仙台の市電が計画されたのは明治40年のことです。
大正になると道路の新設や拡張の予算が立ち、大正15年11月25日に開業を迎えました。
10両の市電が仙台の街を走り始めたのです。
写真は戦時中の様子ですが、非常に混み合っているのがわかります。
軍帽を被った兵隊さんらしき人やボロボロになった革のランドセルを背負っている小学生も見えます。
その隣りの白いリュックの上級生らしい男の子の足元を見ると、裸足にサンダルです。
はだしのゲンを想起します。
乗客は、乗れそうもない市電の混雑ぶりに不安そうですね。
県庁前の空襲被害の様子
太平洋戦争末期…1945年(昭和20年)7月10日、アメリカ軍爆撃機Bー29により、仙台中心部への戦略爆撃がおこなわれました。
仙台空襲です。
市役所前の空襲の様子
焼けの原
市民の足を支えたその市電も、モータリぜーションの影響により、走行が著しく悪化し廃止を余儀無くされます。
昭和51年3月31日、仙台の街からその姿を消したのです。
その最後は、飾り付けられた花電車となり、運行しました。
その様子は私の目に今でも焼き付いてます。
おまけ
silent-hollyさんがコメントの中で大学病院の所にあった不思議なものとは・・・
これですね!
信号所・・・通称「鳩の巣」と呼ばれていました。
それまでは、手旗信号でポイントの切り替えをしていましたが、この信号所が出来てから、遠隔で一括操作出来るようになりました。
昭和25年に東五番町(S25年)その後花京院、北四番丁、大学病院前に出来ていったのです。
昭和43年には完全自動化し14名の信号手が姿を消したのです。
信号所内は、こんな感じです。
運転台からの風景
三色最中の看板を見ると、ホッとするのは僕だけでしょうか?
仙台市電 1976年
小学校は上杉小で家はその近くでしたが
住居が北の方に変わり学校は転校せずにそのまま。
それで電車通学となり、市電にはたくさん乗りました。
何か行事があると「花電車」が走りました。
私は 飾り付けた電車がとても好きでした。
戦後はどこの都市も車中心になっていき、路面電車などは廃止の方向に向かいましたね。
さびしい気がします。
福岡県内でも、市電はなくなって久しいです。
小学校から、乗っていたのでは強い思い入れがありますね。
木の床が思い出されます。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた架線が懐かしいです。
長崎…熊本…広島…函館…後どこだったかな?
熊本のはヨーロピアンのような感じですよね。
どこも採算あわないのでは?
子どもの頃に大学病院の側の交差点に不思議なものが立ってて、どうやら市電の運行に関するものだった記憶がありますが、あれは何だったんでしょうか?
太い円柱の上にUFOみたいな形のものが乗っかってて、中に人が入っていたような…ご存知ですか?
silent-hollyさんへ
路面電車はバスの運行を想像するとわかりやすいのですが、運行ダイヤや行き先がキッチリ決まっていません。
いつ、どこ行きが来るのか、道路の混雑状況でコロコロ変わってしまうのです。
そのため大学病院前のように路線が別れる場所の方向別運行管理は、自動化できないのです。
ですので線路の分岐点がよく見える見晴らしのいい場所に設備を設けて、運行担当の方が詰めて管理しています。
「ほれ来た」「北仙台行きだ」「それポイント変えろ」「また来た」「八幡行きだ」「またポイント変換だ」「道路の信号は大丈夫か」・・・
ひーさんへ
路面電車の現存する都市ですか。
えっとあとは東京、鎌倉・藤沢、豊橋、富山、大阪・堺、岡山、松山、高知、鹿児島・・・
福井や北九州もでしたっけ?詳細は酔漢さんのご子息に(親父世代はこうして逃げる)。
広島は国内最大の路面電車王国でして大黒字だったと思います。
管制塔みたいな役割をしていたのですね。
つい近年まであったのですが、写真を撮ろうと思っているうちに取り壊されたようです。
後で探しておきます。
silent-hollyさんへ返信入れたら、ほぼ同時くらいでしたね。
路面電車はまだ多く走っていたのですね。
そう言えばそうだそうだと思う所もあれば、そこも走っていたのかと思うところも…
流石に鉄ファンには、ブロもかないませんね。www
うちの町にもむかしおりました。
冬に線路にうちの車がハマって
立ち往生していると
路面電車が止まって
乗客が降りてきて押してくれて
脱出したことを覚えています。
古きよき時代でした・・・
いまなら、どうなることやら
(~_~;)
市電が走っていたら乗ってみたかったですよ。
市電から見る景色が好きで東京に行った時にも
時々都電を乗っています。
仙台にも市電が走っていたのですね。