大乗仏教の終焉
第六章
4 4貧蔽
これが、三十七菩提分法の象徴である三十七尊を祈念し、供養する修法なのである。
すなわち、護摩作法あって、印をむすび、観想に入る。
『観ぜよ、我が身の九識転じて五智と成る。いわゆる第九蒼摩羅識転じて法界体性智と成る。第
八識転じて大円鏡智と成る。第七識転じて平等性智と成る。第六識転じて妙観察智と或る。前五
識転じて成所作智と成る。この五智に五部の諸尊一切聖衆(すなわち三十七尊のこと)を摂入
す。また、わが身すなわち諸尊なり。善くこれを観ぜよ。』
これで三十七尊を供養し、三十七尊すなわちわが身なりと観念し、yこれを以て三十七課程の修行が
わが身においてすべて完了するのである。
これが様式化でなくてなんであろうか。わたくしが、『密教入門・求聞持法の秘密』において、密
教には観念宗とよばれる致命的欠陥があると警告したのはこの点なのである。これでは観念宗どころ
か、御都合主義であり、いい気なものだといわれても、返す言葉がないのではなかろうか。
これでは密教が左道化し、堕落したのも当然である。修行法がないからだ。ヒンド。-教や土俗信
仰とむすびついて消滅し去るのも当然の成り行きというべきだろう。’
真の「修行法」
だがI、 誤解しないでいただきたい。わたくしは、真言密教をいたずらに批難し、訥膀しているのではない
のである。
たとえ「仏さま」として象徴化し、まつり上げてしまったにせよ、仏陀の修行法を前面に打ち出し
たことは、すばらしいことであるといってよいのである。初期大乗以来、捨て去られてしまっていた
仏陀の修行法が、ここに復活したのである。その点において、わたくしは、密教は仏陀の教法にたち
かえることを目ざしたものであるというのである。
ただ惜しむらくは、この修行法が仏として象徴化されてしまったため、それにつれてなまじいに
「修行法」として様式化された加持祈祷法ができあがり、それを修することが修行であるということ
になってしまったことである。
考えてみれば、この三十七尊の象徴化による体系づくりは、まさに天才的偉業というよりほかない
ものである。これを作製、あるいは編成したグループは、実際に三十七課程の修行を実践していたの
である。おそらく、当時のヒンドクーイズムその他の信仰形態などをも勘案して、最も効果的な表現
形式としてこのように編成されたのであろう。この表現の背後には、教学としての実践と理論が裏打
ちされていたのである。
しかし、時代を経るにしたがって、その真意が失われ、ただその表現のみが残り、祈祷形式の修行
法だけが受けわたしされるようになってしまった。
実際に戒・定・慧の三学を身におさめ、三十七課程の修行を実践する、あるいは、した、修行者が、時に応じ、三十七尊をまつった金剛界曼荼羅を前にふかい瞑想に入ることはどれほどすばらしい
ことであるか、体験した者にはよくわかるのである。
だがI、後代、その様式化され、枝葉末節的な作法によって修飾された修行法を、「行法次第Lと称し、そ
の受けわたしを「法の伝授」とよび、それを以て密教の真髄の授受であるとして自他ともに満足して
いるとしたら、もしもそうであるとしたら、それはナンセンス以外のなにものでもなく、そんなもの
はもはや密教ではないといったら過言であろうか?
しかし、あの、初期・中期の大乗の行きづまりを打開すべく、仏陀の修行法を真向から打ち出して
立ち上がった第一期真言乗創立者たちの理念と情熱を考えたら、密教徒としてだれしも頭を垂れるよ
りほかないのではなかろうか?
