今日は木材です。
ここにひとつの疑問があります。小枝を固めてひとつの大きなかたまりにすれば「大枝」になるのだろうか、という疑問です。これは高度に社会工学的、かつマルクス経済学的問題であり、パッケージが小分けにされていなかった時代には、暑さで溶けてふたたび固くなったときにひとかたまりになっていたことがよくあり、それはまさしく大枝と呼ぶにふさわしいものであったことは明白で、しかしそれを大枝と呼び習わしていたかというとそうではなく、食べにくさを感じながらも無心でかぶりついていた記憶しかないのですが、いずれにせよコーンパフ入りのこのチョコの美味しさは間違いないわけで、「花より団子」ならぬ「花より小枝」ということわざを作り出したいところではありますが、そんなことをしたら桜の小枝に食らいつくバカ者が出てこないとも限らないわけで、ゆえに「迷わず食えよ」とだけ言っておきます。
何年か前に、熊本の市議会議員で、赤ちゃん連れで議会に出席しようとした人がいましたよね。生後半年くらいの自分の子供を議場に連れてきたお母さん議員。ほかの議員さんが「規則違反だ」って制止して、「子供と一緒に出させろ」「いやダメだ」の押し問答になり、議会の始まりが1時間ほど遅れたと。そんな話。
詳細は覚えてないんで、そのへんが気になる方は各自調べてください。僕はこの出来事の細かい内容を精査したいのではありません。僕がここで議論しようとしているのは、赤ちゃん連れで出勤することの是非についてです。
まず基本的立場を言わせてもらいますと、個人的には赤ちゃん連れの出勤、おおいに賛成で、積極的に認められるべきだと考えています。
赤ちゃん連れの出勤に反対する人の見解は、仕事に差し障りが出るからよくないというもの。しかし赤ちゃんなんて、こう言っちゃあなんですが、おとなしくしてれば人形と一緒ですよ。お人形さんが横に置いてあるだけだと想像してみてください。大した問題には思えないでしょう。
仕事の差し障りというのは、「赤ちゃんを連れてくるな」と騒ぎ立てることによって発生するのです。騒がなければ、つまり赤ちゃんを気にしなければ差し障りはないのです。
赤ちゃん連れ出勤に反対している人たちは、赤ちゃん自体に差し障りがあると思い込んでいますが、それは正しくありません。赤ちゃん連れ出勤に反対する言動によって差し障りが起きているのです。よーするに、騒がなければいいだけの話なのです。
議会の開始が1時間ほど遅れたのは、お母さん議員が赤ちゃんを連れてきたせいだと考えている人もいます。でも、僕はそう思いません。赤ちゃんを議場から追い出そうとした議員さんたちのほうに責任があると考えています。
赤ちゃんを議場から締め出そうとした議員さんたちは、規則を守ろうとしていました(政治的意見が対立している相手だったから、嫌がらせのために排除しようとした、という指摘もあります)。「議員以外の人間を出席させてはいけない」という規則があるんでしょうね。その決まりからしたら、赤ちゃん連れを認めなかったのは正しいように思えます。でも、本当にそうでしょうか。
そもそも、規則はなんのためにあるのか。議会の円滑な進行のため、および議員全体の利益のためです。それらが侵害されないように規則が設けられている。
なら、「議会の円滑な進行」も「議員全体の利益」も侵害されない場合であれば、規則を適用させる必要がない、ということですよね。
規則は、起こりえる様々な事態を想定して制定されます。「こういうことが起こったらこうしなきゃならない」という想定。しかし、思いもよらない出来事というのは起こりえます。規則では対応できない出来事。あるいは、規則のほうが間違っていたと気づかされる出来事。そのような、「規則の不備の気づき」というのは、いくらでも起こりうるのです。だから、規則は絶対ではない。
