私の持つ かっこいい の価値観の基準は、昭和の価値観しかない。
最近のテレビでみる肩幅の無い ひよっ とした茶髪の長髪の若い人に、酔いしれるには自分自身、年をとりすぎている。
これは、いいとか悪いとか、そういうことを言いたいのではなく、そういうものなのである。
価値観は ファッション、生活スタイル、家族構成、投資スタンス、それに、消費動向や、あるいは、シティープラン、それに、行動範囲など、さまざまに影響するので、おろそかにはできない。
だから、そういう新しい価値観が現れると、私はアンテナを張っておき、それに乗り遅れまいと考えていたが、しかし、日本を遠くはなれ、いつの間にかそういうものに取り残されてしまったようだ。
その取り残された自分がいうのも おこがましいが、日本人、特に若い人は、勉強をしなくなってきているのではないか?と思うことがある。
明治の始まりのころの、大学生は、今の大学生よりも、英語も出来ただろうし、漢文の素養もあっただろう。
昭和の戦後の大学生だって、ずいぶん 本を読んでいたし、学生闘争になったのも、彼らが、様々な思想に影響されたためで、逆に言えばよく勉強して、そして議論をしていたとも言える。
日本の今があるのは、戦後の昭和の世代が築いたからで、平成の若者・・・今の20歳くらいの人たちは、まだ今のところ、それに乗っかっているに過ぎない。
その、平成の若者たちが もし 無気力で、怠惰で、しかも勉強もせず、できれば運で いい生活をして、適当に過ごして人生を暇つぶしのような時間のつながりにしてしまおうと思っていたなら・・・もし、そんな風に 仮に、思っていたならば・・・だ、それは、間違いだと思う。
無論、それが価値観で、鍛えるとか 精進するとか、努力とか、汗とか、血の滲むような・・・が、臭いかもしれないが。
しかし 他方、昭和の人間たちにも大きな責任があると思う。
考えてみれば、昭和の人間は あまりにも物に執着が強かった。
よりよい物を持つことで、自分たちのクオリティーが高くなると信じて疑わない分かりやすい価値観が、あった。
それに、故障すると使い捨てするという発想も、昭和の人間の特徴で、故障は、物に限らず、人間にも、会社にも同じように適用された。
やがて、その価値観が定着すると、今度は年をとった自分自身に適用し、故障者リストに自分の名前を書く事が、美学のように、あるいは 老兵は去るのみ、とばかりに、これも いわば無責任に、大量に年金生活者になる道を選んだ。
年をとることは、仕方のないことだ。
しかし、その去り方には、何通りも様々な方法があっていいと思う。自分の人生だから、もっと あがいてもいいし、引退をしないで、頑張ってみることも、あるいは新しい何かに再チャレンジすることも、あり、だと思う。
価値観のなかに、65歳の引退ということを ディレートしてみてはどうだろう?という提案だが、どう思う?
最近のテレビでみる肩幅の無い ひよっ とした茶髪の長髪の若い人に、酔いしれるには自分自身、年をとりすぎている。
これは、いいとか悪いとか、そういうことを言いたいのではなく、そういうものなのである。
価値観は ファッション、生活スタイル、家族構成、投資スタンス、それに、消費動向や、あるいは、シティープラン、それに、行動範囲など、さまざまに影響するので、おろそかにはできない。
だから、そういう新しい価値観が現れると、私はアンテナを張っておき、それに乗り遅れまいと考えていたが、しかし、日本を遠くはなれ、いつの間にかそういうものに取り残されてしまったようだ。
その取り残された自分がいうのも おこがましいが、日本人、特に若い人は、勉強をしなくなってきているのではないか?と思うことがある。
明治の始まりのころの、大学生は、今の大学生よりも、英語も出来ただろうし、漢文の素養もあっただろう。
昭和の戦後の大学生だって、ずいぶん 本を読んでいたし、学生闘争になったのも、彼らが、様々な思想に影響されたためで、逆に言えばよく勉強して、そして議論をしていたとも言える。
日本の今があるのは、戦後の昭和の世代が築いたからで、平成の若者・・・今の20歳くらいの人たちは、まだ今のところ、それに乗っかっているに過ぎない。
その、平成の若者たちが もし 無気力で、怠惰で、しかも勉強もせず、できれば運で いい生活をして、適当に過ごして人生を暇つぶしのような時間のつながりにしてしまおうと思っていたなら・・・もし、そんな風に 仮に、思っていたならば・・・だ、それは、間違いだと思う。
無論、それが価値観で、鍛えるとか 精進するとか、努力とか、汗とか、血の滲むような・・・が、臭いかもしれないが。
しかし 他方、昭和の人間たちにも大きな責任があると思う。
考えてみれば、昭和の人間は あまりにも物に執着が強かった。
よりよい物を持つことで、自分たちのクオリティーが高くなると信じて疑わない分かりやすい価値観が、あった。
それに、故障すると使い捨てするという発想も、昭和の人間の特徴で、故障は、物に限らず、人間にも、会社にも同じように適用された。
やがて、その価値観が定着すると、今度は年をとった自分自身に適用し、故障者リストに自分の名前を書く事が、美学のように、あるいは 老兵は去るのみ、とばかりに、これも いわば無責任に、大量に年金生活者になる道を選んだ。
年をとることは、仕方のないことだ。
しかし、その去り方には、何通りも様々な方法があっていいと思う。自分の人生だから、もっと あがいてもいいし、引退をしないで、頑張ってみることも、あるいは新しい何かに再チャレンジすることも、あり、だと思う。
価値観のなかに、65歳の引退ということを ディレートしてみてはどうだろう?という提案だが、どう思う?