偽書「東日流外三郡誌」の正体1~10までは下記にまとめました。
ホームページにこの記事を統合して、長文ですが1ページに纏めています。 偽書「東日流外三郡誌」の正体
揺れ動く市浦村
ある日、編集局長(当時)のKから意外な事を言われた「偽書問題で市浦村が揺れているらしい。困っているといって来ている人もいる」
「地元の村役場幹部から」編集のトップである編集局長に”直訴”しているところに、市浦村役場の困惑と問題の根深さを感じた。
市浦村役場は『外三郡誌』を公的資料として刊行した偽書問題の”当事者”でもあった。
「東奥日報に”SOS"を発してきた村役場幹部は、1975年に『外三郡誌』が「市浦村史資料」として刊行された際編作業に携わった一人だった。
『村史資料編は』、和田さんが持っていた『外三郡誌』三百六十八巻のうちおかしいなというものを除いた約百二十巻で作りました。
最初に渡された文書は良かったのですが、だんだんいい加減なものが目立ってきたからです。 [資料編というタイトルでわかるとおり、私たちはこういうものがありますよ、世の中に紹介することを目的に出版を考えていました。
関係者の間では、当初から『外三郡誌』に対しては、”荒唐無稽”と首がかしげる人と、”これは立派な内容だ”と受けいる人の二種類がいました。
偽書、真書という議論は今に始まったことではなく、出版時から出ていたということです。
『外三郡誌』に対する疑念は編集当時からすでにあって、それを承知で出版したというのである。 すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。
明かされる出版秘話
青森市から、北西へ車を走らせること二時間余り。市浦村は日本海に面した小さな村である。
遥か昔、安東氏が北方交易の拠点とした土地として伝えられるが、その栄光を想像させる施設は、今はほとんど残っていない。
市浦村で関係者らの取材を重ねているうちに浮き彫りになってきたのは、『外三郡誌』の出版に至るまでの不思議な経緯だった。
それは実に興味深く、奇妙な話だった。
市浦村役場が『外三郡誌』にかかわるようになったのは、白川治三郎村長時代(1791~83年)のこと。
村長と『外三郡誌』の発表者とされる和田、そして復数の編集委員は以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通して付き合いがあったという
1972年(昭和47)頃、五所川原市から大変なもの(古文書)が発見されたという噂が五所川原周辺に広がったが、それが後の『外三郡誌』だった。
それに絡んで、和田家から安東氏の秘宝の隠し場所が書かれた文書が見つかったという話も持ち上がり、一部では秘宝探しの動きが出たという。
当時、噂の文書を見た人によると、表紙には「安東文書」と書かれ、その後有名になる「東日流外三郡誌」とは、そのころ呼ばれていなかったという。
和田家文書の信憑性を確かめるため、村役場は村史編集委員会を結成する前に、安東氏の秘宝の現場調査を行ったが、大きな成果は収められなかったという。
このように和田と村長、複数の編集委員をつなぐ個人的な関係の中からいつしか生まれたのが、『外三郡誌』を村史に取り入れようという計画だったという。
当初、編集委員は十人ほどで和田もその一員だった。 和田は『外三郡誌』が外部の目に触れることを極端に嫌がったため編集委員会は文書を一時借り出してはコピーし、そのコピーを原資料として使ったという。
文書はB5判ほどの大きさで和田から一回に渡される文書はそれほど多くなかった。
『外三郡誌』の編集責任者に指名されたのは、十三湊の歴史に詳しい地元の郷土史家、豊島勝蔵(故人)だった。 地元の小学校の校長も務めた実直な豊島は、編集委員会から渡されたコピー文書を原稿化した。 文書の中にはコピーに交じって実際に筆で書かれたものもあったという。
和田から渡される古文書については、編集委員の間でもいろいろ話題になり、「墨が新しくて当て字が多い。何より文章の形式が古いものではない。おかしい」との指摘があったという。
しかし、大勢を占めたのは「うそか真実かわからないが、とにかく面白い記録」という受け止め方だった。
もともと、『外三郡誌』は村史の参考文献として付け加える予定だった。 ところが、編集中に一足先に出版されたお隣の「車力村史」(1973年)に、門外不出であるはずの『外三郡誌』の一部が掲載されていたから、関係者は仰天した。
先を越された以上は、『外三郡誌』を大きく扱うしかないと方針を転換し、単独の『資料編』として出版することに進路変更したという。編集委員会の話し合いによって「文書のすべてを出し学者に批判してもらおう」ということで態度を決めたという。
結局、出版まで要した時間は約5年、文書の所有者である和田に対しては、村役場から謝礼が渡されるとともに、「和田は村活性化の立役者」という声すら上がった。
しかし、出版後に多数の専門家から問い合わせや厳しい指摘を受けだしてから、編集委員たちも疑問を強く持ち出し、出版元の村役場も困惑。 そして・・・というわけだった。
津軽半島の寒村をどうにか有名にしたいという切ない「村おこし」の気持ちと、人間なら誰もが持っているささやかな「功名心」。
それが複雑に絡んで生まれたのが、「市浦村史資料編「東日流外三郡誌」と言えそうだった。
実は郷土館長当時に、お名前は忘れたが安東の『古文書』だ、といい五冊ほど持ってこられて、之は津軽で最も古い物で安東の事を細かく書いてある。
当時の津軽は上方政府と違う「国」としての盛力者の安東がいたのだ、この古文書に書いてある。
これを津軽の歴史として認めてくれと言われた。
三冊程手に取ってみた。 文字の書き方や文面はそれほど古くない。紙質にしても何百年も前に感じられなかった。
珍しい古記録ですネ。歴史的資料かどうかと言うことは、専門的な鑑定と内容点検が必要ですから、京都大学にお願いして、歴史的資料として良いか見て貰います。
ですから初めの方二冊、中間で一冊、終わりの方で二冊、五冊ほどお貸しくださいませんか?
