(前編からの続き)
思想家の内田樹は、政治家や官僚や学者や知識人ら日本のエスタブリッシュメントたちが、戦後の日本社会の中で、「対米従属を通じての対米自立」を栄達の手段としてきたことを指摘している。
僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。日本人の場合、「のれん分け」というのは、わかりやすいキャリアパスなんですね。(中略)
だから、日本人にとっては、「主人に徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦の贈り物のごとく自立の道が開ける」という構図には違和感がない。(中略)
「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと私は思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。(中略)
そして、この戦略の合理性を確信させたのは、それなりの成功体験がもたらされたからです。
第一の成功は、1951年のサンフランシスコ講和条約です。この講和条約で、戦後6年目にして、日本は法的には独立を回復するわけですけれども、これほど敗戦国に対して寛容で宥和的な講和条約は歴史上なかなか前例がないものでした。(中略)
対米従属にはもう一度成功体験があります。沖縄返還です。(中略)
この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。(中略)けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。
(内田樹『日本の覚醒のために――内田樹講演集』晶文社)
二度の達成のあと、日本はさしたる成果を上げられてはいない。にもかかわらず、その成功体験があまりに大きかったため、「対米従属を通じての対米自立」という戦略に「居着いて」しまったのだという。
内田は戦後という言葉には言及していないが、国家戦略を一度も変更することなくズルズルとここまで来てしまったことが「戦後」を終わらせられなかった原因とみていいだろう。ちなみに内田は、2005年の日本の国連常任理事国入りの失敗によって、「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は事実上終焉し、それからあとは「対米自立抜きの対米従属」に移行したとも指摘している(『街場の天皇論』)。
この「のれん分け戦略」は、対米関係のみに効力を発揮するのではない。対米従属の度合いによって日本のエスタブリッシュメントの栄達が果たされてきたということは、どれだけアメリカに従属してきたかによって国内の力関係が決される、ということである。その対米従属戦略がアメリカに対し、あるいは日本に対し、そして日米関係に対して、どんな影響を及ぼすのかに関係なく、戦略それ自体が対米従属的であるというその事実が、栄達を求めるエスタブリッシュメント本人にとって有利に働く、ということである。
政治家や官僚や学者や知識人の組織形成がそのようなルールで成り立っているとすれば、具体的には何の成果も上がらない対米従属戦略であったとしても、それは出世競争の手段として選択され続けることになる。この構造を突き崩すには、どうしたらいいのだろう。
と、ここまで書いてきてこう言うのもなんだが、小生は何がなんでも戦後を終わらせねばならない、と考えているわけではない。ひょっとしたら、戦後を終わらせないほうが日本にとって有益なのではないか、という気がするのである。と言うのも、ここまで敢えて触れずにきたが、「戦後」にはもう一つのプラスアルファがあるのだ。
「戦後」のもう一つのプラスアルファ。それは言葉の意味ではなく、言葉が使われ続けている理由にある。
それは、先の戦争の反省。過ちを繰り返さず、平和を守り続けるという誓い。戦争で命を落とした人々の鎮魂を祈り、できうる限り世界にも平和を広めていきたいという希望。それら祈り、願い、誓いを忘却しないことを祈念して「戦後」という呼称は使われ続けているのだと思う。「今年は戦後何年目か」を確認するたびに何度でも戦時中、もしくは終戦の日に立ち返り、反戦の誓いを新たにする。「戦後」という言葉にはそんな働きがあるはずだ。
