天保4年(1833)、藩主となって初めての水戸入りのとき、光圀が作ったという、現・ひたちなか市にある夤賓閣(いひんかく)で昼食をとり、船で那珂川から涸沼川(ひぬまがわ)へはいって、涸沼へさかのぼったそうです。その際、3艘の船に歌と詩に長じた家臣が分乗して清遊を楽しんだそうです。そのとき詠まれた詩歌は「文波摛藻」という1巻にまとめられたそうです。すぐに辣腕(らつわん)をふるって藩政改革をしたということではないようです。写真は夤賓閣跡(ひたちなか市湊中央1-1)の碑です。
天保4年(1833)に成沢村へいったときに、庄屋の持参した土産物が、江戸・八百善まがいの贅沢品だったそうです。それを見た斉昭は、「郷村を 江戸の奢(おごり)に なるさはの これも世間の 兵左衛門なり」(成沢と「なる」、兵左衛門と「弊」をかけているのでしょう)という狂歌を詠んで、庄屋・兵左衛門に閉戸を申しつけたそうです。庄屋はたまったものではなかったことでしょうが。
水戸藩の財政改革を目指した斉昭は、自身も倹約につとめたようで、ふだんは絹ではなく、黒もめんの着物に桟留(さんとめ)の袴(はかま)、羽織は粗布といったものを着て、江戸城へ登城するときも華美なものを用いず、黒塗りの印籠に朱で戸の字を3つ描いたものを下げていたそうです。ただし、刀は正宗の大小だったそうです。
要石(かなめいし)の歌(行く末も 踏みな違(たが)へそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける 日本にとって大和の道は要であるから将来も踏み違えないように)を作ったときに、それを広く知らせたいということと、謡曲や狂言を教訓的なものにしたいという意図とからなのか、要石という謡曲や、田楽と狂言を作っているそうです。
城内の空き地に陸稲を育てたとき、スズメ除けにと斉昭は鳴子(なるこ スズメおどし)を8個のつくって、「我が庭のおかぶは く(食)はじ村雀 風になるこの 音の絶へねば」と、片面に上の句を、裏に下の句を書いて田につるしたそうです。この鳴子は今も残っているように「水戸秘譚」に書かれています。