預かり証も行政責任者と私の印を押してお渡しいたします、責任を持って取り扱います。
文章、字体、スミや書質は、年代も明らかになるし、内容は専門的ですから見抜くことも出来ますからと言った。
持って来られた人は、そんなことまでしてでなければ認められない貴重なものだ、と言い、サッサと風呂敷に包んでしまわれた。(中略)
その後、三群誌と三群誌絵図を購入して京都大学へ寄贈、送本した。
一ヶ月程経ってから返送されてきた。 半紙に、こうした事に興味を持たないで「近世・近代」を積極的に勉強する事を祈ります。と三十字程のお便りでした。(『津軽魂を潰した人々』1992年)
つまり、謎の男は五所川原市郷土館の公的な”お墨付き”だけを欲しかったのでしょう。貴重な本ならば、京都大学で正式な鑑定を受けさらに史料価値を上げたくなるはずだが、この男は逃げた。
編集者の証言
その『安東文書』なるものをじかに目にし、手にとっていた人物がいた。 当時、青森県立図書館に勤めていた三上強二だ。それも、当時和田の自宅居間でだ。
それは、紙も墨も新しく、古文書としての体裁をなしていないお粗末なものだったいう。
三上は思い出す。
「村長の親類から”有る文書を見てくれ”と頼まれて和田さんの自宅を訪ねたんだ。そうしたら居留守を使われてね。
そのまま帰るのもしゃくだから、”待たせてもらいましょう”と居間に上がって待っていたら、和田さんがやっと出てきたんです。
そこで見せられたのが『安東文書』なるもの。 最初に出てくるのが安東氏の系譜で長髄彦うんぬんという下りが出て来て、水軍の話になる。
思わず笑ったのが、この軍船の絵。 北欧のバイキングの船そのものなんですよ。 だから和田さんに「安東時代に、少なくとも日本でこんな船は造られていなかったはずだよ」と指摘しました。
そして、ずっと見ていって気付いたのは、紙と墨が合わないということ。 墨がなじんでいないんだな。 私も図書館に三十年間いましたから、古文書を見る機会には恵まれていました。
だから墨と紙の整合性、文体などがわかるわけで、”これはおかしい。まったくあっていない。信憑性が無い”と言い放ったわけですよ。
何より、表紙の『安東文書』の墨書きが何より和田さんの字でしたから、それで駄目だと・・・・
その時点ですでに、村長グループに、この文書のコピーが渡っていたのでしょう。
三十年以上過ぎた今でも、三上の脳裏にありありと浮かぶのは、”偽書”と指摘した時の和田の悔しそうな顔だった。
編集当時、同じ内容の部分が数か所もあり、年号もそれぞれに違っていたりして”変だな””変だな”とは思っていました。そう思いながらの作業だったのです。
『外三郡誌』が”嘘”だと気づき出したのは、発刊後の事です。 多数の人から問い合わせがあり、専門家から指摘があったからです。
<以下省略>
市浦村史は現在公開されていないようです。 この件についてはこの辺で終了します。
どう考えても、『外三郡誌』関係の文書は和田氏が書いた事は紛れもない事実に思われます。 あの右上がりの癖字は、素人が見ても同一人物にしか見えません。
この後も嘘に巻き込まれた町の事件を記載したいと思います。
この続きはホームページに記載したいと思います。
ホームページに追記した内容は、新郷村戸来地区にある「キリストの墓」や安倍頼時の遺骨と言われた安倍一族の墓苑などです。
下記のバナーやURLをクリックしてください。strong>
http://sanpomichi114.web.fc2.com/tugarusotosangunshi.html
ホームページにこの記事を統合して、長文ですが1ページに纏めています。 偽書「東日流外三郡誌」の正体
揺れ動く市浦村
ある日、編集局長(当時)のKから意外な事を言われた「偽書問題で市浦村が揺れているらしい。困っているといって来ている人もいる」
「地元の村役場幹部から」編集のトップである編集局長に”直訴”しているところに、市浦村役場の困惑と問題の根深さを感じた。
市浦村役場は『外三郡誌』を公的資料として刊行した偽書問題の”当事者”でもあった。
「東奥日報に”SOS"を発してきた村役場幹部は、1975年に『外三郡誌』が「市浦村史資料」として刊行された際編作業に携わった一人だった。
『村史資料編は』、和田さんが持っていた『外三郡誌』三百六十八巻のうちおかしいなというものを除いた約百二十巻で作りました。
最初に渡された文書は良かったのですが、だんだんいい加減なものが目立ってきたからです。 [資料編というタイトルでわかるとおり、私たちはこういうものがありますよ、世の中に紹介することを目的に出版を考えていました。
関係者の間では、当初から『外三郡誌』に対しては、”荒唐無稽”と首がかしげる人と、”これは立派な内容だ”と受けいる人の二種類がいました。