つまり、逆に言えば「戦後」が終わることは、先の戦争の反省を忘れ去るということ、反省の態度を捨て去るということを意味している。だとすれば、「戦後」という言葉は、再び日本を戦争に向かわせないための重しとして機能していることになるだろう。革新よりも保守のほうが「戦後」という言葉に敏感なのも――つまり、保守のほうが「戦後」を終わらせたがっているということも――、その事実を裏付けている。
安倍政権がその政治目標として掲げているところの「戦後レジームからの脱却」とは、まさに「戦後」という言葉の使用を終わらせるということ、先の戦争の反省を忘れ去り――と言うより、むしろ最初から反省などしていなかった͡ことにし――、日本を再び戦争する国に変えていくということに他ならない。特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の行使容認、日本国憲法9条の改憲・・・すべてはそれを最終目標としている。
歴史社会学者の小熊英二は、2015年8月27日付の朝日新聞の論壇時評で、「戦後」とは「建国」の意であり、「戦後◯年」とは、敗戦によって大日本帝国が滅亡した後に建国された日本国の「建国から◯年」のことであると述べている。そして、その日本国を支えているのは、国のコンセプトたる憲法の1条と9条、及びそれらの前提となった東京裁判と日米安保条約であるという。
「憲法1条」「憲法9条」「東京裁判」「日米安保」、これら4要素に日本国は立脚しており、「4要素が変更されれば、ないしバランスが変われば、「戦後」は終わる」だろうと小熊は言う。
安倍自民党は憲法9条と東京裁判の変更を目指しているし(靖国神社の参拝は端的に東京裁判の否定である)、潜在的には、あるいは長期的には憲法1条と日米安保の変更をも目論んでいるのかもしれない。
保守勢力が「戦後」の終結を目指し、日本を戦争のできる国にしようとしているのであれば、「戦後」という言葉を使い続けること、「戦後」の使用を意地でもやめないことが、いくらかその抵抗になりうるのではないか。日本が戦争する国に舞い戻ることがないように、日本の時代区分はこれからも「戦後」であり続けるべきなのではないか。
ここで一つの疑問が生じる。これまでの議論がすべて正しいとするならば、「敗戦のツケを支払い続けること」と「先の戦争の反省を忘れないこと」は、相補関係にあるのだろうか。敗戦のツケを支払い続けているからこそ戦争を反省する態度が持続できるのだろうか。敗戦のツケの支払いを終わらせてしまえば、同時に戦争を反省する気持ちも消え去ってしまうのだろうか。あるいは、敗戦のツケの支払いを終わらせるためには、戦争の反省を忘却することが必須なのだろうか。小生は今、この疑問に答えを出すことができない。
このように考えると、日本社会のひずみの大きさをつくづく感じずにはいられない。国際社会からはいくら奇形的に見えようと、「戦後」が終わらないことが平和を維持するための条件ということになるのだから。
ならば、いっそのこと視点を反転させてはどうだろうか。「世界の笑いものになる」といった定型句に典型的に見て取れる、とにかく国際標準(実質的にはアメリカ標準)に合わせればそれが正解、という病的な信奉を良しとするのではなく、かつて「憲法9条を世界遺産に」というムーブメントがあったが(今も唱導している人いるの?)、それと同様に「戦後という時代区分を国際標準に」というメッセージを打ち出すのはどうだろうか。
「戦争が終わって何十年も経っているのに、「戦後」と言い続けるのは一見不自然に思えるかもしれません。しかし、その言葉の使用には戦争を反省する態度が込められているのです。日本国は、「戦後」と言い続けることによって何度でも終戦の日に立ち返り、反省の思いを新たにさせ、平和の時代を維持してきたのです。「戦後」が続くのは異常なことではありません。ひとつの国、あるいは共同体が戦争を放棄し、平和を恒久的なものとしたいと願うのであれば、むしろ「戦後」という時代区分を積極的に採用するべきです。私たちは「戦後」を推奨します。世界のすべての国が「戦後」の年数を数え続けることによって戦争の反省を持続させ、地上に真の平和が到来することを願います。「戦後」という言葉は、世界平和到来のための一助となることでしょう」
