ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸のハート(11)

2024-01-26 21:40:02 | 水戸

エサキモンキツノカメムシ(茨城大学園祭 文京2-1-1)
 去年の茨大(いばだい)茨苑祭(しえんさい)で展示されていたカメムシの背に、ハートがありました。江崎-紋黄-角亀虫と書くようですが、江崎は学名記載者・江崎悌三の名字、紋黄は背中の紋が黄色、角亀虫は両肩の外側に突き出た角があるカメムシということのようです。背中の紋がハートのように見えます。

 

庭飾り?(大工町)
 庭にハート形の飾り石のようなものが埋められていました。こうした庭の装飾品も売られているのでしょう。となりにあるレンガのマンホール囲いは瓢箪に見えました。私のような飲み助には、お酒♡と見えてしまいますが…。

 

サンタクロース(カフェリン 泉町2-2-37)
 行ったときがクリスマスの頃だったので飾られていたのでしょう、店内にある机の上に、小さなサンタクロースがいました。両手にはそれぞれ、星とハートがさげられていました。

 

水戸駅前旅館地図(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 かつて、水戸駅北口にあった、たくさんの旅館を案内する地図のようです。昭和12年に行われた、穀物改良協会通常総会開催時に配られたチラシのようです。かつてののんびりした時代には、汽車を利用するために宿を利用する必要があったのでしょう。旅館名の表示枠には、サクラやウメ、扇などと共にトランプ模様が使われたようで、その中にハートもありました。水戸市民会館に展示されていました。

 

水戸芸術館会議場前庭(五軒町 1-6-8)
 水戸市民会館開館記念事業として芸術館前に、水戸市植物公園が関係したように思われる、植栽プランターが置かれていました。その中に、イヌツゲのハートがありました。

水戸のハート(10)

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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(18)

2024-01-25 21:03:37 | 水戸

 天保4年(1833)に湊御殿夤賓閣(いひんかく ひたちなか市湊中央1-1 現・湊公園)で斉昭が開いた茶会では、香合(こうごう お香を入れる容器)にはハマグリの貝殻、茶筒にはカキの殻、茶碗には日用で素焼きに近い台町焼き、釜には唐銅(からかね  銅を主体にした、錫・鉛の合金)のやかんが使われたそうです。茶室・何陋庵待合にある茶対という額にある、「其(そ)の器や蔬(そ 粗末)にして清し」、「よく楽しんで奢(おご)らざる」を実践したのでしょう。上は夤賓閣跡を平成24年に撮った写真です。

 

 天保9年(1838)に郡(こおり)奉行から斉昭に新米が献上されたそうです。斉昭はまだ米を炊いたことがなかったそうで、正室・吉子も誘って、といで炊いたそうですがよくできたそうです。自分のような者がといでも粉のようにならなかったので実入りもよかったのだろうと郡奉行への手紙に書いているそうです。この天保9年は凶作の年だったそうです。

 

 「虎之助(藤田東湖)は全く才子故(ゆえ)、当座働かせ候ため用い候人にて、我等万年の後は、要路にさしおくまじき人物也」(藤田東湖は才能があるので、当面取り立てた人で、私が将来までも、重要な地位におくべきではない人物である)というのが、天保14年(1843)頃の斉昭の藤田東湖に対する考え方だったそうです。嫁選びでもあったように、斉昭は基本的には家柄を重視していて、改革派と門閥派のバランスをとって、改革派の東湖に対して選んだ門閥派の結城寅寿(朝道)への信頼が大きかったようです。でもその後、寅寿は粛清され、東湖は最側近として斉昭のなくてはならなない存在になっていったようです。写真は清巌寺(元吉田町3240)にある寅寿(朝道)の写真です。

 

 安政7年(1860)3月3日の深夜になって、江戸からの急使で桜田門外の変の報が斉昭にもたらされたそうです。斉昭はすぐに正室・吉子の寝所にはいって人払いしたそうです。東湖亡き後の斉昭にとって、一番の相談相手は吉子だったのでしょうか。斉昭はその5か月後、改元した万延1年(1860)8月に死去したそうです。吉子という人は、斉昭の考え方を了解していて、長子で藩主になった優柔不断な息子・慶篤の後見役をしたり、諸生派との弘道館での戦では「大将」役をこなしたりもしたそうです。上は、映画「桜田門外ノ変」で水戸に作られた桜田門を、その後オープンセットにして公開した頃の写真です。

 