赤ちゃん連れで出席したとしても、赤ちゃんが静かにしていて、議会の妨げにならないのであれば、目くじらを立てる必要などないのです。杓子定規に「規則違反だから」と言い立てる必要などない。赤ちゃんが泣きだした場合に備えて、議会場の外で預かるスタッフは用意しておくべきでしょうけども。
「決まりだからダメ」などと教条主義的に判断するのではなく、実害があるかないかで実用主義的に考えるべきなのです。
日本人って、そういうところありますよね。杓子定規に規則を守ろうとする。実害があるかどうかを検討することもなく、「規則だからダメ」と言い張る。
そのくせ、議会中に平然と居眠りしてたりするのです。「居眠りしてはならない」という規則がないからです。明文化されていないことなら、やってもいいと思っている。質疑や答弁をちゃんと聞かないのは明らかに実害なのですが、規則違反じゃないから問題ないと思っているのです。
なぜ実害があるかどうかではなく、規則に反しているかどうかでしか判断できないのか。なぜ守る必要のない規則を守りながら、規則に抵触しない問題行動を平気でやらかすのか。なんとも愚かしい倒錯と言わねばなりません。
なんか、ニュージーランドの国会では赤ちゃん連れの登院が許容されてるっつー報道もありましたね。議場に赤ちゃんがいても、なんの差し障りもなく議会運営されていたと。
それが答えなんですよ。議場に赤ちゃんがいても、なんの問題もないのです。むしろ雰囲気が和やかになるという、前向きな効果がある。
ニュージーランド以外の国ではどうなのかはわかりません。だから、ほかの国で同じような出来事が見られないことをもって、「ニュージーランドは例外中の例外だ」という反論があるかもしれません。
でも、事例はひとつだけで充分なのですよ。ニュージーランドの議会に赤ちゃんがいても問題なかったのならば、どこの国の議会であろうと、赤ちゃんがいて問題ないのです。赤ちゃんも議会も、基本的にみな同じであるならば、ニュージーランドにできて、ほかの国にできないわけがない。
「仕事と家庭は分けるべき」という根強い考えがあります。しかし、職場と家庭が分かれたのは、人類の歴史の中では、ごく最近のこと。「お勤め」という就労形態が生まれてからなのです。共同体の圧倒的多数が農耕に従事していた時代、仕事は家の単位(つまり家族総出)で行うものであり、家とほぼ不可分の土地こそが職場でした。商人や職人は勤め先と住まいが一体化していました。職場と家庭が分かれているというのは、当たり前のことでもなんでもなく、歴史的には例外的なことなのです。
例外的であるということは、自明のこととして受け入れるよりも、疑ってかかるべきものであり、いずれ労働環境の変化によって消滅しかねないものだということです。
赤ちゃん連れで出勤できるほうが子育てしやすい社会であるならば、積極的に子連れ出勤できるように変えていくべきじゃないですか。「電車の中のベビーカー」が象徴的ですけど、おじさんって、赤ちゃんに冷淡ですよね。そのくせ少子化を嘆いていたりするんですから、わけわかりません。
古くはアグネス論争というのもありました。僕はその詳細を知らないのですが、アグネスさんを批判していたのは、多くは女性だったようです。彼女たちは、「男性の理論」にからめとられていたのでしょう。「仕事と家庭は分けるべき」という、男性の理論に。
いつまでもそんな理論に付き合い続ける必要はありません。その理論は、絶対ではない。人類の歴史の中で、ごく最近になって成立した理論、近い将来消滅する、過渡的な理論かもしれないのです。
子連れで出勤するには、職場が受け入れ態勢を整えるなど、それなりの整備が不可欠です。だから、どこの職場でもできるわけではない。現状では、経済的ゆとりのある大企業や、家庭的に経営されてる小規模な職場でしか実現できないでしょう。
しかし、それはそれ、理想は理想。子供を連れて出社できるほうが望ましいことに、疑いの余地はありません。
子連れ出勤ができる社会をすぐに用意できないのなら、とりあえず意識改革を行うべきではないでしょうか。
