(原文)
人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地の生ずる所なり。生るるも養はるるも、皆天地父母の恩なり。外物を用て、元気の養とする所の飲食などを、かろく用ひて過さざれば、生付たる内の元気を養ひて、いのちながくして天年をたもつ。もし外物の養をおもくし過せば、内の元気、もし外の養にまけて病となる。病おもくして元気つくれば死す。たとへば草木に水と肥との養を過せば、かじけて枯るるがごとし。故に人ただ心の内の楽を求めて、飲食などの外の養をかろくすべし。外の養おもければ、内の元気損ず。
(解説)
「人の元気」は、例えば「こんにちは、お元気ですか?」と言う時の「元気」とは異なります。それは「天地の万物を生ずる気」であり、この元気があるからこそ、人は生きていられるのです。このような思想は古代中国にはすでにあり、『荘子』の知北遊篇には、
「生や死の徒なり。死や生の始めなり、孰か其の紀を知らんや、人の生は、気の聚まるなり、聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」
と、記されています。我々は天地父母から命を授かり、他の生物を食べ、水を飲み、呼吸をして「気の聚め」、その命を保持しています。そして死ぬと身体は分解し、土や空気へと拡散します。そして続けて荘子は言うのです。「万物は一なり」、「天下を通じて一気のみ、聖人は故に一を貴ぶ」と。生も死も、同じものから成り立っているので、荘子にとって、それらは同じものでした。同じだから生を軽んじる、というのではなく、生も死も大事なのです。また、同じ篇に、
「汝の身は、汝の有に非ざるなり、…是れ、天地の委形なり。生は汝の有に非ず、是れ天地の委和なり。性命は汝の有に非ず、是れ天地の委順なり。孫子は汝の有に非ず、是れ天地の委蛻なり」
と、あります。自分の身体、自分の生命も、子供や孫も自分の所有物ではなく、天地・自然からのあずかり物である、と荘子は言うのです。そしてそれらは、あずかり物であるので、自分勝手に自由にして良いものではなく、大切に守り、「天地父母の恩」に報いるために養生すべきであると、益軒は主張しました。
また、飲食など外からの元気を補うことに関して、「かろく用ひて過さざれ」と益軒は言いましたが、これは孔子の言う所の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」とか、老子の「多く蔵すれば、必ず厚く亡う、足ることを知れば辱められず」と言ったことと同じです。『中庸』に「君子は中庸をす、小人は中庸に反す」ともあるように、多過ぎず、少な過ぎず、丁度良い、それが君子の行いには重要なのです。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜず。生じて後は、飲食、衣服、居処の外物の助によりて、元気養はれて命をたもつ。飲食、衣服、居処の類も、亦、天地の生ずる所なり。生るるも養はるるも、皆天地父母の恩なり。外物を用て、元気の養とする所の飲食などを、かろく用ひて過さざれば、生付たる内の元気を養ひて、いのちながくして天年をたもつ。もし外物の養をおもくし過せば、内の元気、もし外の養にまけて病となる。病おもくして元気つくれば死す。たとへば草木に水と肥との養を過せば、かじけて枯るるがごとし。故に人ただ心の内の楽を求めて、飲食などの外の養をかろくすべし。外の養おもければ、内の元気損ず。
(解説)
「人の元気」は、例えば「こんにちは、お元気ですか?」と言う時の「元気」とは異なります。それは「天地の万物を生ずる気」であり、この元気があるからこそ、人は生きていられるのです。このような思想は古代中国にはすでにあり、『荘子』の知北遊篇には、
「生や死の徒なり。死や生の始めなり、孰か其の紀を知らんや、人の生は、気の聚まるなり、聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」
と、記されています。我々は天地父母から命を授かり、他の生物を食べ、水を飲み、呼吸をして「気の聚め」、その命を保持しています。そして死ぬと身体は分解し、土や空気へと拡散します。そして続けて荘子は言うのです。「万物は一なり」、「天下を通じて一気のみ、聖人は故に一を貴ぶ」と。生も死も、同じものから成り立っているので、荘子にとって、それらは同じものでした。同じだから生を軽んじる、というのではなく、生も死も大事なのです。また、同じ篇に、
「汝の身は、汝の有に非ざるなり、…是れ、天地の委形なり。生は汝の有に非ず、是れ天地の委和なり。性命は汝の有に非ず、是れ天地の委順なり。孫子は汝の有に非ず、是れ天地の委蛻なり」
と、あります。自分の身体、自分の生命も、子供や孫も自分の所有物ではなく、天地・自然からのあずかり物である、と荘子は言うのです。そしてそれらは、あずかり物であるので、自分勝手に自由にして良いものではなく、大切に守り、「天地父母の恩」に報いるために養生すべきであると、益軒は主張しました。
また、飲食など外からの元気を補うことに関して、「かろく用ひて過さざれ」と益軒は言いましたが、これは孔子の言う所の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」とか、老子の「多く蔵すれば、必ず厚く亡う、足ることを知れば辱められず」と言ったことと同じです。『中庸』に「君子は中庸をす、小人は中庸に反す」ともあるように、多過ぎず、少な過ぎず、丁度良い、それが君子の行いには重要なのです。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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