私の理解なので、あなたと同じ意見ではないかもしれない。
私は はじめからあなたが 私と同じ意見であることを もちろん 期待していないし 同じ意見であってほしいとも思わない。
違うことが前提で あっていい。
なぜなら、私たちは別々の人間で 別々の環境で 別々の体験を経て 生きてきたからである。
だから、当然、私とあなたは 違う。
それは 健全なことなんだ。
だから、私の意見を見て、違和感を感じたとしても、それを攻撃しようとは思わないで欲しい
ああこういう人もいるのか で、スルーしてくれれば それでいい。
私は自分のブログで、「私なりに こう思う」 ということを書いているだけに過ぎない。
フリーメーソンでは、その国の国家元首と 国旗を リスペクトすることを基本にしている。
日本のロッジであれば、その中には必ず日本の国旗がある。
(ちなみに東京のメソニックセンターには、アメリカの国旗もある。これは歴史的にそうなったためであろう。例えば、マッカーサーが始めて会談を行った部屋なども、当時のまま、まったく同じように保管してある。日本が敗戦をした歴史のなかで、こういう形が取られたのは、要するに戦争に負けたからである。
悲劇であると考える人もいれば、それは歴史の必然で勝者が敗者を裁くことは、当然の成り行きだと言う人もいるだろうし、日本人は とても複雑な心を持ちながら、過去 昭和 平成の時代を 生きてきたわけである)
私の場合は、すでにオーストラリアにおり、そういう歴史的な傷を見ることなく、気がついたらメーソンになっていた。
オーストラリアでは国の元首は クィーン エリザベスになるので、必ず食事の前には、クィーンに乾杯を捧げることになっている。ゴッド セーヴ ザ クィーンを歌うこともあるし、その後は、オーストラリアの国歌を歌うということもある。
が、それを儀礼的に行うことは、当然であるとして行う。
しかし この国でもそれを行わない人はたくさんいる。
しかし、そのために法的処置がとられたとは 私は寡聞にして聞いたことがない。
私にはユダヤ人の仲の良い友人もいるが、彼は、言いたい放題を言う男である。
乾杯のときに、「クィーン カミューラ」とわざわざ言って皮肉っていた。カミューラとは皇太子 チャーリーの後妻のことである。もちろん、ブラックジョークに属するものだが、イギリス王室へのリスペクトというのは、オーストラリア人にとって、半々に分かれるところもあって、特に若い世代では、あまり モナーキストは多いとは言えない。
エリザベス女王はカミューラを手に入れたから、もう馬を飼う必要はないな。と言っている別の友人もいた。
たしかに彼女は多少 馬面ではあるけれど、女性の醜美をあまり言うことは ジェントルマンとしては あるまじき行為かもしれない。
王室や皇室などがあることだけでも、人間の平等という思想から言えば、とんでもないことなんだろうが、私は平等というのは思想の中だけに存在するものであって、観念を離れて、現実にはありえないと言ってきたし 今もそう言い続けている。 何度も味わい、苦しんできた自分自身の体験を経て、そう信じているので、これはそうやすやすと変わりそうもない。もちろん、平等が 本当に できるならそれに越したことはないとは思っている。
日本の教師が、まあ言うなれば、国から給料をもらっている人間が、国歌を歌わない 国旗に敬意を払わない。ならば クビ。という大阪の橋本知事の決定をみて、なるほど、日本はそこまで ゆがんでいるのかと 思った。
私はイギリスの、王室に、個人的にはあまり、深入りしたいとは思わないが、それでも乾杯もするし 国歌も歌う。
日本の皇族に対しては より別の見方を持っている。
歴史的な評価はもちろんのこと、西洋の豪華な金襴の生活に比べて、日本の皇族のつつましい姿に胸を打たれる。
被災地に 老齢を押して行かれた天皇皇后のお姿に、もちろん感動を覚えた一人である。
さらに個人的なことを言えば、自分の血の中にも、幾分かの桓武天皇の血が入っていることを 誇りに思う気持ちもある。