だいぶ夢想的に思えるかもしれないが、世界に向けてそうアピールするのはどうだろう。平和を維持することができるのであれば、敗戦のツケの支払いくらいその代償として甘受しても構わないのではないかと思うが(反米保守の皆さんからは猛反発されそうだね)。世界中の国々が「我が国は戦後◯年です」と、お互いの戦後の年数の長さを競い合うようになれば、それは世界平和の達成に資するのではないだろうか。
しかし、安倍政権は様々な批判を浴びつつも「戦後レジームからの脱却」に向けて着実に歩を進めている。彼等の目標がすべて達成される蓋然性は、決して低くない。
現時点で安倍政権は森友・家計疑惑問題などで支持率が大幅に低下しているが、これは「安倍内閣に対するNO」であって、「自民党に対するNO」ではない。このまま安倍晋三が首相の座から引きずり降ろされる確率は高いが、それでも自民党が下野することはまずないだろう。石破茂や小泉進次郎といった反主流派が神輿に担がれれば流れが変わるかもしれないが、安倍の意向を汲む者が後釜に据えられれば、首のすげ替えがなされただけで方向性はそのままということになる。
戦後レジームからの脱却が果たされるとき、確実に「戦後」は終わるだろう。その時、日本社会を待ち受けるものとは何か。アメリカの属国という屈従に甘んじていた方が遥かにマシだったと思う日が、そう遠くない将来に訪れるのかもしれない。
オススメ関連本・浅羽通明『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』ちくま新書
思想家の内田樹は、政治家や官僚や学者や知識人ら日本のエスタブリッシュメントたちが、戦後の日本社会の中で、「対米従属を通じての対米自立」を栄達の手段としてきたことを指摘している。
僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。日本人の場合、「のれん分け」というのは、わかりやすいキャリアパスなんですね。(中略)
だから、日本人にとっては、「主人に徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦の贈り物のごとく自立の道が開ける」という構図には違和感がない。(中略)
「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと私は思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。(中略)
そして、この戦略の合理性を確信させたのは、それなりの成功体験がもたらされたからです。
第一の成功は、1951年のサンフランシスコ講和条約です。この講和条約で、戦後6年目にして、日本は法的には独立を回復するわけですけれども、これほど敗戦国に対して寛容で宥和的な講和条約は歴史上なかなか前例がないものでした。(中略)
対米従属にはもう一度成功体験があります。沖縄返還です。(中略)
この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。(中略)けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。
(内田樹『日本の覚醒のために――内田樹講演集』晶文社)
二度の達成のあと、日本はさしたる成果を上げられてはいない。にもかかわらず、その成功体験があまりに大きかったため、「対米従属を通じての対米自立」という戦略に「居着いて」しまったのだという。
内田は戦後という言葉には言及していないが、国家戦略を一度も変更することなくズルズルとここまで来てしまったことが「戦後」を終わらせられなかった原因とみていいだろう。ちなみに内田は、2005年の日本の国連常任理事国入りの失敗によって、「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は事実上終焉し、それからあとは「対米自立抜きの対米従属」に移行したとも指摘している(『街場の天皇論』)。
この「のれん分け戦略」は、対米関係のみに効力を発揮するのではない。対米従属の度合いによって日本のエスタブリッシュメントの栄達が果たされてきたということは、どれだけアメリカに従属してきたかによって国内の力関係が決される、ということである。その対米従属戦略がアメリカに対し、あるいは日本に対し、そして日米関係に対して、どんな影響を及ぼすのかに関係なく、戦略それ自体が対米従属的であるというその事実が、栄達を求めるエスタブリッシュメント本人にとって有利に働く、ということである。
