まだし平成時代は終わっていない。平成30年6月現在、それは平成31年であり、残す10か月、2019年、平成31年4月30日の今上天皇退位のことをもって、元号が変わる。平成のデキゴトロジーはそのときを以て語られる。いまにして思えば、日本政治史に激動であった。時代の幕開けには55年体制の大転換があった。それからの政治には政権が移り変わる世相を反映した。その様子は自民党政治の影響の大きさを再認識することとなるが、メディアの政治への鑑賞にもあら割れる。自然災害、取り巻く国際情勢のパラダイムシフト、そして国民が知ることになるね日本国憲法の精神である。1945年、1952年に戦時体制が変わった昭和時代から平成時代に受け継いだものは憲法の条文を国民一人一人がかみしめることであった。平成31年にそれがあきらかになる。 . . . 本文を読む
膠着語と屈折語を対照すれば、語の単位に語と語基、語と接辞のように語構成を見ると分かりよい。語の成立には語基が単独の形式で意味を持つ、語基に接辞がついてまとまった意味を持つ、というように自由形式と結合ⓙ形式を分析することになる。語基となる形式は語の形式で変容するものを、活用変化するもの、屈折変化をするものとして、音素で取り出すことになる。音韻の作業では国語の仮名文字分析についてわかりよくするところがある。しかし国語分析は語の単位に付属するものを、品詞にたてているので、その品詞である、助詞、助動詞についての扱いがある。膠着する現象に見るので、それぞれがいわば、活用の現象、屈折のとらえ方になる。助詞として格助詞の例をあげて説明している、格助辞であるが、その語の成立には文の働きにおいて、動詞と関係することと、その意味分析などをすることになる。説明によく用いる、場所の名詞に、学校 をあげ、学校へ 学校に 学校で、学校を とすると、それぞれが、行く という動詞に関係するか、しないか、、学校へ行く 学校に行く *学校で行く *学校を行く 学校で学ぶ 学校を卒業する という用例がすぐにも区別される。山に登る 山を登る 山で登る 山へ登る という使い分けをとらえて、膠着現象を意味において明らかにすることがある。 . . . 本文を読む
木瓜日記ならぬ、暈け、呆け、惚け、にあるのは、気のことか。しかし、呆ける、暈ける、惚ける、とあるから、このルは、靡きになるから、さきに語があったか。呆け、呆気、あっけ、とも見えて、気の状態がある。関連語をあわせて調べる 記憶障害 判断力
症状 低下 老化 時差 漫才 など、連想語がある。あほ呆けなす、とぼける、ピンボケというふうに、困ったことが起こる。 . . . 本文を読む
日本語論3月1884 には、読み切り連載に、日本の対外言語戦略を考える 鈴木孝夫 がある。鈴木氏の持論である国際語としての日本語のありようである。国連の公用語になるか、ならないか、なぜなれないか、という議論を追っていくことになるが、その対外戦略の基本に置くのが英語教育の礼である。鈴木氏の言語政策についての議論から、これまで多くを得るが、ついては日本語そのものをなんとするか、その歴史的なとらえ方にありながら、言語そのものに迫るところがない。かつて人口比で日本語の地位を言い、経済規模において国際競争力における日本語を見直し、日本語が民族固有の言語であるとしながらも、言語数、民族数に対する各地域の言語を対応させたところで、1民族1言語国家の歴史を強調するあまりに、民族主義的な美亜方への理解もあったので、鈴木氏の持論は国家と言語、民族と方言のありさまを見せるだけであった。日本語をとらえた考え方が見えてこないので、いつも、そこには国際化する日本語の教育が必要であると思わざるを得なかったのである。 . . . 本文を読む
形態文法の形態には意味がある、形式と意味の関係であるから、言語記号の考え方の基本となるもの、前提である。自由形式、結合形式のとらえかたにも、自由であるのは意味単位として成立すること、結合するのは、その単位に付属する意味内容となる、文法法則をとらえる形態論と統語論の意味の単位を知らなければ、形態はとらえられない。意味の最小形式が語を単位とすると原理原則をもってする、その意味が言語現象には意味の反映としてあるものであるから、その言語を用いる地域、ひとびと、その集団が持つものは歴史としての言語である。形式に分割する単語は共有される意義そのものであるから、その用法に規則性があるのである。 . . . 本文を読む
