天正3年(1575)、織田・徳川連合軍と武田軍が新城で激突しました。世にいう長篠設楽原(ながしの したらがはら)の戦いです。戦いはまず、長篠城で始まりました。
城跡があるので行ってみると、
長篠城址・史跡保存館がありました。
入館すると、
城を攻めた武田勝頼軍と、城主奥平家の甲冑や文書などが展示されていました。
資料館から出てくると、向かいに本丸跡がありました。
堀の向こうに土塁。古城の雰囲気がありますよね。
タンポポが一面に咲いた広い本丸跡に入ると、端にこんなものがありました。
奥さん 「鳥居強右衛門がはりつけにされた場所だって」
への次郎 「川の向かいの木がまばらになっているあたりだね」
奥平家の家臣であった鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は、武田軍に包囲された長篠城の窮状を岡崎城の家康・信長に連絡。帰城の際に武田軍にとらえられ、長篠城本丸の向かいではりつけにされました。
奥さん 「信長が鉄砲隊を使ったのは、ここ?」
への次郎 「いや、ここじゃないよ。そこに行ってみようか」
長篠城跡から車で15分、設楽原歴史資料館にやって来ました。
入館すると家康の絵があり、その前で記念写真。
奥に進むとありました、多数の鉄砲。
屋上に出ると、向かいの山すそに馬防柵(ばぼうさく)がチラッと見えました。
への次郎 「馬防柵が見えるから、あのあたりが決戦場だね」
孫 「はやく、行こう!」
歴史資料館から車で3分、決戦場の入口にやって来ました。
ここに車を止めて、歩いて行くと、
ありました、馬防柵。
手前が織田・徳川軍の陣地で、武田軍は右方向から攻めてきました。
たった10時間の戦いで、武田軍1万人、連合軍5千人がここで命を落としたそうです。3人で合掌し、この地を後にしました。
山道をインターめざして走っていたら、菜の花の向こうに満開の早咲き桜!
出遅れた今年のソメイヨシノ、いよいよ出番のようですね。