これは個別の事情があるかもしれないが、大学教育の変化、全入の時代を迎えて学生気質のことになる。しかしそれは、それまでの学校教育とリンクしているので、大学が変質しているわけではない、と、少なくとも、偏った見方を避けなければならない。大学で学ぶということを資質として問わなければならない、入学試験による選抜が一方で働いていた時代と、その選抜制度によるところであるかどうか、学ぶ意欲と将来する社会に適応のこととなる。なかなかその現象を説明することが難しい。かつて文化の立ち行きに伝統を否定するサブカルチャーに合わせてささやかれた、そのうちに価値観を共にすることのない新世代による文化、時にはおたくによるものといった表現が行われてきたが、それを現実に迎える様相である。その表れを学校教育の現場で認め、すぎてきた、その様相がこれで、常態化するようにある突出した現象である。わからないことを、どうなっていくか知りえないことを、こうして考えることになる。学習がこれからは、そのパターンを入れて教室に持ち込まれることになる。 . . . 本文を読む
民族の統一を見るなら、民族に離散集合があることになる。民族は本来、それは血縁によって、一つである、それはいまや、血中にあるなにがしかによって、あるいは細胞に顕著である遺伝子によって保たれている。そうなると人類は民族の集合になる。人類は一つというわけである。その民族が分断するものとする現実は起こりうるか、起こしえたか、その例は分断国家というとらえ方で解説がある。民族は分裂しえないのであるという考えに立てば、国家の成立に起こり、その経緯が現れると、民族が分断するように見える。具体例には、中国である。中華民国と中華人民共和国、そして朝鮮半島である。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国がそうである。第二次世界大戦後に、政府を自称し、相手を国家として認めないことを現実にしている。欧州での例に、ドイツ連邦共和国、西ドイツと、ドイツ民主共和国、東ドイツがあった。東西分裂、南北分裂と分断された国家が民族を背景とすると、そこにはどのような分裂、分断の解決策があるか。 . . . 本文を読む