学習文法を学習ステップにある学習項目と捉えていくと、新しい文法事項にステップアップするとすれば、それは学習段階と教授法にかあくぁってくる。文法翻訳法の教材はその課に提出される教科書本文の文章によっているので、その学習文法項目がその提出順序に従うことになる。書き言葉の文法は読解、翻訳のために文法項目が並べられることになる。日本語教育文法は、書き言葉としてその学習段階を示すものはほとんどない。日本学で日本語古典文学に取り組む欧州での、その伝統のアカデミーでは初級相当にある教材が何かによって決まってくるだろう。それに対して、宣教師の教材と日本語学習、日本語の手引きをする会話書では、それが戦時における敵対言語の習得という命令によって、話し言葉の習得が工夫されて、そのときに採用された言語学の流行で、構造主義の学説を入れたものとなって、文法習得にも段階が設けられた。 . . . 本文を読む
しろん・じろん 第5回は、あいさつのことば で、なさい ください を話題にする。挨拶の言葉はどのように議論しても解決がつかないが、それはあいさつだからである。コラムの筆者は著名な国語学者、辞書の編集主幹であり、助動詞の相互承接の博士論文をものした方である。ごめんなさい ごめんください について免ずというときのシテを考えて、挨拶の微妙なところを説明する。東京方言で、ごめんなさい と言う、謝る語を目上に使ってはならないなどの注意が出てくるゆえんでもあるが、そこまでは堅苦しくおっしゃってはいない。しなさい 命令を、誰が誰に言うのかようなことである。さて、いらっしゃい いらっしゃいませ いらっしゃいました と、ようこそを結び付けた言い方を説明しているが、いらっしゃい そのものの意味が、くる 来店と限定されるかどうかが、この一文ではわからない。行く 来る 居る の尊敬語であるとしたら、入らせる の語から、どれをも場面に応じてその意味内容を持つ。ようこそ いらっしゃいました と使って違和感があると説明していらっしゃるのはなぜか。 . . . 本文を読む
日本語学習に文法を教えるか、英語学習に文法を学んできたわたしたちには、中国語学習、韓国語学習にそれぞれ文法を学ぶことをするようである。それはごく普通のこととしているから、語学に文法習得を必須と考える。それは当然であるとして、その文法のとらえ方にある。外国語としての英語、中国語、韓国語にそれぞれ文法習得のための科目がある、ということになって、英語文法、中国語文法、韓国語文法という言い方が行われる。いずれにもその言語による文法現象が目標言語による解説とはならない。教科目であるから、その文法が話し言葉のものであるか書き言葉のものであるか、本来の作文法とはなるかならないか、文章読解に役立つか、その習得で効果とするものは何か。ここで外国語としての言語習得の段階に応じた文法力は、目標とする言語の運用にあると考えれば、文法説明能力には求められない。言い換えると、日本語学習に日本語文法を科目建てして教えることはないので、学習者は日本語を話すことで、コミュニケーションを実現できる文法の運用を、その学習の結果として持つことになる。 . . . 本文を読む
1994年2月10日伝票が、書店の発行で納入のもの、挟み込んであった。このころは、国立大学の教官になって平成をスタートしていたのだから、わたしにとってのデキゴトロジーはどうであったろう。業績によって見ることになるが、人と会う、人に会う、その論を書いている。あるいは日本語会話集、ポルトガルローマ字綴り付きのパンフレットを私家版でだしている。そう思って、この前後を振り返るとなにかと、手広くやろうとしていた時代である。わたしが人に会う時代であったのだろう。日本語論3月号のコラムに、字書の言葉、問題なのは<と>と<に>、というタイトルの一文があった。偶然出会ったことを、偶然であったと、ページを繰る。コラム著者のジャーナリストと、アルゼンチン出身作家の日本語談議に及び、と会う に会う の違いを書いている。ちょうど出版された学研の国語辞典にその解説が載って画期的だとしている。語の用法であれば語用論になるから意味解釈もそうであるが、日本語にこのような言い分け方があることを、説明することがなかったというものである。これには困ったことで、説明する必要なく、人々は言葉を習得していたのであるが、それを現代語の意味用法として明らかにすることが行われて、まことしやかになってきたのであった。 . . . 本文を読む