脳と心革命瞑想瞑想
仏陀釈尊が直説された瞑想法
前の章で、通常おこなわれている瞑想法をご紹介した。
阿含宗の瞑想法は、これらの瞑想法とかなり違う、特異なものである。それは、
仏陀釈尊が阿合経でお説きになった瞑想法にもとづくものだからである。
前章の瞑想法は、いずれも、シナ仏教の強い影響をうけたものである。仏陀釈尊
が、阿合経でお説きになったものとかなり違うところがある。
どこが違うかというと、仏陀釈尊の瞑想法の特徴は、「呼吸法」である。それは、
たんなる呼吸のしかたというような「呼吸法」ではなく、呼吸と意念を合一して機
能させる特殊なものである。
それがどのようなものか、経典を見ていただこう。
是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まひたまへり。
爾の時世尊、諸の比丘に告げたまはく、『安那般那の念を修習せよ。若し比丘
の安那般那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て右党、有
観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習
するに多く修習し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる
想を修習満足すと為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を
著け鉢を持ち、村に大りて乞食するに善く其の身を護り、諸の根門を守り善く
心を繋けて住し、乞食し已つて住処へ還へり、衣鉢を挙げ足を洗ひ已つて或は
林中の閑房の樹下、或は空露地に大りて端身正坐し、念を繋けなば面前、世の
貪愛を断じ欲を離れて清浄に、限恚・睡眠・悼悔・疑、断じ、諸の疑惑を度
り、諸の善法に於て心決定することを得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして庶
らしめ、障擬の分と為り、涅般に趣かざるを達離し、内息を念じては念を繋け
て善く学し、外息を念じては念を繋けて善く学し、息の長き息の短き、一切の
身の大息を覚知して一切の身の大息に於て善く学し、一切の身の出息を覚知し
て一切の身の出息に於て善く学し、一切の身の行息・大息を覚知して、一切の
身の行息・大息に於て善く学し、一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身
の行息・出息に於て善く学し、喜を覚知し、楽を覚知し、身行を覚知し、心の
行息・大息を覚知して心の行息・大息を覚知するに於て善く学し、心の行息・
出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心
悦を覚知し、心定を覚知し、心の解脱人1 を覚知して、心の解脱大息を覚知す
るに於て善く学し、心の解脱出息を覚知して、心の解脱出1 を覚知するに於て
善く学し、無常を観察し、断を観察し、無欲を観察し、滅入息を観察して、滅
入息を観察するに於て善く学し、滅出息を観察して、滅出息を観察するに於て
善く学する。是れを安那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有観な
らば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく』と。仏此の経を説
き已りたまひしに諸の比丘、仏の説かせたまふ所を聞きて、歓喜奉行しき。
(雑阿含経・安那般那念経)
仏陀の瞑想法のナゾを追う
この経典は、古来、瞑想家の間では有名な古典となっている。前にのべた禅宗の
「数息観」もここから出ているのである。
経題の「安那--`呂」は出る息のこと、「般那―‐‐-Q簒~」は入る息のこと。そ
こで、古来、安那般那とは、出る息、入る息を調整して心をしずめる観法-・瞑想
法のことをいうものとされてきた。そこから、いまいったように「数息観」が工夫
されたのであろう。
しかし、わたくし、思うのに、これはちがうのである。この経典は、たんなる呼
吸法を説いたものではないのである。
わたくしも、瞑想をはじめた当時は、古来の解釈に疑問を持だなかった。しか
し、さまざまな瞑想法を学び、力もつくにしたがって、これはちがうぞと思いはじ
めたのである。
考えてごらんなさい。このごく短い経典の中で、じつにかず多くの呼吸法が説か
れているのである。
つぎにあげてみよう。
内
息
外 息
人 息
出 息
行 息
身の行息・人息
身の行息・出息
心の行息・人息
心の行息・出息
心の解脱大息
心の解脱出息
滅入息
滅出息
身止息
心止息
じつに、一五種類の呼吸法が説かれているのだ。これだけでも、そんな簡単なも
のではないことがわかるではないか。
ここに列挙した呼吸法の名称を見ただけで、たんに数息観や随息観(前出)程度
のかんたんな呼吸法を教えたものではないことくらい、ピンと来るはずだ。
おそらく、これまでの経典解釈者は、これらの呼吸法の内容がどのようなものな
のか、よくわからぬので、そのまま素通りしてしまったのではないかと思われる。
たしかに その内容は、尋常一様のものではなかったのである。
ヨーガと瞑想の奥義をきわめたものでなければ、とうてい理解できないものだっ
たのだ。
わたくしは、この経典を理解し、体得しなければ、阿含宗をひらく資格はないと
考え、二十数年、血の出るような努力をつづけた。そしてついにそのナソを解い
た。
この経典のナソを解くポイントは、経典の冒頭の一句に秘められている。
「安那般那の念を修習せよ」
と冒頭にある。
安那般那を修習せよ、ではないのである。
安那般那の念を修習せよ、とあるのだ。
これに該当する瞑想法はどんな瞑想法なのか?