真言密教はその理念と情熱をふたたびとりもどさねばならぬ。
たとえ仏さまに象徴化されてしまったとしても、仏陀の教法、修行法をいまの世にはっきり示して
いる大乗仏教は、密教をおいて他にないのである。
三十七尊を仏の座からひきおろし、もとの修行法に立ちかえらせるのだ。
それこそが、大日如来をはじめとする三十七尊の仏の本懐なのである。
その上で、礼拝し、供養し、祈願するとき、そのとき三十七尊は最高最上の御利益をあたえてくだ
さるであろう。
第六章 大乗仏教の終焉
”救い”から”さとり″へ
そういうと、それでは仏教は「出家宗教」に立ちかえれというのかヽそういわれるかも知れない・
そうではないのである。
時代がちがうのである。
仏陀の時代には、出家するよりほか修行する道がなかった・二千数百年も前の古代なのである・
二大根本分裂のときにもヽ一般民衆がヽ道を求めて修行をすることは不可能であった・慈悲を強調
し、布施行を実践させることで、宗教としての役目をはたすよりほかなかったのである。
日本における鎌倉期の大乗仏教もそうであった。
自分の名前すらも書くことのできない民衆には、「さとり」よりも、「救い」をまず説き、それによ
って辛うじて民衆を仏陀につなぐよりほかなかったのである。
それはヽ幕府という封建体制が、その反動勢力を維持する手段として利用するに及んで、明治維
新ヽそして宗教法人法が改正される第二次大戦終了後まで、動かしがたいものとなって固定した。教
団がわもまたヽその反動勢力とむすぶことにより、その勢力を守られて安逸をむさぼった。
いまや時代がちがうのである。
民衆の教育程度は高くヽ経済力も比較にならない。情報伝達の機構はとめどなく進歩している。い
くらでも「修行」はできるのである・またヽ一般人ができるように修行を編成することが、仏教の指
導者としての任務ではないのか。自分ができないから一般民衆などなおできないであろうなどと考え
ているとしたら、田心い上がりも甚しいというべきだろう。
かくも高度に発達した社会において、五百年、千年も前の古代において、便宜的に説かれた「仏さ
まの慈悲Lと「救いLを説くことは、社会と民衆を侮辱することにほかならない。
いまやわれわれは、仏さまの慈悲による「救いLを求めるのではなく、仏陀の理念による「さと
りLを求めなければならぬのである。仏陀の教法において、慈悲はとこまでも第二義のものであり、
第一義は智慧による「さとり」なのである。それを、いま、われわれは必要とするのである。
それはもはや、よい、わるいの問題ではない。まさに時代の要請なのである。
仏さまの慈悲による「救い」や「お助け」ではどうにもならぬところまで、人類社会は追いつめら
れてしまっているのである。逆にいうなら、そこまで追いつめられたのは、いままでの宗教のありか
たがすべてまちがっていたからである。
今日の新聞(日本経済新聞11/4)の報道によると、アメリカの上院もいよいよ。中性子爆弾”の開
発のための支出法案を可決したという。あの、〃悪魔の爆弾‘といわれるものである。そうして、こ
の国はキリスト教国であり、キリスト教はもっぱら「愛Lを説くのである。
西洋においてはキリストの「愛Lが説かれ、東洋においては仏さまの「慈悲」が説かれる。
そしていまや西も東も破滅に瀕しているのである。
仏陀は、「愛Lと「慈悲」以上のものを説かれたのである。その仏陀の説かれたものがいまこそ必
要なのだ。 。
愛も慈悲も必要だが、さらにそれ以上のものが必要なのだ。それを仏陀は二千年来、叫びつづけて
いるのである。それをあなたはどう思うか。
仏陀からの再出発
人類の不幸はなによりもそのおろかなためである。愛か足りないためではない。慈悲が足りないた
めではない。智慧が足りないためである。仏陀が人類を救うために「智慧」の必要を説かれたのはま
さに正しいのである。
愛も、慈悲も、真実にして高度の智慧の上に立って考えられたとき、はじめて、真実にしてあやま
りなき愛となり、慈悲となるのである。いや、真実にして高度の智慧を得たとき、ひとはおのずから
限りなき慈悲のこころと愛にみたされるのである。、愛と慈悲のこころを持つたからといって人は必ず
しも高い智慧を持つとはかぎらない。しかし、高度の智慧を待ったとき、人は必らず限りなき愛と慈
悲にみたされるのである。かつて仏陀がそうであったようにi。
だがI、そういう智慧は修行なくしては得られないのである。仏陀は生来賢者であったが、それ
だけでは仏陀になれなかった。血の出るような修行によって仏陀になられたのである。われわれは仏
陀にはなれないかも知れないが、仏陀の残された教法を修行することにより、賢者にはなれる。いかなる場合にも、殺し合い、傷つけ合い、奪い合うような愚行を演じない賢者にII。そうしてまた、
そういう愚行を絶滅させ、かぎりない愛と慈悲にみたされた高度でゆたかな社会をつくりだす賢者にー
The end of Mahayana Buddhism
Chapter 6
4 4 Poverty
This is a practice of praying and memorializing the thirty-seven gods, a symbol of the Thirty-seven Bodhi Method
That is, with the Goma etiquette, conclude the seal and enter into contemplation.
