岩手にこの雨を運んでいきたい。
土砂降りで、なんとか山火事が
鎮火するように願っている。
懸命の消火にも関わらず、もう人の力を超えて燃え広がっている。
若冲。
スミソニアン博物館所有。
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昨夜の「プロジェクトX」。
サリン事件解決のために警察に協力した
科捜研の研究員たちの姿だった。
本当に忌まわしい事件だった。
各地に山火事が発生。
必死の消火活動が行われているのになかなか
消火できない。山火事の怖さをまざまざと
見せつけられる。
この寒空に避難所暮らしをしている人たちの
不安を考えるといたたまれない。
暗いニュースが多い中でエジプト
ルクソール、ツタンカーメンの墓の
中にさらに何か新たに墓が発見されという。
砂漠のこの国にはまだまだ新しい発見がある。
昔夫とナイル川クルーズをして王家の谷
へも行った。
これからも新しい発見があることだろう。
夢がある。あの頃エジプトと言えば
吉村作治氏であった。
3度目の土肥行きは弟夫婦と。
いろいろあってなかなか行かれなかった
伊東の「小涌園」に泊まった。
大島や箱根と違い普通の宿であった。
「小涌園」巡りは完結。
伊東からタクシーで途中独鈷の湯なども
みながら修善寺へ。
修善寺の前の喫茶店でわたくしは彼らの
荷物の番をしながら待つことにした。
彼らが参拝を終えてい帰ってくるのを待って
食事処でシイタケ三昧の昼食をとり駅に戻った。
そこからはバスで行く予定だったけれど
弟が3人だからタクシーにしようというので
結局土肥までタクシーで。
伊東から土肥まで伊豆半島をタクシーで
横断したことになる。
弟はわたくしより10歳、学年では
9学年若い。
彼はまだ働いていてあまり旅をしていない。
今回は前回の玉樟館の隣にある土肥館
(牧水館)の洋室、和室のある最高の部屋
に2泊した。
やはり牧水ゆかりの旅館で牧水ゆかりの品々が
玄関すぐの部屋に並べられていた。
タクシーで街中見物と金山へも行った。
佐渡と同じように掘られた通路に人形が
置かれていて当時のさまを復元していた。
土肥から清水に渡り、また次郎長の墓の
お寺に行き、近くに次郎長の生家が復元
されたというのでそれを見て帰宅した。
わたくしは同じところに何回も行くことが多い。
弟夫婦と行くときはなるべく自分が観て
これは見せておきたいと思うところを
コースに入れるのでそういう羽目になる。
でも喜んでくれればそれでよい。
2月28日の「この日の思い出」は
土肥。
土肥へは3回行った。
最初は夫と三島から修善寺に入り、
修善寺からバスで土肥に行った。
宿は「るるぶ」でなかなかよさそう
だったので適当に予約した「玉樟園」。
ところが着いてみてびっくり。
なんでも花登こばこという人がこの旅館
に逗留して「細腕繁盛記」という小説を
書きそれが評判になってTVだか映画で
も大当たりした舞台になったという。
この人の著書は読んだこともなかったし
テレビも見たことがなかったので
「ええっ!」だった。
古いけれどよい旅館だった。
タクシーで何度か出入りするたびに並びに
「土肥館・牧水荘」という旅館があるのに
気づいた。あの若山牧水と関りがあるのか。
2回目は高校時代の友人と清水で待ち合わ
せた。
大学生だった頃この辺りを巡り歩いた
記憶が懐かしくて前泊して
大ソテツと大サボテンがあったお寺
(龍華寺)や
次郎長のお墓を観に行ったことなどを
思い出した。
三保の松原、登呂遺跡、それから・・
駅前からタクシーに乗り
「何十年も前に来て名前を忘れたの
ですけれど次郎長のお墓のあるお寺に
行ってください」というと「そんなに
昔だと驚きますよ。とても立派に造り
かえられています」
なるほど。とても立派になっていた。
当時その筋の人たちが次郎長のお墓を
削り取っていくと聞いていたけれど
参拝者が多いのだろう。
翌日清水駅で待ち合わせたら彼は船に
乗りたいという。
最近富士山を各方面から撮るのに
凝っていて土肥まで乗ろうという
ことになった。
土肥からUターンしないで修善寺まで
バスに乗った。
修善寺駅で分かれることにした。
思い出話ももう十分した。
彼はいい写真が取れなかったので
御殿場まで行くという。
彼が電車に乗るのを見送って駅の案内所
で伊豆長岡のなるべく駅に近い落ち着いた
旅館をというと「大観荘」を予約できた。
荷物を預け修善寺までタクシーで行く。
岡本綺堂の「修善寺物語」を思いながら
参詣。綺堂が宿泊してこの戯曲を書いた
旅館は今ものこっている。「新井旅館」
紅葉もここで「金色夜叉」を書いたという。
続く・・