徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

亀田製菓 こつぶっこ

2024-02-23 23:28:01 | 
今日は上から読んでも下から読んでも同じようで微妙に違うものです。




言うたら、ひとくちサイズの歌舞伎揚げです。小粒な子。子供のころから食べてました。昔はグリーンピースが入っていた気がするのですが、記憶違いでしょうか。
みんなセコいんじゃないかって話をします。お金儲けとか、損得に関する話。
テレビで飲食店が紹介されるとき、よく店主がインタビューで、「お客さんの笑顔が見たいだけ」(もしくは、「おいしいって言ってほしいだけ」)って語ってますよね。ほんと、しょっっっっっちゅうあるじゃないですか。うんざりするほど何度も観てるでしょ。
「自分はお金儲けがしたいわけじゃない。お金のためじゃなく、人を喜ばすために働いてるんだ」という言い分です。その言葉を聞いた人々は、「謙虚で真面目ないい人だ」と受け止めるわけです。
ある種お約束ですよね。飲食店の経営者たるものこう答えるべし、みたいな。
「笑顔が見たいだけ」と語った店主も、以前テレビで「笑顔が見たいだけ」と語ってる飲食店のオヤジを観ていて、それで「オレもこう答えるか。オリジナルのいい言葉なんか思いつかないし」と考えた。それで、飲食店店主のテンプレートとして、「お客さんの笑顔が見たいだけ」という言葉が徐々に広まった。そういうことなんじゃないでしょうか。
んでね、これがただのお約束の一種というだけなら問題はないんですよ。だとしたら、挨拶みたいなものですからね。でも、ことはそれだけにとどまらないのです。
「笑顔が見たいだけ」と語ったお店は、高い利益を取ることが許されないからです。
そういうお店って、みんなお安いですよね。20年前から値上げしてないとか、ワンコイン(500円)で出せないような料理がワンコインだったりとか、ちゃんと儲け出てんのかって心配になるくらい値段が安い。売れば売るほど赤字になりそうな値段設定だったりします。
お客さんにとってはありがたい限りです。安い値段でおいしい料理を食べられるのですから。
でも、店側はほとんど利益が出ない。長く経営を続けることはできても、お金を蓄えることはできないのです。
僕は、それを申し訳なく思うのです。自分たちのために儲けることができずにいる、って。
たしかに、店主は「笑顔が見たいだけ」と言ってました。でも、それがすべてでしょうか。
僕はそう思いません。そう語った店主だって、少しは儲けたいって気持ちがあるはずです。にんげんだもの。
なんか、テレビなどのメディアが、「笑顔が見たいだけ」という言葉を広め、その模倣者を生み出し、飲食店店主たるものかくあるべしというイメージの固定化をもたらしてるんじゃないかって気がするんですよね。で、そのかくあるべしというイメージのせいで、飲食店はヘタに値上げすることができなくなっている。
値上げする気がないから「笑顔が見たいだけ」と語ってるのではなく、値上げできないから「笑顔が見たいだけ」と言わざるを得ない、って人もいるんじゃないでしょうか。実は順接が逆だったという。
「儲けを追求しないこと」が美学とされるのが国民性なのですね。なぜそのような美学が生まれたのかは、なんとなくわかります。以前「勤労は美徳であるという観念について――無為による相対化を」(2023・12・2)という論考でその理路をたどりましたので、詳しくはそちらをご参照ください。

新型コロナウイルスが流行を極めた時期、感染防止対策として、飲食店への時短営業や休業の要請が行われました。それは散発的に行われ、トータルでかなり長い期間に及びました。
その結果として、経営を維持することができなくなり、閉店に追い込まれてしまったお店が少なからずありました。
長いこと地域の名店として親しまれてきたお店。多くの常連をかかえるお店。「この町と言えば」という質問の答えに必ず上がるお店。
そんなお店が、時短や休業によって、あっけなく閉店に追いやられてしまった。そんな話を数多く聞きました。
僕は思いました。もしそれらのお店が、ほんの少し利益を多めにとっていたら、と。
値段をちょっとだけ上げることで、利益を貯蓄に回すことができていれば。もしそのような貯蓄があれば、お店はつぶれずにすんだのかもしれない。
蓄えとは、お店にとっての足腰の強さのことです。蓄えの多寡は、足腰の強弱となって表れます。
蓄えが少ないお店、つまり値段の安さのせいで貯蓄ができないお店は、足腰が弱い。だからちょっとの期間でも経営が苦しくなると、身がもたなくなる。
コロナの時短や休業でつぶれてしまったお店は、そのようなお店だったのです。蓄えがないから(足腰が弱いから)、少しでも収益が途絶えるともたなくなる。
それって見方を変えれば、「1円でも安いほうがいい」としか考えてなくて、経営側の都合はいっさい配慮しない客側のせいで貯蓄ができずにいた、ってことなんじゃないでしょうか。
自己都合しか考えない客のせいで貯蓄ができなかった。ひいては、そのせいで時短・休業の期間につぶれてしまった。
それって、僕たち客がつぶしたようなものなんじゃないでしょうか。
少なくとも、コロナだけが悪いのではなく、半分くらいは客の責任なのではないでしょうか(それだけでなく、時短と休業の要請を決定した為政者の責任も問うべきなんでしょうけど)。
だから僕は申し訳なく思うのです。どうして飲食店は、儲けることが(おおっぴらには)許されないのか。
僕は、しっかり儲けてくれてもいいと思うんです。おいしいものを食べさせてくれるのなら、儲けを得るのは当然の権利のはずですから。
なのに日本では、それはあまりいいことではないと思われている。飲食店の店主は、「お客さんの笑顔が見たいだけ」と考えるべき、と思われている。
「笑顔が見たいだけ」という考えが、半ば強制されているのです。理想の美学として、空気のように支配している。
それってなんか、理不尽じゃないですか?なんでそんな、儲けることが許されないのでしょうか。
まあ儲けばかり考えてるのはどうかと思いますけど(でもそれも個人の自由ではありますけど)、でも、「お客さんの笑顔が見たいし、お金も儲けたい」であってもいいじゃないですか。なんでそんな美学ばかり求められなきゃならないのですか。