"Look, look at my nine knowledge and become five wise. The so-called ninth somara changed and became the legal physique. No.
Changed into eight senses and became a great circle mirror. The seventh knowledge turns to equality. The sixth knowledge turned and there was a mysterious observation Satoshi. Previous five
Changed into knowledge and became Naruse Sakuchi. Into these five wisdom all five religions and saints (that is, thirty-seven gods)
Pass Also, my body, all gods. Watch this well. 』
で The 37 saints are now sacrifice, and the thirty-seven sons, that is, my dress, are considered.
Everything is completed in my body.
な ん What is this not stylization? In my book, “Introduction to the Secret of the Esoteric Education,
It is at this point that he warned that there is a fatal flaw in the religion known as the Kannon sect. This is the main point of the Kannon sect
Or, even if it is said to be opportunistic and good, there is no word to return.
It is natural that esotericism is left-handed and corrupt. There is no practice. Hind. -Education and folklore
It would be a natural consequence that they would disappear with disappearing from their backs. ’
True "training method"
But I, I hope you do not misunderstand. I criticize Shingon Esoteric Buddhism unnecessarily and I am not blunt
It is.
Even if it was symbolized as the “Buddha” and raised it, the Buddha's practice was brought to the forefront
That is a wonderful thing. Abandoned since early Mahayana
Buddha's practice was resurrected here. In that regard, I believe that esotericism has become Buddha's teaching.
It is intended to frog.
Unfortunately, since this practice was symbolized as a Buddha,
加 A stylized Kayari prayer method has been completed as the "training method", and training it is training.
It has become.
If you think about it, creating a system by symbolizing the thirty-seven gods is nothing but a genius feat.
Things. The group that created or organized this was actually practicing 37 courses of training
It is. Probably the most effective expression, considering Hinduism and other forms of religion at the time
It may have been organized this way as a form. Behind this expression is pedagogy practice and theory
It had been done.
However, as time passes, the meaning is lost, only the expression remains, and the practice of prayer style
Only the law has been accepted.
Indeed, they learned the three schools of commandment, stipulation, and wisdom, and practiced the thirty-seven courses, or the practitioner sometimes looked in front of the Kongokai mandala, which encircled the thirty-seven gods. How wonderful it is to enter meditation
That's what the experienced person knows.
However, I, the progeny, the stylized training method that was modified by the stylized and end-of-leaf manner, was called "Let's depend on the practice method.
Call me the "tradition of the law", and with it I am satisfied with myself and others as the essence of esoteric teaching
If so, if it were, it was nothing but nonsense,
Is it an exaggeration to say that is no longer esoteric?
However, in order to break the deadlock of the early and middle Mahayana,
Given the philosophies and passions of the founders of the first era of Shingon, everybody as a esoteric hangs his head
Isn't there anything else?
Shingon Esotericism must restore its philosophy and passion again.
