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自分史Part 4 (親父を越えたい思い・・・♪)

2010年07月08日 21時18分56秒 | 自分史
写真:我が家の庭先から「飛び込みのネジバナ」

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ハンディーを持つと当たり前ですが両親は健常な子よりいろんなことを心配するわけですよ。子供が過保護になるのは親の常・・・その過保護になるのが嫌で、そこから脱却を目指し、ともかくも、地元から離れようと、東京の学校を目指して、入試を受け、入学し、独立を目指したのでした。

当時、その根底にあったのが親父さん。人望の厚かった親父さん。その親父を人間的に越えたいとの思いも大きかったです。

それで、高校を卒業して、東京の学校に入学した時は、さすがに両親も心配したのか、ハンディー者は、食事が大変と朝・夕食がつく下宿を捜し出し、当初はそこに住みました。三畳一間の賄い付きの下宿で、一般家庭のおばあさんが学生のために部屋を貸しているのでした。3畳ひと間の家賃は8000円なり・・・家からの仕送りは、40000円なり。。。不足分は奨学金+スマートボールで荒稼ぎ・・・(爆)

ちょうど、その下宿は、日野市程久保にありました。多摩動物公園の反対側の丘陵の上にある住宅街の一角でした。早朝は多摩動物公園の猛獣の鳴き声で目が覚める日々。目覚まし時計の要らない部屋でした。朝晩は下宿で食事、お昼は学食で食事。食事には悩まず、困りませんでした。

学校時代は、人間形成にはクラブ活動だと、授業を放棄し、文化団体が所属する文化団体連合会・文化会なるものに所属し、4年間クラブ活動に没頭。ここでは、様々な文科系クラブの部長さんとの交流が人間的に自分を成長させてもらいました。一升瓶を枕に寝たり、後、一歩で玄関・・・で、寝たりと思い出も深いです。

それでも学校も2年を過ぎると、やはり、思い出すのは自分の自立。・・・つまり、賄い付きの下宿から自活できるアパートへ・・・両親を説得して、移り住み、一つ一つ目標をクリアーしていきました。その時の家賃は2万数千円だっけか・・・わすれてもうた。
4.5畳、風呂付+「ガスコンロ1台設置の流し」でした。その時の仕送りは45000円だっけか…これまた忘れた。

学生時代が一番充実していたかもしれません。文化会活動では、ハンディーと言う言葉はどこかに吹っ飛んでいましたね。卒業後、会社に入社して、改めて思い出させてもらいましたが。。。

会社に入社後は、改めて思い出したのが東京に飛び出た理由「人間的に親父を越えたい」・・・
その壁を越える過程で、会社からの評価も得るだろうと・・・

最初の会社では評価の面では、部長以上の評価が上手く行きませんでしたが、それでも、課長に評価され、地道に遅れながらも出世はしていました。親父を越える人生の転換期は、やはり、黄金町駅横のおすし屋さんでしょうかね。

あれから、20数年かぁ?! いまは、親父を越えたのかなと思う自分がいます。反面、人格的には全く歯がたたず、越えられず。親父が立ちふさがる壁がでかすぎて、越えられないと思う自分がいます。多分、永遠に越えられない壁なのかも知れませんね。

まぁ?!片手ひとつで、中古ながら狭い敷地の一戸建ての家を持ち、これから10年、働き続けることが出来れば、最終的な自立も射程圏内。 夫婦で生活できる基盤を手に入れられるのかも知れません。人間的に親父を越えることは出来ないけど、社会人として、ハンディを持ちながら一定水準を保てれば・・・総合的には壁はやぶったのかなと思う自分がいます。

あと、残されたものは「人間的成長」だけかも知れません。。。

でもね。今後、10年働くのは無理っぽい。今、勤めている会社は、今後、数ヶ月の先が見えない現実が目の前にぶら下がっています。いつまで続くか・・・先は短い。次に求める職場は、背伸びせず、自分の本来の力で働ける環境の職場が良いけどね・・・ハンディ背負っていても雇ってくれるところ、ありませんかね。 不安定な環境はストレスと高血糖を生み出すのでなぁ?!ちょこっと、つらいかも。

天気:晴れ
気温:最低温度:22.3℃ / 最高温度:31.0℃
今日の歩数:20197歩 / 消費カロリー:451Kcal
歩行距離:約13.1km

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