政治家や官僚や学者や知識人の組織形成がそのようなルールで成り立っているとすれば、具体的には何の成果も上がらない対米従属戦略であったとしても、それは出世競争の手段として選択され続けることになる。この構造を突き崩すには、どうしたらいいのだろう。
と、ここまで書いてきてこう言うのもなんだが、小生は何がなんでも戦後を終わらせねばならない、と考えているわけではない。ひょっとしたら、戦後を終わらせないほうが日本にとって有益なのではないか、という気がするのである。と言うのも、ここまで敢えて触れずにきたが、「戦後」にはもう一つのプラスアルファがあるのだ。
「戦後」のもう一つのプラスアルファ。それは言葉の意味ではなく、言葉が使われ続けている理由にある。
それは、先の戦争の反省。過ちを繰り返さず、平和を守り続けるという誓い。戦争で命を落とした人々の鎮魂を祈り、できうる限り世界にも平和を広めていきたいという希望。それら祈り、願い、誓いを忘却しないことを祈念して「戦後」という呼称は使われ続けているのだと思う。「今年は戦後何年目か」を確認するたびに何度でも戦時中、もしくは終戦の日に立ち返り、反戦の誓いを新たにする。「戦後」という言葉にはそんな働きがあるはずだ。
つまり、逆に言えば「戦後」が終わることは、先の戦争の反省を忘れ去るということ、反省の態度を捨て去るということを意味している。だとすれば、「戦後」という言葉は、再び日本を戦争に向かわせないための重しとして機能していることになるだろう。革新よりも保守のほうが「戦後」という言葉に敏感なのも――つまり、保守のほうが「戦後」を終わらせたがっているということも――、その事実を裏付けている。
安倍政権がその政治目標として掲げているところの「戦後レジームからの脱却」とは、まさに「戦後」という言葉の使用を終わらせるということ、先の戦争の反省を忘れ去り――と言うより、むしろ最初から反省などしていなかった͡ことにし――、日本を再び戦争する国に変えていくということに他ならない。特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の行使容認、日本国憲法9条の改憲・・・すべてはそれを最終目標としている。
歴史社会学者の小熊英二は、2015年8月27日付の朝日新聞の論壇時評で、「戦後」とは「建国」の意であり、「戦後◯年」とは、敗戦によって大日本帝国が滅亡した後に建国された日本国の「建国から◯年」のことであると述べている。そして、その日本国を支えているのは、国のコンセプトたる憲法の1条と9条、及びそれらの前提となった東京裁判と日米安保条約であるという。
「憲法1条」「憲法9条」「東京裁判」「日米安保」、これら4要素に日本国は立脚しており、「4要素が変更されれば、ないしバランスが変われば、「戦後」は終わる」だろうと小熊は言う。
安倍自民党は憲法9条と東京裁判の変更を目指しているし(靖国神社の参拝は端的に東京裁判の否定である)、潜在的には、あるいは長期的には憲法1条と日米安保の変更をも目論んでいるのかもしれない。
保守勢力が「戦後」の終結を目指し、日本を戦争のできる国にしようとしているのであれば、「戦後」という言葉を使い続けること、「戦後」の使用を意地でもやめないことが、いくらかその抵抗になりうるのではないか。日本が戦争する国に舞い戻ることがないように、日本の時代区分はこれからも「戦後」であり続けるべきなのではないか。
ここで一つの疑問が生じる。これまでの議論がすべて正しいとするならば、「敗戦のツケを支払い続けること」と「先の戦争の反省を忘れないこと」は、相補関係にあるのだろうか。敗戦のツケを支払い続けているからこそ戦争を反省する態度が持続できるのだろうか。敗戦のツケの支払いを終わらせてしまえば、同時に戦争を反省する気持ちも消え去ってしまうのだろうか。あるいは、敗戦のツケの支払いを終わらせるためには、戦争の反省を忘却することが必須なのだろうか。小生は今、この疑問に答えを出すことができない。
このように考えると、日本社会のひずみの大きさをつくづく感じずにはいられない。国際社会からはいくら奇形的に見えようと、「戦後」が終わらないことが平和を維持するための条件ということになるのだから。