て Even if it is symbolized by the Buddha, clearly show the Buddha's teachings and practices in the world
There is no other Mahayana Buddhism except esoteric Buddhism.
Pull down the thirty-seven lords from the seat of the Buddha and return to the original practice.
That is the true essence of the 37 Buddhas, including Dainichi Nyorai.
上 When worshiping, memorializing and praying, the thirty-seven gods should give the highest and highest interests.
Will be.
Chapter 6: The End of Mahayana Buddhism
へ From “Salvation” to “Satori”
い う That may mean that Buddhism should be replaced by “exodus religion”.
で は It is not so.
The times are different.
In Buddha's day, there was no way to practice other than to go home. It was ancient two hundred hundred years ago.
It was impossible for the general public to practice in search of the way even during the two major divisions, emphasizing mercy
However, the practice of cloth enforcement had no other role than religion.
大 The same was true of Mahayana Buddhism during the Kamakura period in Japan.
民 For people who cannot even write their own names, preach "salvation" rather than "satori"
It was almost nothing but connecting the people to Buddha.
The Meiji Restoration began to use the feudal system of the Shogunate as a means of maintaining the reactionary forces.
Until the end of the Second World War, when the Religious Incorporation Law was amended, it became immobile and fixed. Teaching
The group also ヽ と 安 む 反 反 反 に よ り こ と こ と に よ り に よ り に よ り に よ り に よ り.
時代 The times are now different.
The degree of education of the people is high, and the economic power is incomparable. Mechanism of information transmission has advanced endlessly. I
Anyone can do "training". Also, it is a Buddhist finger that organizes training so that ordinary people can do it.
Isn't it a mission as a leader? I think that I cannot do it because I cannot do it
If so, it should be a serious rise.
In such a highly developed society, the ancient Buddha, 500 years or 1000 years ago,
"The preaching of salvation L is nothing but an insult to society and the people.
Now, we do not seek the salvation L by the Buddha's mercy, but by the Buddha's philosophy
L must be obtained. In Buddha's teachings, mercy has always been of secondary significance,
The first is the "Satori" by wisdom. We need it now.
It's no longer a good or bad problem. This is exactly the demand of the times.
人 Human society has caught up to the point where “salvation” and “help” by the Buddha ’s mercy cannot be helped
It has been lost. Conversely, what caught up to that was the religion so far?
For they were all wrong.
According to a report in today's newspaper (Nihon Keizai Shimbun 11/4), the US Senate is finally coming. Opening of neutron bomb
It is said that it has passed a bill for expiration. That's what's called the "devil bomb." And then
Is a Christian country, and Christianity is exclusively about "Love L.
に お い て In the west, Christ's "Love L" is preached; in the east, the Buddha's "mercy" is preached.
And now both the west and the east are on the verge of ruin.
Buddha preached more than "Love L and" Mercy ". The Buddha's preaching is now a must
It is important. .
You need love and mercy, but you need more. Buddha has been screaming for 2000 years
It is. What do you think of it?
再 Restart from Buddha
The unhappiness of mankind is above all for its neglect. Not because of love or lack. Lack of mercy
It is not. Because of lack of wisdom. It is the Buddha who preached the need for “wisdom” to save humanity.
That's right.
When love and mercy are considered true and stand on a high level of wisdom, it becomes true for the first time.
It becomes love without love and mercy. No, when you are true and have a high degree of wisdom,
You will be in the heart of endless mercy and in love. But because of the heart of love and mercy,
They do not always have high wisdom. However, when waiting for a high degree of wisdom, a person is inevitably boundless
You will be sad. I as the Buddha once was.
But I, such wisdom cannot be obtained without training. Buddha was naturally a sage, but it
I couldn't be Buddha alone. He became a Buddha through bloody training. We are Buddha
You may not be a da, but you can become a sage by training Buddha's remaining teachings. In any case, a sage who does not perform killer, hurt, or rivalry folly II. And then again
A wise man who extinguishes such folly and creates an advanced and generous society with endless love and mercy.