だが、それらを全部 差し引いても、もちろん、君が代も 国旗に対しても敬意を払ったであろう。
それは、私が皇室を尊敬しているということとは 全く別の次元で、日本を愛する 国を愛する あるいは、そこに自分のアイデンティティーを持ち続けるという意味において、日本人にとっては貴重な体験である国歌を共に歌うことへの特別な感情に、浸りたいがためでもあるだろう。
もちろん、オーストラリアの国歌を歌う自分は、そのときはオーストラリア人として、自分の新しい生き方をそこに見出したがためである。これは、これで 間違ってはいないはずだ。
人は、流浪し、やがてそこで新しい価値観を身に着けて、そこから、また新たな萌芽をするものだ。
私の考え方は、もしかしたら、日本にずっと住んでいる人とは 異なるかもしれない。
もちろん、意見はある。
様々な問題点や、ひとつづつの疑問点を言い出せば、キリはない。
たとえば・・・
オーストラリアの捕鯨活動はどうだ。彼らの行う 人種差別はどうだ。日本でいえば 隠蔽体質はどうだ。日本の在日問題はどうだ。などなど、多くの矛盾と疑問と問題を言い出せば、それぞれに多くの問題が含まれており そのどれひとつをとっても、一晩中語ったところで、解決などしない。
しかし、人間というのは、一生たくさんの矛盾や解決などできそうもない問題を 抱えて生まれ、そして死んでいくものなのである。生まれる場所は 選べないが、死ぬ場所はある程度決められると 言ったところだろうか。
多くの私の在日韓国人の友人たちは、君が代を歌い、そして日本の国旗掲揚をリスペクトしている。
彼らは、もちろん、韓国の二世三世であることを誇りに思っているが、同時に 日本にうまれた在日(新たな日本人として)の誇りも持っている。いわば、二つの誇りを持っているのである。この心情は オーストラリアの国旗掲揚で立ち、そこでオーストラリアの国歌を歌う私にとっても、似たものがあると思う。
状況が、そうさせたことは、本人の力では抗らうことはできなかったのだけれど、それを 居心地の良いものにするためには、自分の中でたくさんの複雑な要素を消化し、抗うことなく なるべく ナチュラルに体現していくしか 気楽に できれば やや幸せに 暮らす方法はないのである。
私がフリーメーソンの、メーソンリーであることは、こういう複雑な心情をすべてはじめから、解決できないものとして、受け入れて そのうえで、自分自身にそれを受け入れるだけの器量があるかどうかを 試しながら行き続けるということなのである。
フリーメーソンほど、歴史上 長い団体も少ないだろうし、これほど 力を持った団体も少ないことは知っている。
親睦であろうと、友愛であろうと、所詮 それは人間の集まりであり、そして 人間だから様々な意見と 理由付けを持ち込んでくる。
もちろん、自分の利益になることを 何らかの形で 望んでいるのは間違いないだろう。
それは スプリチュアルな欲求であるかもしれないし、コネクションを作るためかもしれないし、あるいは、コミュニティーに関わりを持ちたいからかもしれないし、自分を守りたいからかもしれないし、それこそ、人それぞれだ。
私自身でいうならば、オーストラリアで25年住んでいる中で、人生の半分以上をすでにこの国で過ごしているわけで、それならば、その国・・・白人社会で 堂々と日本人として生きていく自分を見つけたかったという気持ちがあったからだといえば 理解してもらえるだろうか。
私は、そう思い、そしてそれを ある程度まで為し得たと 思っている。
少なくとも、オーストラリア人のメーソンの多くでさえ 経験のできない あるいは途中であきらめてしまう メーソン内の地位にまで 登ることができた。
運と努力と、そして出会い それらが運命というなら、それはきっと そういうものであったろう。
オーストラリア人たちのなかには、私を見て不思議に思う人たちもいる。
「一体 この日本人の ヘソはどこについているんだ?」とでも言うように 私に、話しかけてくる。
オーストラリアから出たこともない彼らに、理解できるわけがない。
