(②からの続き)
話をアメリカに戻す。
「差別の構造は複雑だ」と書いたが、この複雑さは「白人対黒人」という二分法だけに還元できない、という意味でもある。
アメリカにおいて差別を受けているのは、黒人だけではない。先住民(インディアン)、ユダヤ人、ヒスパニック、日系、中国系、アラブ系等々。また、一口に白人と言っても、WASPとアイルランド系は違う。
それに、差別は人種においてのみ発生するわけではない。宗教を基にする差別もあれば(同時多発テロ後には、この傾向が顕著になった)、社会的階層に基づく差別もあり、同性愛などの性的志向に関する差別もある。また、実状をよく知らないので憶測でしかないのだが、政治的主義主張に関する差別もあるのかもしれない。
世界中から多くの移民を受け入れてきた多民族国家のアメリカには、かくのごとき多様な「レイヤー」が存する。この複雑に折り重なったレイヤーを見ずして、「白人対黒人」という単純な対立構造に落とし込んで捉えようとする議論は、多くの要素を捨象し、重層的な世界を奥行きのない薄っぺらなものに還元してしまう。階層に基づく差別が生じているとするならば、「黒人の富裕層」の「黒人の貧困層」に対する差別だって起こりうるのだ。
そして、この複雑さはアメリカ固有のものではない。アメリカ以外の国であっても、複数のレイヤーが存在しているのが普通のはずで、ということはつまり、アメリカほど込み入ってはいないにしても、差別の問題は単純な二分法では捉えられないというのは、万国共通の、普遍的な命題だということである。
また、レイヤーが複雑に絡まりあっているということは、被差別者とされる者も、相手が変われば差別者になりうる、ということでもある。
さよう、差別を「特定の集団に偏見を抱き、憎悪・攻撃すること」とするならば、「白人警官はみな差別主義者だ」と断ずるのもまた差別である。
被差別者もまた、差別者たりうる。
これは差別問題の中でも、とりわけ重要なポイントだと思う。そして、この点こそ多くの人が誤解しているポイントであり、差別の解消を願いつつも、なかなか前進が見られないのは、この誤解に躓いているからではないだろうか。
被差別者もまた差別的言動をとることがあり、そもそも差別行為とは感情の派生物であることを鑑みると、人間は誰しもが差別的言動をとりうると言える。
「白人対黒人」という単純な二分法で考えるべきではないと述べたが、それと同じく「差別者対被差別者」という構図で捉えようとするのにも問題がある。
「差別者」と「被差別者」は、截然と分かれてはいない。
誰しもが差別者にも被差別者にもなりうる。
これを踏まえて敢えて分類すると、人間は次の三様に分けられる。
①常に差別意識をあらわにしている人・差別主義者
②たまに差別意識があらわになる人・断続的差別者
③差別意識をあらわにしない人・潜在的差別者
この中で一番マシなのが③であるが、それでも「潜在的差別者」なのである。
そう、差別が感情という、人間なら誰しもが有している機能の産物であるのならば、我々はどれだけ差別を忌み嫌っていようが、潜在的には差別者たらざるを得ない。
差別を巡る言説が、どこか上っ面だけの綺麗事に聞こえてしまうのは、この「人間は誰しも差別者たりうる」という事実を踏まえずに、自分は差別とは無縁な、無垢なる善人であるかのごとき口ぶりで語られているからではないだろうか。
差別者を特定したうえで糾弾・批判し、それで事足れりとする態度も同様である。それが無益とまでは言わないが、現実を勧善懲悪型のストーリーに落とし込むことで、単純な善悪二元論でしか思考できなくなってしまう恐れがある。
そうなると、ここまで何度も繰り返してきた「差別の複雑さ」を理解することができなくなる。
複雑なものを複雑なまま理解することができる差別対策でなくてはならない。
しかし、それはどのような形をとるのだろうか?
(④に続く)
話をアメリカに戻す。
「差別の構造は複雑だ」と書いたが、この複雑さは「白人対黒人」という二分法だけに還元できない、という意味でもある。
アメリカにおいて差別を受けているのは、黒人だけではない。先住民(インディアン)、ユダヤ人、ヒスパニック、日系、中国系、アラブ系等々。また、一口に白人と言っても、WASPとアイルランド系は違う。
それに、差別は人種においてのみ発生するわけではない。宗教を基にする差別もあれば(同時多発テロ後には、この傾向が顕著になった)、社会的階層に基づく差別もあり、同性愛などの性的志向に関する差別もある。また、実状をよく知らないので憶測でしかないのだが、政治的主義主張に関する差別もあるのかもしれない。
世界中から多くの移民を受け入れてきた多民族国家のアメリカには、かくのごとき多様な「レイヤー」が存する。この複雑に折り重なったレイヤーを見ずして、「白人対黒人」という単純な対立構造に落とし込んで捉えようとする議論は、多くの要素を捨象し、重層的な世界を奥行きのない薄っぺらなものに還元してしまう。階層に基づく差別が生じているとするならば、「黒人の富裕層」の「黒人の貧困層」に対する差別だって起こりうるのだ。
そして、この複雑さはアメリカ固有のものではない。アメリカ以外の国であっても、複数のレイヤーが存在しているのが普通のはずで、ということはつまり、アメリカほど込み入ってはいないにしても、差別の問題は単純な二分法では捉えられないというのは、万国共通の、普遍的な命題だということである。
また、レイヤーが複雑に絡まりあっているということは、被差別者とされる者も、相手が変われば差別者になりうる、ということでもある。
さよう、差別を「特定の集団に偏見を抱き、憎悪・攻撃すること」とするならば、「白人警官はみな差別主義者だ」と断ずるのもまた差別である。
被差別者もまた、差別者たりうる。
これは差別問題の中でも、とりわけ重要なポイントだと思う。そして、この点こそ多くの人が誤解しているポイントであり、差別の解消を願いつつも、なかなか前進が見られないのは、この誤解に躓いているからではないだろうか。
被差別者もまた差別的言動をとることがあり、そもそも差別行為とは感情の派生物であることを鑑みると、人間は誰しもが差別的言動をとりうると言える。
「白人対黒人」という単純な二分法で考えるべきではないと述べたが、それと同じく「差別者対被差別者」という構図で捉えようとするのにも問題がある。
「差別者」と「被差別者」は、截然と分かれてはいない。
誰しもが差別者にも被差別者にもなりうる。
これを踏まえて敢えて分類すると、人間は次の三様に分けられる。
①常に差別意識をあらわにしている人・差別主義者
②たまに差別意識があらわになる人・断続的差別者
③差別意識をあらわにしない人・潜在的差別者
この中で一番マシなのが③であるが、それでも「潜在的差別者」なのである。
そう、差別が感情という、人間なら誰しもが有している機能の産物であるのならば、我々はどれだけ差別を忌み嫌っていようが、潜在的には差別者たらざるを得ない。
差別を巡る言説が、どこか上っ面だけの綺麗事に聞こえてしまうのは、この「人間は誰しも差別者たりうる」という事実を踏まえずに、自分は差別とは無縁な、無垢なる善人であるかのごとき口ぶりで語られているからではないだろうか。
差別者を特定したうえで糾弾・批判し、それで事足れりとする態度も同様である。それが無益とまでは言わないが、現実を勧善懲悪型のストーリーに落とし込むことで、単純な善悪二元論でしか思考できなくなってしまう恐れがある。
そうなると、ここまで何度も繰り返してきた「差別の複雑さ」を理解することができなくなる。
複雑なものを複雑なまま理解することができる差別対策でなくてはならない。
しかし、それはどのような形をとるのだろうか?
(④に続く)