 「その始めは釈迦といえる異国人あり。その生れし国は天竺(てんじく)といいて、いとはるかなるえびす(未開の国)故、その国の人みな欲心深くして禽獣(きんじゅう けもの)にひとし。釈迦これを嘆いていろいろさまざまの偽り事を作り出し、よき事をすれば極楽へ行き、悪しき事をすれば地獄に落るなど欺(あざむ)いて人をよき道に入れんとせしなれば、釈迦はさすが其(その)国にてはすぐれたる男にて、禽獣にひとしき人を導くには相応の教(おしえ)ともいうべし。」ということを「武家女誡(景山女誡)」で、神道派の斉昭は書いているそうです。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(17)

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水戸の火鉢(1)

2024-01-24 21:10:00 | 水戸

 火鉢はほとんど姿を消した暖房具のようですが、囲炉裏などと同じように、昔を楽しむアイテムの一つとして、これからもわずかでしょうが生き残っていくのでしょう。周囲が木材の角火鉢もありますが、町でよく見るのは陶製の丸火鉢のようです。

 

弘道館玄関(三の丸1-6-29)
 これが一番水戸で知られた火鉢でしょう。3本の獣足が支える、金属製で大型の丸火鉢で、いかにも重そうです。昔からここにあった物かどうかは知りませんが、格式のある広い玄関で、暖を取ったり、手をあぶったりするのにはちょうどよい大きさと風格があるようで、風景になじんでいるように見えます。この奥に、尊攘の掛軸が下がっています。畳縁には、三葉葵が編み込まれているようです。

 

見和図書館(見和2-500-2)
 河和田城跡から出土した、上にある弘道館の火鉢と同じような形で陶製だったのであろう、火鉢の獣足だそうです。表示に15世紀とありますので、徳川時代以前の、江戸氏の時代に使われた物なのでしょう。粘土をこねて焼いた素朴な火鉢ようですが、地元でつくられたのでしょうか。水戸という地方で、江戸時代前と後との生活文化の違いが大きかったらしいことが、写真上下の獣足を比較すると実感できるような気がします。見和図書館で見ましたが、大串の水戸市埋蔵文化財センター(塩崎町1064-1)に保存されているようです。

 

二の丸展示館(三の丸2-6-8)
 瓦質(がしつ)土器は、12~13世紀頃から生産が始まった、瓦のような質感を持った、表面に炭素が吸着した灰白色や灰黒色をした土器だそうです。写真の火鉢にはうわ薬がかかっていて、花の模様も描かれていますが、地元でつくられたようです。日新塾(成沢町)で出土した火鉢の破片だそうです。瓦質土器は、ほかに甕(かめ)や花瓶などの大型のものが多かったそうです。品質はそれ程よくはなかったことでしょう。

 

常磐町
 ストーブやエアコンが普及して、本来の用を終えた火鉢は、金魚鉢や水生植物の植木鉢などとして使われたようです。最近はその役目も終わってきたようで、逆さにおかれて台になるという第三の人生に入っている火鉢もあるようです。

 

定善寺(じょうぜんじ 酒門町363)
 広い寺の本堂で行われる冬の法事は寒いので、昔はたくさんの火鉢が使われていたことでしょう。上の写真を見ると、お寺だけになかなか見ごたえのある火鉢が使われていたようです。中に大きな徳利?が入っていて、境内観音堂脇に置かれていました。宝蔵寺(谷田町633)でも以前、たくさんの火鉢が見られました。

 

幸月庵(石川3-4140-3)
 蕎麦店でこんな火鉢を以前見かけました。茶席なども想定して置かれたのでしょうか。いかにもしゃれた火鉢でしたが、残念ながら店は閉じられてしまったようです。

水戸の炭(1)

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水戸の小正月行事

2024-01-23 21:35:06 | 水戸

 水戸では1月14,15日を小正月とか裏正月といって、いろいろな行事がおこなわれたようです。旧暦ではこの日あたりが満月で、古い暦ではそれを新年の初日としたので、その名残だろうといわれているようです。特に農業に関する行事が多いようです。ほとんどは姿を消してしまっている行事なのでしょう。

 

繭玉
 14日に、今年初めてつく「若餅」を枝にさして、柱や臼に飾って養蚕や米などの豊作を祈ったそうです。枝にさす餅には、紅白、三角、四角、賽の目、十二支の動物などいろいろあったそうです。若もちを丸めて両耳に当て、「いい耳きけ」と称えてからそれを食べて、耳がよく聞こえることを願ったりもしたそうです(柳河の今と昔)。写真は街角(居酒屋・味里(末広町3-2-4))で見た正月飾りの中に見える繭玉です。(令和3/1/16撮影)