わたくしは、必死に追求し、瞑想を重ねた。
そういうと、仏陀釈尊は、なぜもっと分かりやすく説いてくれなかったのか、ど
うしてそんな意地の悪い説きかたをしたのかといわれるかも知れないが、そうでは
ないのである。
それは、この経典は、仏陀の当時の高弟たちにたいして説かれたものであり、こ
の講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、
一々、初心者にたいするようにその内容について説明する必要がなかったからで
ある。
そこで、これらの呼吸法について、ごくかんたんに説明してみよう。
まず、「息」である。
これを、たんなる呼吸と解釈してしまってはいけない。そう解釈するから、この
貴重な経典を、たんなる呼吸法を説いた経典と見てしまうのである。
この「息」にはもっと深い重大な意味があるのである。
それはなにか?
それは、「息」と「念」とを一つに合したものなのである。「安那般那の念を修習
せよ」と仏陀はいう。それがこれなのである。
ここに、仏陀釈尊の呼吸法の秘密がある。
そこでまず、経典に示された一五の呼吸法について、かんたんにのべよう。
‐ -- ‐--
内
息
外
息
入 息
出 息
これは、深い瞑想の修行に入るにあたっての、身心調節の呼吸法である。
行 息
この「行息」が、「念」と「安那般那」とを一つにした特殊な瞑想法の第一段階
なのである。
じん
身の行息・入息
じん
身の行息・出息
これは、身において、「念」と「安那般那」とを一つにしたもの(これから、こ
れを。気息”または。生気”という名称で呼ぶ)を行らすこと。即ち体の特定の場
所に気息をめぐらして行くことである。特定の場所とはどこか? また、「行らす」
とはどういうことか? あとでのべよう。
心の行息・入息
心の行息・出息
これは、心において気息を行らすこと。
この「心」というのは、端的にいって、脳のことである。思念する心は、脳にあ
るからである。脳の特定の場所に気息をめぐらして行くのである。特定の場所とは
どこか?
あとでのべよう。
身止息 身において気息を止念す
心止息―-心において気息を止念す
気息を、身と心に止め、念ずるのである。
身と心の、どこに止め念ずるのか? また「止める」とはどういうことか? あ
とでのべよう。
心の解脱入息
心の解脱出息
解脱の段階に入った最高レベルの瞑想法である。
滅入息
滅出息
脳の或る部分を動かし、仏陀の覚性に到達する修行である。生気・呼吸・意念す
べてを超越した境地に入る。
さらに、仏陀は、四つの最上深秘の呼吸法を説いている。
勝止息
上止息
奇特止息
無上止息
である。
仏陀は、他の経典(雑阿含経「止息経しで、「この四つの呼吸法は、すべての呼
吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべている。
これまでの、シナ仏教、日本仏教の瞑想者たちは、阿含経典に説かれているこれ
ら仏陀釈尊直説の瞑想法を、ほとんど知らないできたのである。
かれらは、仏陀釈尊直説の阿合経典群を誤認して、「小乗仏教」などと既し、こ
れを学ばなかったためのシワ寄せである。
ごらんになった通り、阿含経というお経は、仏陀釈尊が直接、弟子たちに講義し
た「仏法」をそのまま記したもので、いうならば、純粋の「法」そのものが記述さ
れている。
法華経や、阿弥陀経その他の大乗経典を読みなれた人には、取っつきにくいと思
われる。あるいは、面くらうのではないかと思われる。大乗経典につきものの、ご
利益談やおかげばなしはいっさいないからである。味も素っ気もないお経だ。
阿合経は、いうなれば、「仏法」の教科書なのである。それも、数学や幾何の教
排1 ゼヒ忍えばよい。というのは、仏法の「法」そのものが、じつに理性的に純粋
に、(科学的にといってもよい)説かれているからである。数学や幾何に、感情の
入る余地はない。どこの世界に、数学や幾何の教科書に、ご利益ばなしや、おかげ
ばなしが入るであろうか?
