(原文)
凡ての人、生れ付たる天年はおほくは長し。天年をみじかく生れ付たる人はまれなり。生れ付て元気さかんにして、身つよき人も、養生の術をしらず、朝夕元気をそこなひ、日夜精力をへらせば、生れ付たる其年をたもたずして、早世する人、世に多し。又、天性は甚、虚弱にして多病なれど、多病なる故に、つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生する人、是又、世にあり。此二つは、世間眼前に多く見る所なれば、うたがふべからず。慾を恣にして身をうしなふは、たとえば刀を以て自害するに同じ。早きとおそきとのかはりはあれど、身を害する事は同じ。
人の命は我にあり、天にあらずと老子いへり。人の命は、もとより天にうけて生れ付たれども、養生よくすれば長し。養生せざれば短かし。然れば長命ならんも、短命ならむも、我心のままなり。身つよく長命に生れ付たる人も、養生の術なければ早世す。虚弱にて短命なるべきと見ゆる人も、保養よくすれば命長し。是皆、人のしわざなれば、天にあらずといへり。もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也。たとへば、火をうづみて炉中に養へば久しくきえず。風吹く所にあらはしおけば、たちまちきゆ。蜜橘をあらはにおけば、としの内をもたもたず、もしふかくかくし、よく養なへば、夏までもつがごとし。
(解説)
人の寿命はあらかじめ決められており、どんなに努力しても変えることはできない、という考えは古来、あらゆる民族に存在しました。この考えは大きく二つに分けられます。それは、法とか理とか天など呼ばれる形や人格をもたない存在が、人の寿命を含めあらゆる森羅万象を決定している、と言うのが一つ、それから、人格を持った単一のまたは複数の神がそれらを決定している、と言うのが一つです。前者からは、全ての現象は運命の結果であり、それらは歴史・時間に含まれているので、季節・時間を規定する天体の運動にこそ運命の力があるという考えが生まれました。そして運命を予見するために、天体の星の動きを観察し、その規則性、法則性を発見しようと、天文学や占星術が発展しました。古代中国には、北斗七星の近くに司命と呼ばれる星があり、これが人間の寿命を司っているとも考えられていました。
例えば『荘子』大宗師篇には、「死生は命なり。其の夜旦の常有るは天なり。人の与るを得ざる所有るは皆物の情なり」とあり、生死と運命、そして天の運行を関連付け一般化しています。
運命論はとても困難な状況に陥った場合に、それを受け入れたり、あきらめたりする時に役に立ちます。それは自分のせいではなく、運命のせいなのだ、と言うような責任の所在を変えることができます。貝原益軒はこの運命論を否定したのです。健康も長生きも、自身が養生法を行ない続けるか否かにかかっているのであり、それゆえ養生しないことは自害することと同じであると言ったのです。
老子は、「営魄に載りて一を抱き、能く離るること無からんか、気を専らにし柔を致めて、能く嬰児たらんか」と言いました。「営魄」の「営」とは営衛の「営」で、肉体に栄養を与えるもの、営気のことであり、「魄」とは魂魄の「魄」で、一人の人間は精神的な面と、肉体的な面に分けられますが、この肉体的な要素のことです。
『荘子』には「衛生の経は、能く一を抱かんか、能く失うことなからんか」とありますが、「一」とは単純な言語では説明できない重要なもののことです。それを「道」と言い換えても、「徳」と言い換えてもあまり意味はないかもしれません。孔子は「吾が道は一を以て之を貫く」と言いましたが、「一」とは何かについて弟子たちに説明しませんでした。
老子は、「能く一を抱」き、そして「人の生まれるや柔弱、其の死するや堅強なり」と言ったように、生命にとって重要な「柔弱」であることに至り、自然な子供のような状態になることに価値を持たせました。列子はこのことを、「其の嬰孩に在るや、気は専らにして志の一なるは、和の至なり」と言ったのです。
顔子とは、孔子の弟子の一人で顔回のことです。孔子が「一を聞きて十を知る」と言ったほど、きわめて優秀であり、孔子の教えを守り、権力や富に関心をもたず、質素でまじめな生活をしていましたが、「而立」の年齢には亡くなりました。益軒は、顔子ほどの君子でも、夭折してしまったので、「もしすぐれて天年みじかく生れ付たる事、顔子などの如なる人にあらずむば、わが養のちからによりて、長生する理也」と言ったのです。
益軒は「天年をみじかく生れ付たる人はまれなり」と言いましたが、江戸時代はそれほど一般の人の寿命は長くありません。例えば、徳川十一代将軍の家斉には五十七人の子がありましたが、その内、流産が四人、一から三才までに亡くなった子が二十四人、四才から二十歳までに亡くなった子が十三人でした。食事にも金銭にも恵まれた将軍家でも、七割が二十まで生きることができず、当時の七五三のお祝いは、現代のような平和的な当たり前の儀式ではなく、もっと切実な本当のお祝いだったことでしょう。
それでも、益軒はそう言ったのです。これは、そう信じて生きることに意味があるのです。人の寿命は生きている限り誰にも分かりません。死んで初めて寿命が決定するのであり、生まれつき寿命が短いと評価するには、養生法を行い、君子として生活し、それでも早世してしまった場合のみ可能なのです。益軒は人々に希望を与えたかったのであり、また理想的な生き方をして欲しかったのでしょう。
『荘子』大宗師篇にはこうも記されています。
天の為す所を知り人の為す所を知る者は至れり。天の為す所を知る者は天にして生くるなり。人の為す所を知る者は其の知の知らざる所を養う。其の天年を終えて中道に夭せざる者は、是れ知の盛んなるなり。
人の寿命が天に決められているとしても、人の「知」によって夭折することなく天年を全うすることが出来るのである、と。
(ムガク)
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