその熱量に、聞き手は「本当のことを話している」と同意せざるを得ません。同意するといっても、このデタラメな話をまんま信じるということではなく、「ウソとわかりつつもノリを共有し、ファンタジーの世界にともに入り込む」ということです。それによって、ぴんくの世界を内側から眺めているような感覚になり、よりおかしくなるのです。この熱量あっての優勝だったと言えましょう。
ぴんく、本当におめでとう。R-1には夢がある。

ルシファー吉岡・・・アパートの隣人の騒音に、苦情を言いにきた男。しかしそれよりも、隣人の大学生ケンジ君の、ラブコメ(もしくはリアリティ番組)のような日常の熱心な視聴者(?)だった。このネタのネックは、登場人物が多いこと。ケンジとその友人、ミカミ、ユキコ、ヨシエ、レイナが出てきますが(本筋と関係ないけど、名前の古くささにルシファーの年齢が表れている)、ピン芸なので、当然のことながら観ている側で想像して補うしかありません。この想像、5人もいると把握が大変。誰がどんなキャラだか、それぞれの関係性はどんなだか、覚えながら話のスジを追わなきゃいけない。僕は正直、1回観ただけでは理解できませんでした。このわかりにくさが敗因ではないでしょうか。せめて3人くらいにしておけば。ケンジとユキコとレイナの三角関係だけでも成立したはずです(脳科学的に、人は3つまでのものなら同時に把握できるけど、4つ以上となると把握が困難になるのだそうです)。「じゃないんだよ」の前の間はよかったですね。
それより気になったのが、今回2本とも下ネタではなかったところ。なにか心境の変化でもあったのでしょうか。それとも、下ネタかどうかにこだわらずネタ作りをして、たまたま出来た強いネタが下じゃなかった、ということなのでしょうか。本人に訊いてみたい気もします。


今回芸歴制限の撤廃により、エントリー数が過去最高になりました。当然全体のレベルも上がっているわけです。芸歴10年以内なのは、10年目の真輝志と、9年目の吉住だけ。
苦労人に報われてほしいと望んでいる僕にとって、今大会は喜ばしい結果となりました。ぴんくは以前悪役専門の俳優事務所に入っていたそうで、自分でコワモテだと言ってますけど、僕はカワイイ顔してると思います。愛されキャラになる素質アリだと。これから起こるブレイクに期待。ネタのストックたくさんあるでしょうから、ネタ番組に定期的に呼ばれるようになってほしいです。
なんだかんだ言って、結局盛り上がるR-1。これからもドラマを起こし、スターを輩出してくれることでしょう。
不正がバレないよう頑張ってください。