ならば、いっそのこと視点を反転させてはどうだろうか。「世界の笑いものになる」といった定型句に典型的に見て取れる、とにかく国際標準(実質的にはアメリカ標準)に合わせればそれが正解、という病的な信奉を良しとするのではなく、かつて「憲法9条を世界遺産に」というムーブメントがあったが(今も唱導している人いるの?)、それと同様に「戦後という時代区分を国際標準に」というメッセージを打ち出すのはどうだろうか。
「戦争が終わって何十年も経っているのに、「戦後」と言い続けるのは一見不自然に思えるかもしれません。しかし、その言葉の使用には戦争を反省する態度が込められているのです。日本国は、「戦後」と言い続けることによって何度でも終戦の日に立ち返り、反省の思いを新たにさせ、平和の時代を維持してきたのです。「戦後」が続くのは異常なことではありません。ひとつの国、あるいは共同体が戦争を放棄し、平和を恒久的なものとしたいと願うのであれば、むしろ「戦後」という時代区分を積極的に採用するべきです。私たちは「戦後」を推奨します。世界のすべての国が「戦後」の年数を数え続けることによって戦争の反省を持続させ、地上に真の平和が到来することを願います。「戦後」という言葉は、世界平和到来のための一助となることでしょう」
だいぶ夢想的に思えるかもしれないが、世界に向けてそうアピールするのはどうだろう。平和を維持することができるのであれば、敗戦のツケの支払いくらいその代償として甘受しても構わないのではないかと思うが(反米保守の皆さんからは猛反発されそうだね)。世界中の国々が「我が国は戦後◯年です」と、お互いの戦後の年数の長さを競い合うようになれば、それは世界平和の達成に資するのではないだろうか。
しかし、安倍政権は様々な批判を浴びつつも「戦後レジームからの脱却」に向けて着実に歩を進めている。彼等の目標がすべて達成される蓋然性は、決して低くない。
現時点で安倍政権は森友・家計疑惑問題などで支持率が大幅に低下しているが、これは「安倍内閣に対するNO」であって、「自民党に対するNO」ではない。このまま安倍晋三が首相の座から引きずり降ろされる確率は高いが、それでも自民党が下野することはまずないだろう。石破茂や小泉進次郎といった反主流派が神輿に担がれれば流れが変わるかもしれないが、安倍の意向を汲む者が後釜に据えられれば、首のすげ替えがなされただけで方向性はそのままということになる。
戦後レジームからの脱却が果たされるとき、確実に「戦後」は終わるだろう。その時、日本社会を待ち受けるものとは何か。アメリカの属国という屈従に甘んじていた方が遥かにマシだったと思う日が、そう遠くない将来に訪れるのかもしれない。
オススメ関連本・浅羽通明『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』ちくま新書
政治学者の姜尚中は、『「戦後80年」はあるのか』と題されたアンソロジーのまえがきに、次のように書きつけている。
「かくも長き戦後」とは、アメリカを代表する日本研究者キャロル・グラックの言葉である。戦後五〇年、戦後六〇年、戦後七〇年。すでに三世代以上におよぶ年月を「戦後」の一語で一括りにし、今も当たり前のように人口に膾炙している国は、おそらく、日本以外にはないだろう。
日本人の多くが疑うことなしに口にしている「戦後」なる言葉。あまりに当たり前のように使われているので皆ごく自然に受け入れているが、これはなかなか奇妙なことだ。言葉そのものが奇妙なのではない。言葉の使われ方が奇妙なのである。
誰であったか、「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」と言っていた者がいた。なるほど、確かに不幸にもまたこの国が戦火にまみれることになれば、間違いなく「戦後」は終わるだろう。しかし、それでは70年もの長きにわたって「戦後」という呼称が使われ続けてきたことの説明がつかない。
姜も指摘しているように、これだけ長く戦後が続いているのは日本だけである(ひょっとしたら、あまり知られていないだけで、世界のどこかには日本と同じように戦後が長く続いている国もあるのかもしれない。もしあったとしたらごめんなさい)。もし、単純に「戦争が終わり、次の戦争が始まるまでの間」、「戦争と戦争の間」を戦後と呼ぶのであれば、世界中のほぼすべての国で「戦後」の使用が認められるはずである。現実はそうなっていないからこそ日本の「戦後」は特異なのだ。