私は 地球の上に生きている。
私は はじめからあなたが 私と同じ意見であることを もちろん 期待していないし 同じ意見であってほしいとも思わない。
違うことが前提で あっていい。
なぜなら、私たちは別々の人間で 別々の環境で 別々の体験を経て 生きてきたからである。
だから、当然、私とあなたは 違う。
それは 健全なことなんだ。
だから、私の意見を見て、違和感を感じたとしても、それを攻撃しようとは思わないで欲しい
ああこういう人もいるのか で、スルーしてくれれば それでいい。
私は自分のブログで、「私なりに こう思う」 ということを書いているだけに過ぎない。
フリーメーソンでは、その国の国家元首と 国旗を リスペクトすることを基本にしている。
日本のロッジであれば、その中には必ず日本の国旗がある。
(ちなみに東京のメソニックセンターには、アメリカの国旗もある。これは歴史的にそうなったためであろう。例えば、マッカーサーが始めて会談を行った部屋なども、当時のまま、まったく同じように保管してある。日本が敗戦をした歴史のなかで、こういう形が取られたのは、要するに戦争に負けたからである。
悲劇であると考える人もいれば、それは歴史の必然で勝者が敗者を裁くことは、当然の成り行きだと言う人もいるだろうし、日本人は とても複雑な心を持ちながら、過去 昭和 平成の時代を 生きてきたわけである)
私の場合は、すでにオーストラリアにおり、そういう歴史的な傷を見ることなく、気がついたらメーソンになっていた。
オーストラリアでは国の元首は クィーン エリザベスになるので、必ず食事の前には、クィーンに乾杯を捧げることになっている。ゴッド セーヴ ザ クィーンを歌うこともあるし、その後は、オーストラリアの国歌を歌うということもある。
が、それを儀礼的に行うことは、当然であるとして行う。
しかし この国でもそれを行わない人はたくさんいる。
しかし、そのために法的処置がとられたとは 私は寡聞にして聞いたことがない。
私にはユダヤ人の仲の良い友人もいるが、彼は、言いたい放題を言う男である。
乾杯のときに、「クィーン カミューラ」とわざわざ言って皮肉っていた。カミューラとは皇太子 チャーリーの後妻のことである。もちろん、ブラックジョークに属するものだが、イギリス王室へのリスペクトというのは、オーストラリア人にとって、半々に分かれるところもあって、特に若い世代では、あまり モナーキストは多いとは言えない。
エリザベス女王はカミューラを手に入れたから、もう馬を飼う必要はないな。と言っている別の友人もいた。
たしかに彼女は多少 馬面ではあるけれど、女性の醜美をあまり言うことは ジェントルマンとしては あるまじき行為かもしれない。
王室や皇室などがあることだけでも、人間の平等という思想から言えば、とんでもないことなんだろうが、私は平等というのは思想の中だけに存在するものであって、観念を離れて、現実にはありえないと言ってきたし 今もそう言い続けている。 何度も味わい、苦しんできた自分自身の体験を経て、そう信じているので、これはそうやすやすと変わりそうもない。もちろん、平等が 本当に できるならそれに越したことはないとは思っている。
日本の教師が、まあ言うなれば、国から給料をもらっている人間が、国歌を歌わない 国旗に敬意を払わない。ならば クビ。という大阪の橋本知事の決定をみて、なるほど、日本はそこまで ゆがんでいるのかと 思った。
私はイギリスの、王室に、個人的にはあまり、深入りしたいとは思わないが、それでも乾杯もするし 国歌も歌う。
日本の皇族に対しては より別の見方を持っている。
歴史的な評価はもちろんのこと、西洋の豪華な金襴の生活に比べて、日本の皇族のつつましい姿に胸を打たれる。
被災地に 老齢を押して行かれた天皇皇后のお姿に、もちろん感動を覚えた一人である。
さらに個人的なことを言えば、自分の血の中にも、幾分かの桓武天皇の血が入っていることを 誇りに思う気持ちもある。