偽書、真書という議論は今に始まったことではなく、出版時から出ていたということです。
『外三郡誌』に対する疑念は編集当時からすでにあって、それを承知で出版したというのである。 すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。
明かされる出版秘話
青森市から、北西へ車を走らせること二時間余り。市浦村は日本海に面した小さな村である。
遥か昔、安東氏が北方交易の拠点とした土地として伝えられるが、その栄光を想像させる施設は、今はほとんど残っていない。
市浦村で関係者らの取材を重ねているうちに浮き彫りになってきたのは、『外三郡誌』の出版に至るまでの不思議な経緯だった。
それは実に興味深く、奇妙な話だった。
市浦村役場が『外三郡誌』にかかわるようになったのは、白川治三郎村長時代(1791~83年)のこと。
村長と『外三郡誌』の発表者とされる和田、そして復数の編集委員は以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通して付き合いがあったという
1972年(昭和47)頃、五所川原市から大変なもの(古文書)が発見されたという噂が五所川原周辺に広がったが、それが後の『外三郡誌』だった。
それに絡んで、和田家から安東氏の秘宝の隠し場所が書かれた文書が見つかったという話も持ち上がり、一部では秘宝探しの動きが出たという。
当時、噂の文書を見た人によると、表紙には「安東文書」と書かれ、その後有名になる「東日流外三郡誌」とは、そのころ呼ばれていなかったという。
和田家文書の信憑性を確かめるため、村役場は村史編集委員会を結成する前に、安東氏の秘宝の現場調査を行ったが、大きな成果は収められなかったという。
このように和田と村長、複数の編集委員をつなぐ個人的な関係の中からいつしか生まれたのが、『外三郡誌』を村史に取り入れようという計画だったという。
当初、編集委員は十人ほどで和田もその一員だった。 和田は『外三郡誌』が外部の目に触れることを極端に嫌がったため編集委員会は文書を一時借り出してはコピーし、そのコピーを原資料として使ったという。
文書はB5判ほどの大きさで和田から一回に渡される文書はそれほど多くなかった。
『外三郡誌』の編集責任者に指名されたのは、十三湊の歴史に詳しい地元の郷土史家、豊島勝蔵(故人)だった。 地元の小学校の校長も務めた実直な豊島は、編集委員会から渡されたコピー文書を原稿化した。 文書の中にはコピーに交じって実際に筆で書かれたものもあったという。
和田から渡される古文書については、編集委員の間でもいろいろ話題になり、「墨が新しくて当て字が多い。何より文章の形式が古いものではない。おかしい」との指摘があったという。
しかし、大勢を占めたのは「うそか真実かわからないが、とにかく面白い記録」という受け止め方だった。
もともと、『外三郡誌』は村史の参考文献として付け加える予定だった。 ところが、編集中に一足先に出版されたお隣の「車力村史」(1973年)に、門外不出であるはずの『外三郡誌』の一部が掲載されていたから、関係者は仰天した。
先を越された以上は、『外三郡誌』を大きく扱うしかないと方針を転換し、単独の『資料編』として出版することに進路変更したという。編集委員会の話し合いによって「文書のすべてを出し学者に批判してもらおう」ということで態度を決めたという。
結局、出版まで要した時間は約5年、文書の所有者である和田に対しては、村役場から謝礼が渡されるとともに、「和田は村活性化の立役者」という声すら上がった。
しかし、出版後に多数の専門家から問い合わせや厳しい指摘を受けだしてから、編集委員たちも疑問を強く持ち出し、出版元の村役場も困惑。 そして・・・というわけだった。
津軽半島の寒村をどうにか有名にしたいという切ない「村おこし」の気持ちと、人間なら誰もが持っているささやかな「功名心」。
それが複雑に絡んで生まれたのが、「市浦村史資料編「東日流外三郡誌」と言えそうだった。
実は郷土館長当時に、お名前は忘れたが安東の『古文書』だ、といい五冊ほど持ってこられて、之は津軽で最も古い物で安東の事を細かく書いてある。
当時の津軽は上方政府と違う「国」としての盛力者の安東がいたのだ、この古文書に書いてある。
これを津軽の歴史として認めてくれと言われた。
三冊程手に取ってみた。 文字の書き方や文面はそれほど古くない。紙質にしても何百年も前に感じられなかった。
珍しい古記録ですネ。歴史的資料かどうかと言うことは、専門的な鑑定と内容点検が必要ですから、京都大学にお願いして、歴史的資料として良いか見て貰います。
ですから初めの方二冊、中間で一冊、終わりの方で二冊、五冊ほどお貸しくださいませんか?