日本国内に限定して考えてみてもいい。「日清戦争と日露戦争の間」、及び「日露戦争と日中戦争の間」の期間は、「戦後」であったか。こちらもやはり否であろう。
この、特異なる「戦後」の使われ方は、日本の、それも太平洋戦争後だけに限られるのである。
これはどういうことなのか。この「戦後」という時代区分は、字義通りの「戦争の後」という意味では使われていない、ということである。いや、もちろん「戦争の後」という意味も含まれてはいる。だが、それだけではないのだ。「戦後」には、他にプラスアルファの意味が込められている。そして、そのプラスアルファこそが、日本の「戦後」を特異たらしめているのだ。「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」というのは、このプラスアルファを見落とした言い分である。
一口に「戦後」と言っても、70年の間に、日本社会は様々な変動を蒙ってきた。
1956年7月、前年のGNPが戦前の水準を超えたことから、経済企画庁は経済白書の中で「もはや戦後ではない」と宣言。しかし、戦後は終わっていなかった。
経済が順調に成長を続ける1979年、日本人はエズラ・ヴォーゲルから「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賛辞を寄せられ、全能感に酔い痴れた。しかし、なおも戦後は終わらなかった。
1995年には阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。ちょうど戦後50年目に起きた2つの出来事は、時代が大きく変わりつつある予感を人々に植えつけた。しかし、それでも戦後は終わらなかった。
2011年3月には東日本大震災と、それに伴う福島第一原発の事故が発生。この出来事の前後で日本の空気は一変した。ある政治学者は、「「戦後」が終わり、「災後」が始まる」と書いた。しかし、またしても戦後は終わらなかった。
様々な変化・変容がありながら、それでも「戦後」が終わることがなかったのはなぜか。それは、それらの社会的変化では「戦後」のプラスアルファを消失させることができなかったからである。では、そのプラスアルファとは何か。
私見を述べれば、「先の戦争が未だ清算されていない」という共通認識が「戦後」という言葉を日本国民に使わせ続けているのだと思う。太平洋戦争の敗北によって締結されたアメリカとの非対称的な国際関係は、段階的に緩和されてゆき、敗戦直後と比べるとほとんど意識されることがないほど希薄になってはいるものの、今も様々な形で残存している(希薄になっているというより、その関係があまりに長く続いているせいで空気のように認識されにくくなっている、という面もあるのだろうが)。
俗に「思いやり予算」と称される在日米軍への多額の助成金。アメリカ空軍の航行優先のために大幅な制限を蒙っている航空域。日本側の裁判権の制限を定めた不平等関係の象徴たる日米地位協定。等々。
これらは対米戦争の敗北の結果として、敗戦国となった日本が担わされてきた罰則に他ならない。敗戦のツケを今もなお支払わされ続けているということ。日本人は皆、意識的にせよ無意識的にせよそのことを理解している。だからこそ、戦後の時間は終わらない。
この見方が正しいとすると、アメリカとの非対称的な力関係を解消することができれば、日本の「戦後」は正しく終結することになる。しかし、それは可能なのだろうか。可能であるとすれば、どのような方策であれば実現するのだろうか。
(後編に続く)
「かくも長き戦後」とは、アメリカを代表する日本研究者キャロル・グラックの言葉である。戦後五〇年、戦後六〇年、戦後七〇年。すでに三世代以上におよぶ年月を「戦後」の一語で一括りにし、今も当たり前のように人口に膾炙している国は、おそらく、日本以外にはないだろう。
日本人の多くが疑うことなしに口にしている「戦後」なる言葉。あまりに当たり前のように使われているので皆ごく自然に受け入れているが、これはなかなか奇妙なことだ。言葉そのものが奇妙なのではない。言葉の使われ方が奇妙なのである。