飲食店は気の毒です。今もなお、薄利多売でなければならないのですから。
「お店の安定した経営のために、少しくらい多めに払ってもいい」という客はおらず、「一番安い店はどこか。1円でも安いほうに行く」ような客ばかりなのですから。
物価高のニュースが報じられる際、よく飲食店の、「値上げしたいのは山々だが、そうすると客が離れてしまう」という声が紹介されますよね。それって、「値上げしても通い続ける」とか、「店を応援するために多めに払ってもいい」って考えてる客がほとんどいないってことじゃないですか。
そーゆー意味では、日本の客は成熟してないというか、自己都合ばかりの「コドモの客」ですよね。
みんなオトナになるべきですよ。少し多く払ったら、「損した」とウジウジ考えるのではなく、「これでお店の経営が安定する」と前向きに考えるオトナに。
なんかね、お金儲けとか、蓄財の方法みたいなの、みんな飛びつくじゃないですか。「どうやったら得できるか」ってことばかり考えてる。
でもね、僕は得することばかり考えてちゃダメだと思うんですよ。
だって、自分が得するということは、そのぶんほかの誰かが損するってことですから。自分にとっての得は、誰かにとっては損なのです。
だから、得ばかり追い求めるのは、誰かにひたすら損を押し付けることになってしまう。自分の利益ばかりを考えて、他人の都合はいっさい度外視した、自己中心的な考え方なのです。
だから僕は、得することばかり追求すべきじゃないと思います。得することばかりではなく、「適度に損をする」ことも必要なのです。
自分の損は、誰かにとっての得です。自分が少し損をすることで、誰かが助かるのです。経済というのは、そのようにして回していくものなのです。
得することばかり考えている人は、自分のところにお金を集めようとしているばかりで、「回そう」とはしていない。自分のところに富を偏在させ、ほかの誰かを貧困に追いやろうとしているのです。
お金には限りがあります。どこかに富が集中すれば、そのぶんほかには回らなくなる。自分が裕福になれば、そのぶん誰かが貧しくなる。
そのことをきちんと自覚すべきです。そのような自覚のある人をオトナと呼ぶのです。
今の日本には、そんなオトナがほぼいないのでしょう。それがコロナ禍で飲食店がつぶれた原因のひとつなのでしょう。
口では「応援してるよ」と言いつつも、カンパのひとつもせず、ほとんど利益の出ない安い定食を待ちわびていただけの人々。そんな人々が地域の名店を廃業へと追いやったのでしょう。

ああ、オトナはどこにいるのでしょうか。
ねえそこのアナタ。アナタはオトナですか?