だが、それらを全部 差し引いても、もちろん、君が代も 国旗に対しても敬意を払ったであろう。
それは、私が皇室を尊敬しているということとは 全く別の次元で、日本を愛する 国を愛する あるいは、そこに自分のアイデンティティーを持ち続けるという意味において、日本人にとっては貴重な体験である国歌を共に歌うことへの特別な感情に、浸りたいがためでもあるだろう。
もちろん、オーストラリアの国歌を歌う自分は、そのときはオーストラリア人として、自分の新しい生き方をそこに見出したがためである。これは、これで 間違ってはいないはずだ。
人は、流浪し、やがてそこで新しい価値観を身に着けて、そこから、また新たな萌芽をするものだ。
私の考え方は、もしかしたら、日本にずっと住んでいる人とは 異なるかもしれない。
もちろん、意見はある。
様々な問題点や、ひとつづつの疑問点を言い出せば、キリはない。
たとえば・・・
オーストラリアの捕鯨活動はどうだ。彼らの行う 人種差別はどうだ。日本でいえば 隠蔽体質はどうだ。日本の在日問題はどうだ。などなど、多くの矛盾と疑問と問題を言い出せば、それぞれに多くの問題が含まれており そのどれひとつをとっても、一晩中語ったところで、解決などしない。
しかし、人間というのは、一生たくさんの矛盾や解決などできそうもない問題を 抱えて生まれ、そして死んでいくものなのである。生まれる場所は 選べないが、死ぬ場所はある程度決められると 言ったところだろうか。
多くの私の在日韓国人の友人たちは、君が代を歌い、そして日本の国旗掲揚をリスペクトしている。
彼らは、もちろん、韓国の二世三世であることを誇りに思っているが、同時に 日本にうまれた在日(新たな日本人として)の誇りも持っている。いわば、二つの誇りを持っているのである。この心情は オーストラリアの国旗掲揚で立ち、そこでオーストラリアの国歌を歌う私にとっても、似たものがあると思う。
状況が、そうさせたことは、本人の力では抗らうことはできなかったのだけれど、それを 居心地の良いものにするためには、自分の中でたくさんの複雑な要素を消化し、抗うことなく なるべく ナチュラルに体現していくしか 気楽に できれば やや幸せに 暮らす方法はないのである。
私がフリーメーソンの、メーソンリーであることは、こういう複雑な心情をすべてはじめから、解決できないものとして、受け入れて そのうえで、自分自身にそれを受け入れるだけの器量があるかどうかを 試しながら行き続けるということなのである。
フリーメーソンほど、歴史上 長い団体も少ないだろうし、これほど 力を持った団体も少ないことは知っている。
親睦であろうと、友愛であろうと、所詮 それは人間の集まりであり、そして 人間だから様々な意見と 理由付けを持ち込んでくる。
もちろん、自分の利益になることを 何らかの形で 望んでいるのは間違いないだろう。
それは スプリチュアルな欲求であるかもしれないし、コネクションを作るためかもしれないし、あるいは、コミュニティーに関わりを持ちたいからかもしれないし、自分を守りたいからかもしれないし、それこそ、人それぞれだ。
私自身でいうならば、オーストラリアで25年住んでいる中で、人生の半分以上をすでにこの国で過ごしているわけで、それならば、その国・・・白人社会で 堂々と日本人として生きていく自分を見つけたかったという気持ちがあったからだといえば 理解してもらえるだろうか。
私は、そう思い、そしてそれを ある程度まで為し得たと 思っている。
少なくとも、オーストラリア人のメーソンの多くでさえ 経験のできない あるいは途中であきらめてしまう メーソン内の地位にまで 登ることができた。
運と努力と、そして出会い それらが運命というなら、それはきっと そういうものであったろう。
オーストラリア人たちのなかには、私を見て不思議に思う人たちもいる。
「一体 この日本人の ヘソはどこについているんだ?」とでも言うように 私に、話しかけてくる。
オーストラリアから出たこともない彼らに、理解できるわけがない。
私は 地球の上に生きている。