ここにひとつの疑問があります。小枝を固めてひとつの大きなかたまりにすれば「大枝」になるのだろうか、という疑問です。これは高度に社会工学的、かつマルクス経済学的問題であり、パッケージが小分けにされていなかった時代には、暑さで溶けてふたたび固くなったときにひとかたまりになっていたことがよくあり、それはまさしく大枝と呼ぶにふさわしいものであったことは明白で、しかしそれを大枝と呼び習わしていたかというとそうではなく、食べにくさを感じながらも無心でかぶりついていた記憶しかないのですが、いずれにせよコーンパフ入りのこのチョコの美味しさは間違いないわけで、「花より団子」ならぬ「花より小枝」ということわざを作り出したいところではありますが、そんなことをしたら桜の小枝に食らいつくバカ者が出てこないとも限らないわけで、ゆえに「迷わず食えよ」とだけ言っておきます。
何年か前に、熊本の市議会議員で、赤ちゃん連れで議会に出席しようとした人がいましたよね。生後半年くらいの自分の子供を議場に連れてきたお母さん議員。ほかの議員さんが「規則違反だ」って制止して、「子供と一緒に出させろ」「いやダメだ」の押し問答になり、議会の始まりが1時間ほど遅れたと。そんな話。
詳細は覚えてないんで、そのへんが気になる方は各自調べてください。僕はこの出来事の細かい内容を精査したいのではありません。僕がここで議論しようとしているのは、赤ちゃん連れで出勤することの是非についてです。
まず基本的立場を言わせてもらいますと、個人的には赤ちゃん連れの出勤、おおいに賛成で、積極的に認められるべきだと考えています。
赤ちゃん連れの出勤に反対する人の見解は、仕事に差し障りが出るからよくないというもの。しかし赤ちゃんなんて、こう言っちゃあなんですが、おとなしくしてれば人形と一緒ですよ。お人形さんが横に置いてあるだけだと想像してみてください。大した問題には思えないでしょう。
仕事の差し障りというのは、「赤ちゃんを連れてくるな」と騒ぎ立てることによって発生するのです。騒がなければ、つまり赤ちゃんを気にしなければ差し障りはないのです。
赤ちゃん連れ出勤に反対している人たちは、赤ちゃん自体に差し障りがあると思い込んでいますが、それは正しくありません。赤ちゃん連れ出勤に反対する言動によって差し障りが起きているのです。よーするに、騒がなければいいだけの話なのです。
議会の開始が1時間ほど遅れたのは、お母さん議員が赤ちゃんを連れてきたせいだと考えている人もいます。でも、僕はそう思いません。赤ちゃんを議場から追い出そうとした議員さんたちのほうに責任があると考えています。
赤ちゃんを議場から締め出そうとした議員さんたちは、規則を守ろうとしていました(政治的意見が対立している相手だったから、嫌がらせのために排除しようとした、という指摘もあります)。「議員以外の人間を出席させてはいけない」という規則があるんでしょうね。その決まりからしたら、赤ちゃん連れを認めなかったのは正しいように思えます。でも、本当にそうでしょうか。
そもそも、規則はなんのためにあるのか。議会の円滑な進行のため、および議員全体の利益のためです。それらが侵害されないように規則が設けられている。
なら、「議会の円滑な進行」も「議員全体の利益」も侵害されない場合であれば、規則を適用させる必要がない、ということですよね。
規則は、起こりえる様々な事態を想定して制定されます。「こういうことが起こったらこうしなきゃならない」という想定。しかし、思いもよらない出来事というのは起こりえます。規則では対応できない出来事。あるいは、規則のほうが間違っていたと気づかされる出来事。そのような、「規則の不備の気づき」というのは、いくらでも起こりうるのです。だから、規則は絶対ではない。