 

削り下
 14日 削り掛けともいって、木の枝をごく薄く削り、菊の花や房のようにしたものだそうで、豊作を願い、戸口、神棚に供えたそうです。「(1月)20日の風に当てぬように取り去る」と江戸時代の歳時記にあるそうです。明治の本には、20日に繭玉の枝を取り去ったあとに削り掛けを飾るとありますので、その頃にはすでに飾る日にちが変わっていたようです。

 

ワーホイ(どんどんや(大塚の民俗))
 15日 火や煙に乗って年神が帰るように、正月の飾り物を燃やすそうです(内原町史)。「今夜はどこの鳥追いじゃ 鎌倉殿の鳥追いじゃ ワーホイ ワーホイ」と囃して焼くそうですが、投げ入れた書き初めが高く上がると書がうまくなるとか、この火で餅を焼いて食べると病気にならないなどといわれているようです。藁、茄子、菊、豆殻などを一緒に焚く地区も多くあるようです。鎌倉殿は北条高時で、鳥(取り)は「年貢取り」のことで、役人を追い払うという裏の意味があったともあります(国田史)。写真は平成30年1月14日に撮った根本町のワーホイです。今年行われたかどうかは未確認です。

 

粟穂稗穂(あわほひえひ)
 15日 赤尾関では、ノデッポウ(ヌルデ)の木に刻みを入れて粟や稗の形に削ったものを、細い割竹に通しておかま様(かまど神)に供え、粟や稗の豊作を祈願したそうです(内原町史)。

 

小豆粥
 15日  前日についた若餅(鏡開きした餅を入れる地区もあるようです)を小豆粥に入れて食べるそうです。残った粥やその片付けの水を家のまわりにまくと蛇が来ないといわれたそうです。

 

柿責め
 15日 成る木責めともいわれるそうです。1人が柿の木に登り、もう1人が鉈(なた)などで幹に傷をつけ、「なるか ならぬか」というと、木の上の人が「なります なります」と返答したそうです(内原町史 出兵沢)。傷つけた柿の木に小豆粥を塗った地区もあったようです(内原町史 赤尾関)。

水戸の旧暦6月に行われる年中行事
水戸のお盆行事
水戸の旧暦9月に行われる年中行事
水戸の12月に行われる正月準備行事

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水戸の鬼瓦(8)

2024-01-22 21:15:15 | 水戸

 よく見ると、宝蔵寺(谷田町633)の屋根には、上の写真のようにいろいろなところに鬼飾り(鬼瓦)が見られます。宝蔵寺は、真言宗豊山派の寺だそうですが、もとは文明2年(1470)に賢禅が開基である法界寺といって、細谷にあったそうです。天和3年(1683)に徳川光圀が今の地に移転させたそうで、その時に仏国山文殊院宝蔵寺となったそうです。昭和20年の戦災で焼けたそうですが、みごとに復興し、真言宗別格本山としての風格を取りもどしているようです。境内には樹齢400年のケヤキがあります。

 

①鬼瓦(大鬼、主棟鬼飾りともいうようです)
 これは屋根のてっぺんにある、いわゆる鬼瓦です。本堂両側にある鬼瓦は、それぞれ阿吽(あうん)の姿になっているようです。

 

②隅棟(すみむね)鬼飾り(一の鬼ともいうようです)
 どの鬼も同じ顔つきのようです。鬼の頭の上に出ている丸い棒状のものは、鳥衾(とりぶすま)という飾りのようです。鳥衾は、雀瓦ともいうようです。

 

③稚児棟(ちごむね)鬼飾り(二の鬼)
 隅棟の少し上にある、稚児棟の先端の小さめな鬼飾り(一番上の写真③)のようですが、宝蔵寺では、そこに鬼面がついていないようでした。

 

④降り棟(くだりむね)鬼飾り
 大棟(屋根のてっぺん)からおりてくる降り棟の先についた鬼飾りです。正面から見ると目立って見えます。

 

⑤唐破風(からはふ)鬼
 本堂正面にある向拝が装飾的な唐破風になっていて、その上に鬼飾りがあります。

 

⑥山門脇塀の鬼飾り
 山門の屋根にも、本堂同様の鬼瓦がありました。門に連なる塀の隅にもすぐ上の写真のような、ほかとは違う顔つきをした鬼瓦⑥がありました。

水戸の鬼瓦(7)

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