そういうことが、シナ仏教や日本仏教の人たちには、理解できず、「小乗仏教」
などといって、学ぶことを放棄してしまったのである。非常にむずかしいためもあ
ったであろう。
仏陀の呼吸法のナゾを解く
仏陀釈尊が、阿含経典で教えておられる呼吸法とは、どんな呼吸法なのか? ま
た、この呼吸法を用いる瞑想法とは、どんな瞑想法なのか? わたくしは一心に模
索追求した。
そのころ、わたくしは、クンダリニー・ヨーガを修練していた。
そのクンダリニー・ヨーガの瞑想をしているときであった。ふっと気がついたの
だ。
それは、ふかい定に入って、そのまま、からだの或る一点に、生気を止めている
ときであった。
これは、極度にむずかしい技法である。からだの或る一点に、生気を送りこみ、
それを徐々に凝縮して、さらにその于不ルギーをしだいに増幅してゆくI-。その
間、兎の毛で突いかはどのス牛も許~れない。
そのときに、はっと気がついたのだ。
なんと!
仏陀の教えていることを、いま、わたくしはやっているのではないか!
そうだ、これだ!
わたくしは歓喜の声をあげた。そして、定に入ったまま、釈尊の教える呼吸法
を、つぎからつぎへと、試みていった。
もちろん、そのときは、すべてにわたってわかったとはいえない。しかし、大づ
かみに、釈尊の教えている呼吸法のポイントをつかんだと確信した。
I-釈尊は、後代の「クンダリニー・ヨーガ」の原点となるものを、教えていた
のである。
人間のからだの中の「力の湧き出る泉」
クンダリニー・ヨーガは、古来、超人的能力を生み出すことで有名である。
クンダリニー・ヨーガが超人的能力を生み出す秘密は、ホルモンの分泌を自由に
調節するところにあった。
クンダリニー・ヨーガは、人間のからだの中に、七ヵ所の「力の湧き出る泉」を
発見し、この泉を自由に操って、超人的能力を発生する技術をつくり出したのであ
る。そうして、この「力の湧き出る泉」を「チャクラ」と名づけた。
チャクラがどうして超人的ともいうべき特殊な力を発生するのか、長い間、それ
は神秘的なナソとされていたが、近代生理学の発達によって、そのナソは解けた。
チャクラの場所は、すべて、ホルモンを分泌する内分泌腺と一致するのである。
クンダリニー・ヨーガの熟達者は、特殊な修行によって得た力で、チャクラを刺
激し、ふつうの人間の持だない力を発生させるのであるが、その「特殊な修行」と
いうのが、仏陀釈尊の「特殊な呼吸法」であることを、わたくしは発見したのであ
る。
釈尊の呼吸法の特徴をあげよう。
行 息
止 息
である。
前の節で、わたくしは、
「身の行息」
について、
これは、身において気息を行らすこと。即ち、体の特定の場所に気息をめぐ
らして行くことである。特定の場所とはどこか? また「行らす」とはどうい
うことか? あとでのべよう。
と書いているが、この「特定の場所」というのが「チャクラ」なのである。
「行らす」というのは、チャクラは数力所あるので、それらを、つぎつぎとたどっ
て行くことの表現である。
つギゝに、
「身止息-身において気息を止念す」
について、
気息を身ど心に止
また「止める」とは
め、念ずるのである。身と心の、どこに止め念ずるのか?
、どういうことか? あとでのべよう。
と書いている。
どこに止め、念ずるのか?
