徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

真の平和と友好を願う我々自身が真の平和と友好を遠ざけているということ――真珠湾と広島・長崎

2017-01-31 21:15:51 | 雑文
2016年12月27日、安倍首相がハワイの真珠湾を訪問し、慰霊を行った。
同年5月25日にオバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼とみられている。
オバマ大統領に対しては、原爆投下を公式に謝罪すべきではないか、という意見があった。安倍首相に対しても同じことが言われている。
小生は、真珠湾攻撃も、広島・長崎の原爆投下も、どちらも誤りであったと考えている。なので、理想を言えば、日米両国の首脳が、真珠湾と原爆に対して、それぞれ謝罪するのが一番いい、とは思う。しかし、これまで訪問すらしてこなかったのに、いきなり謝罪までというのは求めすぎだろう。とりあえず、訪問達成が始めの一歩、として、肯定的に捉えたい。
前々からアメリカ人の中には、「日本が先に真珠湾奇襲を仕掛けたのであって、原爆投下はその報復として行なわれた。原爆は日本人自らが導いたものだ」とする意見が根強い。
だが、この見方には問題がある。
B君がA君の肩を突きました。A君は仕返しとして、B君とその家族・親戚全員を皆殺しにしました。先に手を出したのはB君なので、悪いのはB君です。A君に非はありません。
この喩えは不適切かもしれない。だが、日本が先に攻撃を仕掛けたことをもって、アメリカがどんな応報手段を用いてもよくなる、というのはどう考えてもおかしい。それだと、無限の暴力を容認することになってしまう。
同じ問題点は、日本人にもみられる。
太平洋戦争を語るに際し、広島・長崎ばかりに焦点を当て、逆に真珠湾(及び、加害行為全般)については言及しようとしないのである。
また、日本人はよく「広島・長崎と真珠湾とでは、被害の規模が全然違う」という言い方をする。被害規模の比較によって差異を強調し、真珠湾攻撃の非を無効化しようとしているわけだが、こちらもまたおかしな理屈である。
100人の死者は弔わねばならないが、1人の死者であれば弔う必要はないのか。
原爆被害を悼む日本人は、よく「真の平和・真の友好」を口にする。だが、相手に一方的に謝罪を迫り、自らは謝意を表明しようとしない態度は、真の平和からも、真の友好からも程遠いものである。
アメリカ人の目が、真珠湾攻撃によって曇っているのと同様、日本人の目も広島・長崎によって曇らされている。
ただし、原爆投下がなければ、日本人はこのような偏執に陥ることはなかったか、というと、恐らくそうではない。原爆被害がなかった場合には、東京大空襲が太平洋戦争の象徴となっていたのではないかと思う。そして、東京大空襲の被害ばかりを強調し、語り継ぐことによって、どのみち真珠湾からはできるだけ目を逸らそうとしてきたのではないだろうか。
自国が蒙った被害のうちで最大の出来事に焦点を当て、それをその戦争のアイコンとし、逆に加害に対してはもっともらしい理屈をつけて正当化しようとする。日本もアメリカも、そしておそらくは世界中のどの国においても、それが習い性であるらしい。
このことを一般論で考えれば、人は自分の被害については大きく見積もり、逆に加害は小さく見積もろうとするという、心理学的見地に行き着く。