赤ちゃん連れで出席したとしても、赤ちゃんが静かにしていて、議会の妨げにならないのであれば、目くじらを立てる必要などないのです。杓子定規に「規則違反だから」と言い立てる必要などない。赤ちゃんが泣きだした場合に備えて、議会場の外で預かるスタッフは用意しておくべきでしょうけども。
「決まりだからダメ」などと教条主義的に判断するのではなく、実害があるかないかで実用主義的に考えるべきなのです。
日本人って、そういうところありますよね。杓子定規に規則を守ろうとする。実害があるかどうかを検討することもなく、「規則だからダメ」と言い張る。
そのくせ、議会中に平然と居眠りしてたりするのです。「居眠りしてはならない」という規則がないからです。明文化されていないことなら、やってもいいと思っている。質疑や答弁をちゃんと聞かないのは明らかに実害なのですが、規則違反じゃないから問題ないと思っているのです。
なぜ実害があるかどうかではなく、規則に反しているかどうかでしか判断できないのか。なぜ守る必要のない規則を守りながら、規則に抵触しない問題行動を平気でやらかすのか。なんとも愚かしい倒錯と言わねばなりません。
なんか、ニュージーランドの国会では赤ちゃん連れの登院が許容されてるっつー報道もありましたね。議場に赤ちゃんがいても、なんの差し障りもなく議会運営されていたと。
それが答えなんですよ。議場に赤ちゃんがいても、なんの問題もないのです。むしろ雰囲気が和やかになるという、前向きな効果がある。
ニュージーランド以外の国ではどうなのかはわかりません。だから、ほかの国で同じような出来事が見られないことをもって、「ニュージーランドは例外中の例外だ」という反論があるかもしれません。
でも、事例はひとつだけで充分なのですよ。ニュージーランドの議会に赤ちゃんがいても問題なかったのならば、どこの国の議会であろうと、赤ちゃんがいて問題ないのです。赤ちゃんも議会も、基本的にみな同じであるならば、ニュージーランドにできて、ほかの国にできないわけがない。
「仕事と家庭は分けるべき」という根強い考えがあります。しかし、職場と家庭が分かれたのは、人類の歴史の中では、ごく最近のこと。「お勤め」という就労形態が生まれてからなのです。共同体の圧倒的多数が農耕に従事していた時代、仕事は家の単位(つまり家族総出)で行うものであり、家とほぼ不可分の土地こそが職場でした。商人や職人は勤め先と住まいが一体化していました。職場と家庭が分かれているというのは、当たり前のことでもなんでもなく、歴史的には例外的なことなのです。
例外的であるということは、自明のこととして受け入れるよりも、疑ってかかるべきものであり、いずれ労働環境の変化によって消滅しかねないものだということです。
赤ちゃん連れで出勤できるほうが子育てしやすい社会であるならば、積極的に子連れ出勤できるように変えていくべきじゃないですか。「電車の中のベビーカー」が象徴的ですけど、おじさんって、赤ちゃんに冷淡ですよね。そのくせ少子化を嘆いていたりするんですから、わけわかりません。
古くはアグネス論争というのもありました。僕はその詳細を知らないのですが、アグネスさんを批判していたのは、多くは女性だったようです。彼女たちは、「男性の理論」にからめとられていたのでしょう。「仕事と家庭は分けるべき」という、男性の理論に。
いつまでもそんな理論に付き合い続ける必要はありません。その理論は、絶対ではない。人類の歴史の中で、ごく最近になって成立した理論、近い将来消滅する、過渡的な理論かもしれないのです。
子連れで出勤するには、職場が受け入れ態勢を整えるなど、それなりの整備が不可欠です。だから、どこの職場でもできるわけではない。現状では、経済的ゆとりのある大企業や、家庭的に経営されてる小規模な職場でしか実現できないでしょう。
しかし、それはそれ、理想は理想。子供を連れて出社できるほうが望ましいことに、疑いの余地はありません。
子連れ出勤ができる社会をすぐに用意できないのなら、とりあえず意識改革を行うべきではないでしょうか。