「チャクラ」しがないではないか。
チャクラは、長い間、神秘的なナゾとされていたが、それは、すべて、ホルモン
を分泌する内分泌腺と一致していたのである。
ホルモンは、著名な科学評論家により、酵素・ビタミンとならんで、
「魔法の化学物質」
とよばれている。用いかたによっては、魔法としか思えないような驚異的結果を
生み出すからである。
仏陀釈尊が直説された瞑想法
前の章で、通常おこなわれている瞑想法をご紹介した。
阿含宗の瞑想法は、これらの瞑想法とかなり違う、特異なものである。それは、
仏陀釈尊が阿合経でお説きになった瞑想法にもとづくものだからである。
前章の瞑想法は、いずれも、シナ仏教の強い影響をうけたものである。仏陀釈尊
が、阿合経でお説きになったものとかなり違うところがある。
どこが違うかというと、仏陀釈尊の瞑想法の特徴は、「呼吸法」である。それは、
たんなる呼吸のしかたというような「呼吸法」ではなく、呼吸と意念を合一して機
能させる特殊なものである。
それがどのようなものか、経典を見ていただこう。
是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まひたまへり。
爾の時世尊、諸の比丘に告げたまはく、『安那般那の念を修習せよ。若し比丘
の安那般那の念を修習するに多く修習せば身心止息することを得て右党、有
観、寂滅、純一にして明分なる想を修習満足す。何等をか安那般那の念を修習
するに多く修習し已らば身心止息し、有覚、有観、寂滅、純一にして明分なる
想を修習満足すと為す。是の比丘、若し聚落城邑に依りて止住し、晨朝に衣を
著け鉢を持ち、村に大りて乞食するに善く其の身を護り、諸の根門を守り善く
心を繋けて住し、乞食し已つて住処へ還へり、衣鉢を挙げ足を洗ひ已つて或は
林中の閑房の樹下、或は空露地に大りて端身正坐し、念を繋けなば面前、世の
貪愛を断じ欲を離れて清浄に、限恚・睡眠・悼悔・疑、断じ、諸の疑惑を度
り、諸の善法に於て心決定することを得、五蓋の煩悩の心に於て慧力をして庶
らしめ、障擬の分と為り、涅般に趣かざるを達離し、内息を念じては念を繋け
て善く学し、外息を念じては念を繋けて善く学し、息の長き息の短き、一切の
身の大息を覚知して一切の身の大息に於て善く学し、一切の身の出息を覚知し
て一切の身の出息に於て善く学し、一切の身の行息・大息を覚知して、一切の
身の行息・大息に於て善く学し、一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身
の行息・出息に於て善く学し、喜を覚知し、楽を覚知し、身行を覚知し、心の
行息・大息を覚知して心の行息・大息を覚知するに於て善く学し、心の行息・
出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於て善く学し、心を覚知し、心
悦を覚知し、心定を覚知し、心の解脱人1 を覚知して、心の解脱大息を覚知す
るに於て善く学し、心の解脱出息を覚知して、心の解脱出1 を覚知するに於て
善く学し、無常を観察し、断を観察し、無欲を観察し、滅入息を観察して、滅
入息を観察するに於て善く学し、滅出息を観察して、滅出息を観察するに於て
善く学する。是れを安那般那の念を修するに身止息し心止息し、有覚、有観な
らば寂滅、純一にして明分なる想の修習満足せりと名づく』と。仏此の経を説
き已りたまひしに諸の比丘、仏の説かせたまふ所を聞きて、歓喜奉行しき。
(雑阿含経・安那般那念経)
仏陀の瞑想法のナゾを追う
この経典は、古来、瞑想家の間では有名な古典となっている。前にのべた禅宗の
「数息観」もここから出ているのである。
経題の「安那--`呂」は出る息のこと、「般那―‐‐-Q簒~」は入る息のこと。そ
こで、古来、安那般那とは、出る息、入る息を調整して心をしずめる観法-・瞑想
法のことをいうものとされてきた。そこから、いまいったように「数息観」が工夫
されたのであろう。
しかし、わたくし、思うのに、これはちがうのである。この経典は、たんなる呼
吸法を説いたものではないのである。
わたくしも、瞑想をはじめた当時は、古来の解釈に疑問を持だなかった。しか
し、さまざまな瞑想法を学び、力もつくにしたがって、これはちがうぞと思いはじ
めたのである。
考えてごらんなさい。このごく短い経典の中で、じつにかず多くの呼吸法が説か
れているのである。
つぎにあげてみよう。
内
息
外 息
人 息
出 息
行 息
身の行息・人息
身の行息・出息
心の行息・人息
心の行息・出息
心の解脱大息
心の解脱出息
滅入息
滅出息
身止息
心止息
じつに、一五種類の呼吸法が説かれているのだ。これだけでも、そんな簡単なも
のではないことがわかるではないか。
ここに列挙した呼吸法の名称を見ただけで、たんに数息観や随息観(前出)程度
のかんたんな呼吸法を教えたものではないことくらい、ピンと来るはずだ。
おそらく、これまでの経典解釈者は、これらの呼吸法の内容がどのようなものな
のか、よくわからぬので、そのまま素通りしてしまったのではないかと思われる。
たしかに その内容は、尋常一様のものではなかったのである。
ヨーガと瞑想の奥義をきわめたものでなければ、とうてい理解できないものだっ
たのだ。
わたくしは、この経典を理解し、体得しなければ、阿含宗をひらく資格はないと
考え、二十数年、血の出るような努力をつづけた。そしてついにそのナソを解い
た。
この経典のナソを解くポイントは、経典の冒頭の一句に秘められている。
「安那般那の念を修習せよ」
と冒頭にある。
安那般那を修習せよ、ではないのである。
安那般那の念を修習せよ、とあるのだ。
これに該当する瞑想法はどんな瞑想法なのか?
