(原文)
身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣あり。是を行へば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ。行なふとしてよろしからざる事なし。其一字なんぞや。畏の字是なり。畏るるとは身を守る心法なり。事ごとに心を小にして気にまかせず、過なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし。故に朱子、晩年に敬の字をときて曰、敬は畏の字これに近し。
(解説)
今回は養生するに当たっての心のあり方について述べています。心を小にして、畏れること、それが要訣です。唐の時代、医師であった孫思邈は、「胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」と言いましたが、心が小さいことは、決して悪いことではなく、むしろ美徳として考えられていました。『詩経』には、「維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く」とあり、聖人の代表者である文王は小さなことにも気を配り、慎み深く生きていたのです。
益軒はここで、朱子の「敬は畏の字これに近し」という言葉を挙げていますが、なぜそうしたのでしょうか。それは敬とは何かを調べていくと明らかになります。
孔子は、「言は忠信、行は篤敬」と言いましたが、敬とは行いの基本であり、具体的には「門を出ては大賓を見るが如く、民を使うには大祭に承うるが如く」というように、家の門から一歩でも外へ出たら、最も重要な賓客に接するように、民に働いてもらうには最も重要な祭祀において神に供物を献上するように、慎重に、注意深く行動することです。
この敬は、「己を修むるに、敬を以てす」と孔子が言ったように、自己修養に重要なものであり、朱子学では、「敬字の工夫は、乃ち聖門の第一義」であり、聖人にいたるための重要な入り口であると、捉えられていました。
ここ、養生訓にある朱子の言葉は、『朱子語類』が出典であり、より正確には、「敬とは是れ塊然と兀坐し、耳に聞ゆる所無く、目に見る所無く、心に思うところ無く、而して後に之を敬と謂うに非ず。只、是れ畏れ謹み、敢て放縱せず所に有り」とあります。朱子学では、聖人や君子に至るために、静座と呼ばれる静かに座り続け、心を引き締め、専一の状態になるという修行法が行なわれていました。朱子は、敬は、禅宗などで行なわれていた坐禅のように、心を無にすることが目的ではなく、静かに座り続けることは単なる道に至る過程に過ぎず、「畏れ謹む所」に敬の本質があると言っているのです。
益軒は、養生だけでなく、人間としても重要な、畏について人々に説こうとしました。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
身をたもち生を養ふに、一字の至れる要訣あり。是を行へば生命を長くたもちて病なし。おやに孝あり、君に忠あり、家をたもち、身をたもつ。行なふとしてよろしからざる事なし。其一字なんぞや。畏の字是なり。畏るるとは身を守る心法なり。事ごとに心を小にして気にまかせず、過なからん事を求め、つねに天道をおそれて、つつしみしたがひ、人慾を畏れてつつしみ忍ぶにあり。是畏るるは、慎しみにおもむく初なり。畏るれば、つつしみ生ず。畏れざれば、つつしみなし。故に朱子、晩年に敬の字をときて曰、敬は畏の字これに近し。
(解説)
今回は養生するに当たっての心のあり方について述べています。心を小にして、畏れること、それが要訣です。唐の時代、医師であった孫思邈は、「胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す」と言いましたが、心が小さいことは、決して悪いことではなく、むしろ美徳として考えられていました。『詩経』には、「維れ此の文王、小心翼翼たり、昭かに上帝に事へ、ここに多福を懐く」とあり、聖人の代表者である文王は小さなことにも気を配り、慎み深く生きていたのです。
益軒はここで、朱子の「敬は畏の字これに近し」という言葉を挙げていますが、なぜそうしたのでしょうか。それは敬とは何かを調べていくと明らかになります。
孔子は、「言は忠信、行は篤敬」と言いましたが、敬とは行いの基本であり、具体的には「門を出ては大賓を見るが如く、民を使うには大祭に承うるが如く」というように、家の門から一歩でも外へ出たら、最も重要な賓客に接するように、民に働いてもらうには最も重要な祭祀において神に供物を献上するように、慎重に、注意深く行動することです。
この敬は、「己を修むるに、敬を以てす」と孔子が言ったように、自己修養に重要なものであり、朱子学では、「敬字の工夫は、乃ち聖門の第一義」であり、聖人にいたるための重要な入り口であると、捉えられていました。
ここ、養生訓にある朱子の言葉は、『朱子語類』が出典であり、より正確には、「敬とは是れ塊然と兀坐し、耳に聞ゆる所無く、目に見る所無く、心に思うところ無く、而して後に之を敬と謂うに非ず。只、是れ畏れ謹み、敢て放縱せず所に有り」とあります。朱子学では、聖人や君子に至るために、静座と呼ばれる静かに座り続け、心を引き締め、専一の状態になるという修行法が行なわれていました。朱子は、敬は、禅宗などで行なわれていた坐禅のように、心を無にすることが目的ではなく、静かに座り続けることは単なる道に至る過程に過ぎず、「畏れ謹む所」に敬の本質があると言っているのです。
益軒は、養生だけでなく、人間としても重要な、畏について人々に説こうとしました。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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