預かり証も行政責任者と私の印を押してお渡しいたします、責任を持って取り扱います。
文章、字体、スミや書質は、年代も明らかになるし、内容は専門的ですから見抜くことも出来ますからと言った。
持って来られた人は、そんなことまでしてでなければ認められない貴重なものだ、と言い、サッサと風呂敷に包んでしまわれた。(中略)
その後、三群誌と三群誌絵図を購入して京都大学へ寄贈、送本した。
一ヶ月程経ってから返送されてきた。 半紙に、こうした事に興味を持たないで「近世・近代」を積極的に勉強する事を祈ります。と三十字程のお便りでした。(『津軽魂を潰した人々』1992年)
つまり、謎の男は五所川原市郷土館の公的な”お墨付き”だけを欲しかったのでしょう。貴重な本ならば、京都大学で正式な鑑定を受けさらに史料価値を上げたくなるはずだが、この男は逃げた。
編集者の証言
その『安東文書』なるものをじかに目にし、手にとっていた人物がいた。 当時、青森県立図書館に勤めていた三上強二だ。それも、当時和田の自宅居間でだ。
それは、紙も墨も新しく、古文書としての体裁をなしていないお粗末なものだったいう。
三上は思い出す。
「村長の親類から”有る文書を見てくれ”と頼まれて和田さんの自宅を訪ねたんだ。そうしたら居留守を使われてね。
そのまま帰るのもしゃくだから、”待たせてもらいましょう”と居間に上がって待っていたら、和田さんがやっと出てきたんです。
そこで見せられたのが『安東文書』なるもの。 最初に出てくるのが安東氏の系譜で長髄彦うんぬんという下りが出て来て、水軍の話になる。
思わず笑ったのが、この軍船の絵。 北欧のバイキングの船そのものなんですよ。 だから和田さんに「安東時代に、少なくとも日本でこんな船は造られていなかったはずだよ」と指摘しました。
そして、ずっと見ていって気付いたのは、紙と墨が合わないということ。 墨がなじんでいないんだな。 私も図書館に三十年間いましたから、古文書を見る機会には恵まれていました。
だから墨と紙の整合性、文体などがわかるわけで、”これはおかしい。まったくあっていない。信憑性が無い”と言い放ったわけですよ。
何より、表紙の『安東文書』の墨書きが何より和田さんの字でしたから、それで駄目だと・・・・
その時点ですでに、村長グループに、この文書のコピーが渡っていたのでしょう。
三十年以上過ぎた今でも、三上の脳裏にありありと浮かぶのは、”偽書”と指摘した時の和田の悔しそうな顔だった。
編集当時、同じ内容の部分が数か所もあり、年号もそれぞれに違っていたりして”変だな””変だな”とは思っていました。そう思いながらの作業だったのです。
『外三郡誌』が”嘘”だと気づき出したのは、発刊後の事です。 多数の人から問い合わせがあり、専門家から指摘があったからです。
<以下省略>
市浦村史は現在公開されていないようです。 この件についてはこの辺で終了します。
どう考えても、『外三郡誌』関係の文書は和田氏が書いた事は紛れもない事実に思われます。 あの右上がりの癖字は、素人が見ても同一人物にしか見えません。
この後も嘘に巻き込まれた町の事件を記載したいと思います。
この続きはホームページに記載したいと思います。
ホームページに追記した内容は、新郷村戸来地区にある「キリストの墓」や安倍頼時の遺骨と言われた安倍一族の墓苑などです。
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