わたくしは、必死に追求し、瞑想を重ねた。
そういうと、仏陀釈尊は、なぜもっと分かりやすく説いてくれなかったのか、ど
うしてそんな意地の悪い説きかたをしたのかといわれるかも知れないが、そうでは
ないのである。
それは、この経典は、仏陀の当時の高弟たちにたいして説かれたものであり、こ
の講義を聴聞した修行者たちが、みな、これらの呼吸法に熟達した者ばかりで、
一々、初心者にたいするようにその内容について説明する必要がなかったからで
ある。
そこで、これらの呼吸法について、ごくかんたんに説明してみよう。
まず、「息」である。
これを、たんなる呼吸と解釈してしまってはいけない。そう解釈するから、この
貴重な経典を、たんなる呼吸法を説いた経典と見てしまうのである。
この「息」にはもっと深い重大な意味があるのである。
それはなにか?
それは、「息」と「念」とを一つに合したものなのである。「安那般那の念を修習
せよ」と仏陀はいう。それがこれなのである。
ここに、仏陀釈尊の呼吸法の秘密がある。
そこでまず、経典に示された一五の呼吸法について、かんたんにのべよう。
‐ -- ‐--
内
息
外
息
入 息
出 息
これは、深い瞑想の修行に入るにあたっての、身心調節の呼吸法である。
行 息
この「行息」が、「念」と「安那般那」とを一つにした特殊な瞑想法の第一段階
なのである。
じん
身の行息・入息
じん
身の行息・出息
これは、身において、「念」と「安那般那」とを一つにしたもの(これから、こ
れを。気息”または。生気”という名称で呼ぶ)を行らすこと。即ち体の特定の場
所に気息をめぐらして行くことである。特定の場所とはどこか? また、「行らす」
とはどういうことか? あとでのべよう。
心の行息・入息
心の行息・出息
これは、心において気息を行らすこと。
この「心」というのは、端的にいって、脳のことである。思念する心は、脳にあ
るからである。脳の特定の場所に気息をめぐらして行くのである。特定の場所とは
どこか?
あとでのべよう。
身止息 身において気息を止念す
心止息―-心において気息を止念す
気息を、身と心に止め、念ずるのである。
身と心の、どこに止め念ずるのか? また「止める」とはどういうことか? あ
とでのべよう。
心の解脱入息
心の解脱出息
解脱の段階に入った最高レベルの瞑想法である。
滅入息
滅出息
脳の或る部分を動かし、仏陀の覚性に到達する修行である。生気・呼吸・意念す
べてを超越した境地に入る。
さらに、仏陀は、四つの最上深秘の呼吸法を説いている。
勝止息
上止息
奇特止息
無上止息
である。
仏陀は、他の経典(雑阿含経「止息経しで、「この四つの呼吸法は、すべての呼
吸法において、これ以上のものはない最上の呼吸法である」とのべている。
これまでの、シナ仏教、日本仏教の瞑想者たちは、阿含経典に説かれているこれ
ら仏陀釈尊直説の瞑想法を、ほとんど知らないできたのである。
かれらは、仏陀釈尊直説の阿合経典群を誤認して、「小乗仏教」などと既し、こ
れを学ばなかったためのシワ寄せである。
ごらんになった通り、阿含経というお経は、仏陀釈尊が直接、弟子たちに講義し
た「仏法」をそのまま記したもので、いうならば、純粋の「法」そのものが記述さ
れている。
法華経や、阿弥陀経その他の大乗経典を読みなれた人には、取っつきにくいと思
われる。あるいは、面くらうのではないかと思われる。大乗経典につきものの、ご
利益談やおかげばなしはいっさいないからである。味も素っ気もないお経だ。
阿合経は、いうなれば、「仏法」の教科書なのである。それも、数学や幾何の教
排1 ゼヒ忍えばよい。というのは、仏法の「法」そのものが、じつに理性的に純粋
に、(科学的にといってもよい)説かれているからである。数学や幾何に、感情の
入る余地はない。どこの世界に、数学や幾何の教科書に、ご利益ばなしや、おかげ
ばなしが入るであろうか?