この手の心理学的メカニズムは、巷間広く膾炙しており、今更口にするまでもなく誰しもが常識としていることである。にもかかわらず、アメリカ人は相も変わらず真珠湾だけに哀悼を奉げようとするし、日本人は広島・長崎だけを語り続けて倦むことを知らない。いかに自己中心的思考が強固に我々の心理を捕らえているかの証左と言えよう。(日本のメディアで、オバマ大統領の広島訪問が大々的に報じられたのに比して、安倍首相の真珠湾訪問の扱いは小さかったのもその表れだろう)
日本人であるあなたは、真珠湾攻撃を理由にして、原爆に罪なしとするアメリカ人を不愉快に感じているかもしれない。ならば、原爆被害ばかりに目を向け、真珠湾攻撃を謝罪しようとしない日本人の態度が、アメリカ人をどれだけ不愉快にさせているか、を想像してみればいい。
真珠湾と広島・長崎とでは被害の規模が違いすぎる、というのは、確かに疑う余地のない客観的事実ではある。しかし、だからといって、それが真珠湾攻撃を謝罪しなくていい理由になるのか。
現に、真珠湾攻撃によって、心身ともに傷つけられたアメリカ人がいるのである。原爆によって日本人の心身が傷つけられたのと同様に。
戦争の被害者を悼み、過ちを繰り返さないことを誓うという態度において、真珠湾と広島・長崎の間には、何の違いもないはずだ。
他にも、真珠湾攻撃を正当化する向きには、「本当は直前に宣戦布告をするはずだったのに、いくつかの偶然が重なって攻撃のほうが先になってしまった」とか、「原爆は一般市民を含む無差別攻撃であったのに対し、真珠湾攻撃は軍事施設だけを対象として行われた」などの言説が根強くある。確かに、それらもまた客観的事実ではあるのだが、こちらもまた真珠湾攻撃を謝罪しなくていい根拠にはならない。
日本人であるあなたは、アメリカ人の「原爆投下は戦争を終わらせるためのやむを得ない手段であった。だからアメリカに非はないし、謝罪する必要もない」という意見を容認できるだろうか?それと同じことである。(ついでに言えば、小生は原爆投下の動機は、「ソ連に対する牽制」及び「人体実験」であったと考えている。「戦争終結のため」、もしくは「ソ連に対する牽制」のみでは、原爆が2発投下されたことの説明がつかない。一口に原爆と言っても、広島に投下されたのはウラン型、長崎のはプルトニウム型で、タイプが違う。アメリカは、ウラン型もプルトニウム型も、両方試してみたかったのだ。だから2発なのである)
政治というのは、一朝一夕で物事が進展するものではない。国際間のそれであれば尚更だ。ある日急に大きな展開を見せることも稀にあるが、基本的には緩やかにしか進捗しない。
そう遠くない未来に、アメリカ国の代表が原爆投下を謝罪し、日本国の代表が真珠湾攻撃を謝罪する日が来るだろう。だが、それにはまだしばらく時間がかかるはずだ。ならば、それまでは民間のレベルで出来ることをしよう。
日本人は、原爆の被害者に対してするのと同じように、真珠湾攻撃の被害者にこうべを垂れなければならない。真の平和という仮面を被った自国中心主義者として振る舞いたいのでなければ、是非ともそうすべきである。
幸いなことに、アメリカ人の若い世代の間では、原爆投下は誤りであったと考える者が増えてきているという。我々日本人も、彼等に倣うことができるはずだ。
もっともらしい理屈で自国の非人道的軍事行為を正当化しないこと。傷つけられた他国民の声に耳を傾けること。自国も他国も分け隔てなく、戦争被害者を追悼すること。
それこそが、本当に、言葉の本来の意味での、真の平和と真の友好に適う行為ではないだろうか。