ブルボン レーズンサンド・パイナップルサンド

2024-02-16 23:44:28 | 
今日はスッパサンドです。






パンかケーキのたぐいかと思ってたのですが、ソフトクッキーなんですね。ドライフルーツの甘酸っぱさを噛みしめましょう。
なんかヤダな~、怖いな怖いな~って話をします。あなたの身にも降りかかるかもしれない恐怖の話。
ある日、買い物か何かで外出したときのこと。時刻は夕方で、自転車で近所の住宅街を通り抜けていました。
すると、道端に4,5歳くらいの女の子が、ひとりでたたずんでいました。何をするでもなく、ただ突っ立っており、周りに家族らしき人もいません。
不自然な光景に見えました。迷子のようでもあります。
何か困っているのかもしれないと思い、「どうかしたの?」と声をかけました。
するとすぐ横の家の中から、「◯◯(女の子の名前)、なんしよるとね!」という叫び声がしました。明らかにお母さんです。
呼ばれた女の子は家の中に入っていきました。僕も迷子ではなかったので安心し、その場を去りました。たぶん女の子は、母親と一緒に帰宅していたけど、ちょっとした気まぐれで家に入らず、グズグズしていたのでしょう。
たったそれだけの、なんでもない出来事なのですが、あとになってふと、面倒なことになるかもしれないと気づきました。
僕の女の子に対する言動が、「不審者っぽかった」からです。
いわゆる「声かけ事例」ってのありますね。よからぬことを企んでいる犯罪者予備軍(あるいは、れっきとした犯罪者)が、未就学児童や小学生に話しかける、というやつです。
ハタから見たら、僕がしたこともそれに該当するのです。そのことに思い至って、ハッとしたのです。
僕は純粋に女の子のことが心配になっただけです。何かあったらいけないし、何か手を貸すべき状況かもしれないと思って声をかけました。
ですが、それは客観的には、不審者の声かけ事例に見えてしまう言動だったのです。
女の子が、僕に話しかけられたことを黙っていたら、何も問題は起こりません。ですが、もし母親に、「さっき知らないおじさんに話しかけられた」と打ち明けたらどうでしょう。
まだ4,5歳の女の子です。ある程度歳がいってたら、「知らないおじさん」が、「心配して話しかけてくれた」のか、「よからぬことを企んで近づいてきた」のか、相手の様子で察することができるでしょう。しかし、4,5歳ではその判別がつかないかもしれません。
それに、まだ言葉足らずな年ごろです。「知らない人に話しかけられた」とだけ伝え、それ以上の詳しい説明がなかったら、母親がその限られた情報から、相手が不審者ではないかと推測するのは、ごく自然な流れです。
結果的に、僕が声をかけたのは、「どうかしたの?」というひとことだけだったこと。声をかけたのが、相手の様子を察することができず、状況を詳しく説明する言葉も持たない年齢の子供だったこと。そして、目撃者がいないこと。
これらの要因が複合することで、「子供を心配した大人の気遣い」が、「不審者の声かけ事例」にすり替わってしまった(かもしれない)のです。なんということでしょう。
「不審者出没マップ」なるものを見たことがあります。町内の地図に、不審者が出没した地点を指し示している、一種の防犯グッズです。出没地点には、「何月何日の何時ごろ、こういう見た目の何歳くらいの男が、何年生の子に◯◯と話しかけた」という説明が付されていました。
ひょっとしたら、僕もそのマップに追加されてしまうかもしれません。純粋な思いやりだったのに・・・。

似たようなことが、ほかにもありました。同じように、とあるJRの駅の近くを通りがかったとき、ひとりで泣きながら歩いている、やはり5,6歳くらいの女の子がいました。
僕は心配になり、「どうしたの」と声をかけました。女の子は、「ママがいない」と答えました。
しかし女の子は、迷いのない足取りでスタスタと歩いていきます。母親を捜している動きには見えません。
僕は少し困惑しつつも、ほっといたら危ないかもしれないと思い、一緒についていきました。
女の子は、近くのマンションの玄関に入りました。そして、「開け方わからない」と言いました。
どうやら、ここが女の子の家のようです。母親とはぐれたけど、母親を捜すより自宅に帰ることを優先した、ということだったのです。あるいは、母親が先に帰っていると踏んだのかもしれません。
いずれにせよ、僕には何もできませんでした。1階がオートロックになっているマンション。入口の暗証番号もわからないし、管理人などに助けを求めることもできません。ただ一緒にいることで、女の子をなぐさめるのが精一杯でした。
幸運なことに、5分もしないうちに母親がやってきました。母親は、女の子が勝手にいなくなったことに腹を立てていました。
僕は母親に、「泣いていたんで、心配になってついてきました」と説明して、その場を去りました。母親は、特に僕を疑ってる様子はありませんでした。善良な市民であると信じてもらえたようです。
ですが、もしその母親が、疑り深い性格だったらどうでしょう。「あなた誰なんですか」と詰め寄られていたかもしれません。
あるいは、もしも僕が、いかにも不審者という見た目をしていたらどうだったでしょうか。こちらが何を言おうが、問答無用で不審者認定を食らっていたかもしれません。ああ、さわやかな男前でよかった・・・。
こーゆーとき、つくづく男であるのは不利というか、親切がしづらいものだなと思います。女性であれば、不審者とみなされることは、まずありません。よっぽど挙動不審でなければ、女性の親切は、正しく親切だと受け止めてもらえる。
なのに男は、声をかけただけで逮捕されかねない。困ったことです。
性犯罪者は圧倒的に男のほうが多いから、やむを得ないことではあります。しかしそうなると、自分の身を守るために、気安く子供に話しかけることができなくなる。もし本当に子供が困っていたり、危険がせまっていたとしてもです。自分を守るために、子供を危険にさらすことになってしまう。
これ、どうしたらいいんでしょうね?
「優先されるべきは子供の安全」と割り切り、逮捕覚悟で声をかけるしかないのでしょうか。
皆さん、どう思います?