誰であったか、「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」と言っていた者がいた。なるほど、確かに不幸にもまたこの国が戦火にまみれることになれば、間違いなく「戦後」は終わるだろう。しかし、それでは70年もの長きにわたって「戦後」という呼称が使われ続けてきたことの説明がつかない。
姜も指摘しているように、これだけ長く戦後が続いているのは日本だけである(ひょっとしたら、あまり知られていないだけで、世界のどこかには日本と同じように戦後が長く続いている国もあるのかもしれない。もしあったとしたらごめんなさい)。もし、単純に「戦争が終わり、次の戦争が始まるまでの間」、「戦争と戦争の間」を戦後と呼ぶのであれば、世界中のほぼすべての国で「戦後」の使用が認められるはずである。現実はそうなっていないからこそ日本の「戦後」は特異なのだ。
日本国内に限定して考えてみてもいい。「日清戦争と日露戦争の間」、及び「日露戦争と日中戦争の間」の期間は、「戦後」であったか。こちらもやはり否であろう。
この、特異なる「戦後」の使われ方は、日本の、それも太平洋戦争後だけに限られるのである。
これはどういうことなのか。この「戦後」という時代区分は、字義通りの「戦争の後」という意味では使われていない、ということである。いや、もちろん「戦争の後」という意味も含まれてはいる。だが、それだけではないのだ。「戦後」には、他にプラスアルファの意味が込められている。そして、そのプラスアルファこそが、日本の「戦後」を特異たらしめているのだ。「日本がまた戦争を始めるまで戦後は続く」というのは、このプラスアルファを見落とした言い分である。
一口に「戦後」と言っても、70年の間に、日本社会は様々な変動を蒙ってきた。
1956年7月、前年のGNPが戦前の水準を超えたことから、経済企画庁は経済白書の中で「もはや戦後ではない」と宣言。しかし、戦後は終わっていなかった。
経済が順調に成長を続ける1979年、日本人はエズラ・ヴォーゲルから「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賛辞を寄せられ、全能感に酔い痴れた。しかし、なおも戦後は終わらなかった。
1995年には阪神大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。ちょうど戦後50年目に起きた2つの出来事は、時代が大きく変わりつつある予感を人々に植えつけた。しかし、それでも戦後は終わらなかった。
2011年3月には東日本大震災と、それに伴う福島第一原発の事故が発生。この出来事の前後で日本の空気は一変した。ある政治学者は、「「戦後」が終わり、「災後」が始まる」と書いた。しかし、またしても戦後は終わらなかった。
様々な変化・変容がありながら、それでも「戦後」が終わることがなかったのはなぜか。それは、それらの社会的変化では「戦後」のプラスアルファを消失させることができなかったからである。では、そのプラスアルファとは何か。
私見を述べれば、「先の戦争が未だ清算されていない」という共通認識が「戦後」という言葉を日本国民に使わせ続けているのだと思う。太平洋戦争の敗北によって締結されたアメリカとの非対称的な国際関係は、段階的に緩和されてゆき、敗戦直後と比べるとほとんど意識されることがないほど希薄になってはいるものの、今も様々な形で残存している(希薄になっているというより、その関係があまりに長く続いているせいで空気のように認識されにくくなっている、という面もあるのだろうが)。
俗に「思いやり予算」と称される在日米軍への多額の助成金。アメリカ空軍の航行優先のために大幅な制限を蒙っている航空域。日本側の裁判権の制限を定めた不平等関係の象徴たる日米地位協定。等々。
これらは対米戦争の敗北の結果として、敗戦国となった日本が担わされてきた罰則に他ならない。敗戦のツケを今もなお支払わされ続けているということ。日本人は皆、意識的にせよ無意識的にせよそのことを理解している。だからこそ、戦後の時間は終わらない。
この見方が正しいとすると、アメリカとの非対称的な力関係を解消することができれば、日本の「戦後」は正しく終結することになる。しかし、それは可能なのだろうか。可能であるとすれば、どのような方策であれば実現するのだろうか。
(後編に続く)