中国史書に、倭、倭国、日本、日本国と見える。対外的に中国の史書に載せるのは冊封を持つかにもよるが、日本国王としての文書における署名が、そこに用いられたので、それをもって日本という表記を歴史的に見ることになる。
倭に対する和は、大和ともなり、それを、やまと と訓ずるのは、国名として、律令制においてあったのであるから、歴史に、日本としての呼称はどうであったか。発音がわからないので、日本の表記に、やまと と用いている例がある、万葉集の訓詁でとらえる。
都となった京には、その大和王権が継いでいるから、大和朝廷のままに、当時には、やまと であったのである。唐の長安における漢字音が、日について、にち じつ n→r という変化を受けるので、日本の発音は字音として変遷していくが、中国大陸との貿易では、日本国王の名称はどう発音されていたものであろう。
その発音に交易をした関係のある貿易港の読みようを、日本からの役人商人たちも聞いたに違いない。それはニ―フォンである。
易港の読みようを、日本からの役人商人たちも聞いたに違いない。それはニ―フォンである。 . . . 本文を読む
新潮日本語漢字辞典の語釈を引き、それを読むと懐かしい。やはり新潮の辞典編集部なのである、という思いがする。かつて広辞苑に対して新潮国語辞典を刊行してセンセーションを起こした頃が、この辞書の語釈に感じられる。
待てよ、ということは、漢字辞典は国語辞典であったのか、ということになるが、あくまでも、よそおいは日本語辞典である。そこで語を引いて眺めて、新潮国語を取り出そうとするか、それは無用なことだろう。
かくも国語がなんであるか、ということと、日本語はどういう言語なのかと、それを解説すること難しく、日本語は袋小路に入り込んでしまったのである。そのときには、日本語漢字辞典を字引きだと思って、節用集の現代版だとしたのだが、セッチョーはそれなりに用途があったであろう。
新潮の漢字辞典は二兎を追って国語辞典になってしまったのであるから、特色の一つにある、熟語索引から、日本語漢字熟語辞典とでもするとよいのかもしれない。それとても漢字熟語を4万7千をならべながら、二兎を追うもの一兎をも得ず、を引き出すことができないのである。標出字、兎 あるいは 二 にあって、その意味にかきとどめている。 . . . 本文を読む
オーバーな表現は、行き過ぎた言い方、大げさであることを意味する。唐代の詩人、李白の五言絶句、秋浦歌にある、白髪三千丈、縁愁似箇長 による言い回しを、積もる愁いに伸びた白髪の長さは、三千丈もあるかのように思われる うれいによりてかくのごとくながし この表現を誇張と学習する。約9キロメートルになるのはあり得ない。>ものを実際よりも大きいものとみなすこと 針小棒大 ・ 誇張 ・ 過大評価 ・ 大袈裟 ・ 大風呂敷 トランプ氏の演説を聞いて、オーバーなことと聞けば、それは、大言壮語ということであろう。実力不相応な大きなことを言って、人々が暴言王とあだ名していたのだが、選挙結果は彼にとって現実となった。万里の長城のように壁を築くと言い続けたメキシコ国境は、一部をフェンスにすると、当選後は答えていた。 . . . 本文を読む