そういうことが、シナ仏教や日本仏教の人たちには、理解できず、「小乗仏教」
などといって、学ぶことを放棄してしまったのである。非常にむずかしいためもあ
ったであろう。
仏陀の呼吸法のナゾを解く
仏陀釈尊が、阿含経典で教えておられる呼吸法とは、どんな呼吸法なのか? ま
た、この呼吸法を用いる瞑想法とは、どんな瞑想法なのか? わたくしは一心に模
索追求した。
そのころ、わたくしは、クンダリニー・ヨーガを修練していた。
そのクンダリニー・ヨーガの瞑想をしているときであった。ふっと気がついたの
だ。
それは、ふかい定に入って、そのまま、からだの或る一点に、生気を止めている
ときであった。
これは、極度にむずかしい技法である。からだの或る一点に、生気を送りこみ、
それを徐々に凝縮して、さらにその于不ルギーをしだいに増幅してゆくI-。その
間、兎の毛で突いかはどのス牛も許~れない。
そのときに、はっと気がついたのだ。
なんと!
仏陀の教えていることを、いま、わたくしはやっているのではないか!
そうだ、これだ!
わたくしは歓喜の声をあげた。そして、定に入ったまま、釈尊の教える呼吸法
を、つぎからつぎへと、試みていった。
もちろん、そのときは、すべてにわたってわかったとはいえない。しかし、大づ
かみに、釈尊の教えている呼吸法のポイントをつかんだと確信した。
I-釈尊は、後代の「クンダリニー・ヨーガ」の原点となるものを、教えていた
のである。
人間のからだの中の「力の湧き出る泉」
クンダリニー・ヨーガは、古来、超人的能力を生み出すことで有名である。
クンダリニー・ヨーガが超人的能力を生み出す秘密は、ホルモンの分泌を自由に
調節するところにあった。
クンダリニー・ヨーガは、人間のからだの中に、七ヵ所の「力の湧き出る泉」を
発見し、この泉を自由に操って、超人的能力を発生する技術をつくり出したのであ
る。そうして、この「力の湧き出る泉」を「チャクラ」と名づけた。
チャクラがどうして超人的ともいうべき特殊な力を発生するのか、長い間、それ
は神秘的なナソとされていたが、近代生理学の発達によって、そのナソは解けた。
チャクラの場所は、すべて、ホルモンを分泌する内分泌腺と一致するのである。
クンダリニー・ヨーガの熟達者は、特殊な修行によって得た力で、チャクラを刺
激し、ふつうの人間の持だない力を発生させるのであるが、その「特殊な修行」と
いうのが、仏陀釈尊の「特殊な呼吸法」であることを、わたくしは発見したのであ
る。
釈尊の呼吸法の特徴をあげよう。
行 息
止 息
である。
前の節で、わたくしは、
「身の行息」
について、
これは、身において気息を行らすこと。即ち、体の特定の場所に気息をめぐ
らして行くことである。特定の場所とはどこか? また「行らす」とはどうい
うことか? あとでのべよう。
と書いているが、この「特定の場所」というのが「チャクラ」なのである。
「行らす」というのは、チャクラは数力所あるので、それらを、つぎつぎとたどっ
て行くことの表現である。
つギゝに、
「身止息-身において気息を止念す」
について、
気息を身ど心に止
また「止める」とは
め、念ずるのである。身と心の、どこに止め念ずるのか?
、どういうことか? あとでのべよう。
と書いている。
どこに止め、念ずるのか?
「チャクラ」しがないではないか。
チャクラは、長い間、神秘的なナゾとされていたが、それは、すべて、ホルモン
を分泌する内分泌腺と一致していたのである。
ホルモンは、著名な科学評論家により、酵素・ビタミンとならんで、
「魔法の化学物質」
とよばれている。用いかたによっては、魔法としか思えないような驚異的結果を
生み出すからである。