100円ショップというディストピア

2017-01-17 21:12:28 | 雑文
労働の現場で現に起こりつつある変化について。
職人の世界では、「◯◯が出来るようになるまで(一人前になるまで)◯年かかる」とよく言われる。これは技術を究めることの困難を象徴するものとして引き合いに出されがちであるが、視点を変えて雇用者側の立場から見ると、「一人前になるまでの◯年間、面倒をみる用意がある」ということである。
仮に◯の中の数字が10であるならば、10年の間技術指導をし、世話を焼く、ということである。一人前でないならば、充分な利益を上げることができないわけで、その分の補填は当然雇用者側の持ち出しになるだろう。
雇う側が身銭を切って後進を育てる。これが親方‐徒弟制度の常識なわけだ。
対して、最近の企業間における常識は、それとは異なりつつある。
少し前に、「即戦力で選ぶ人材サイト」なるCMが頻繁に流れていた。未経験者ではなく、経験者、もしくは有資格者のみに対象を絞った就職斡旋サイトだ。
このCMの中で、面接担当の中年社員が、「どうせ今回も大したのはいないんだろうが」と呟く場面がある。この「大したことないの」というのはつまり、即戦力でない人材のことである。CMはこの後、大したことないと思われていた就職希望者たちが、意外や意外、即戦力だらけであった、というハッピーエンドを迎える。
要するに、このCMはこう言っているのである。「即戦力を求めるのは悪いことではありませんよ。企業が身銭を切って人材を育てようとしないのは、悪いことでも何でもありません。むしろ即戦力でない人材のほうが悪いのです。彼等には、「雇ってほしければよそで経験を積むか、専門学校や職業訓練校に通ってこい」と言わねばなりません。企業は即戦力を求めて当たり前。人材育成を外部に押し付けて当たり前なのです」
この企業観が、職人集団のそれと対極をなしていることは言うまでもない。
費用対効果という言葉がある通り、「効果」を得たいのなら「費用」を支払わねばならない。即戦力を求めるということは、費用(人材育成)を支払わずに効果(労働力)を得ようとしている、ということである。
本来なら自らが行うべき役割(人材育成)を外部に押し付けて恥ともせず、むしろこれこそが企業のあるべき姿なのだと宣言しているのだ。
通常、人は誰しも未経験者として仕事を始める。その未経験者に対して、先輩なり上司なりが手取り足取り仕事のやり方を教える、というのはごく当然のことだ。古くからある慣習がほぼそのまま保持されている職人集団を見ればわかる通り、これは労働の現場では大昔からずっと常識とされてきた。
しかるに、その常識が今、覆されようとしている。
わずかでも利益を上げようと画策する企業が、身銭を切って人材を育てることを拒み、人材育成を外部に押し付けようとしている。先に挙げたCMは、これまで常識であったことを非常識としたうえで、そのことには何ら罪はないのだ、というイデオロギーを宣布するものである。
ただ、このCMだけが問題なのではない。このようなCMが流れるということは、すでに企業の現場において、即戦力だけに絞った登用が常態化しつつある、ということで、つまりはこのCMは現実で半ば常識化しつつある事態を反映したものに過ぎないのだ。
今、即戦力だけを求める企業が多数派になりつつある。
しかしながら、これは一概に企業倫理を批判すればいいというものでもない。
資本主義は「常に発展し続けること」を前提としているわけだが、その資本主義が高度に発展し、これ以上の経済成長が望めなくなった現在、労働の現場では、これまでになかった手法で利益を上げようとする試みが生まれているのだ。
経済成長は難しい。それでもなお、資本主義を経済体制とする社会は「利益を出せ」と要求してくる。ならば、これまで通りのやり方――原材料+労働力で、プラスアルファの差額を生み出せる商品(サービス)を作る――以外の方法で利益を上げるしかない。
過重な残業を強いて、そのうえ残業代を支払わない。会社の商品を社員が購入することを義務化する。些細な過失にペナルティーを科し、違反する毎に多額の罰金を給料から天引きする。等々。
これらはすべて、資本主義の「利益を上げろ」という要請に応えるものである。
もちろん経営者の人格の問題でもある。しかしながら、こうでもしないと利益を生み出せないほど資本主義経済が行き詰まりをみせている、というのもまた事実なのだ。
ならば、企業倫理を非難したり、ブラック企業を取り締まったりするばかりでなく、経済体制の転換を図らねばならないだろう。
個人の責任を追及するだけでなく、問題を生み出してしまう構造そのものを改革せねばならない。猫を払う前に魚をどけよ、ってことだ。

今100円ショップに行くと、うすら恐ろしくなる。「これ100円でいいの?」という商品がたくさん並んでいるからだ。常識的にはとても100円では買えないような商品が、当たり前のように売られている。
大半の人は「こんな良い物が100円だなんてラッキー!100円ショップサイコー!」と思っているかもしれない。でも、小生はあってはならないことが起きている気がする。
「100円なのが信じられない商品」は、原価だけで100円以上しそうに見える。その原価にさらに製造・流通に携わる人達の人件費、光熱費なんかを上乗せしてプラスアルファの利益を出すためには、どう考えても100円では足りない。製造・流通のどこかの段階で搾取が行われていなければ、こんな安値で販売できるわけがない。「100円なのが信じられない商品」が100円ショップに並んでる裏では、誰かしらが泣いているはずである。
企業が、ありとあらゆる手段――違法か、限りなく違法に近い手段――を用いて利益を上げようとする社会において、「100円なのが信じられない商品」を販売する100円ショップが成立する。
我々の労働力を搾取することによって、安すぎる100円ショップは成り立っている。言い換えれば、安すぎる100円ショップを享受したいなら、労働力の搾取を甘んじて受け入れねばならない、ということである。
安すぎる100円ショップに「否」を付きつけねばならない。でなければ、即戦力を求めて恥ともしない企業をのさばらせるばかりである。
ただ、「じゃあそのためにはどうすればいいのか」と問われても、小生には具体的な方策が思い浮かばない。なので、口先だけのヤツだと言われても反論できないのだが、少なくとも今の状況がまともではないという認識を持ち続けておくことに意義があるのではないかと思う。問題意識を失ってしまえば、社会変革が起きる余地すらなくなってしまうのだから。
安すぎる100円ショップは、ユートピアではない。ディストピアである。


オススメ関連本・平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』太田出版