故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

絵のタイトルは、「ロッククライミングウォール」です。
グッドの到達点など要らぬ。
誰もが届かないグレートこそ、望む到達点。
今日のタイトルは、「カフェ閉店」です。
渡り鳥 終の棲家は 風に聞く
フェイスブックをやめました。
30日間の猶予期間(再登録など)があり、アカウントは完全に削除され、自分が書いた記事も消える。
毎日、人が書いた記事が10~20ほど届いていました。いいねをしたりしなかったり。
一切見ることができなくなりました。
あれは何だったのか。とりつかれていたもの(気になり定期的に開く)から解放された。
ブログ記事の「お気に入り登録」がゼロになった。
何人様が触ってくれたのか気になるブログです。
アクセス数が多かろうと少なかろうと、書くことに変わりはない。
「カフェの閉店」のお知らせを店外の掲示板に載せた。
字が小さいのか、反応はない。
どこかの商店街の靴屋のように、「閉店セール」を今後10年も続けることはできない。
「残念だ」と数人に言われる。
多くの方は、「この時期(コロナ禍)だから仕方がないか」と言う顔をされる。
「どこかに行くの」と、次なる質問を受ける。
カフェを開店したのは、地域活性化のためと思っていた。
自分探しの一つであった。
空き家通りにあるカフェである。
数年もすると、開店前の状態に戻ることだろう。
開店前から閉店に当たり成長したことは、
ここのよいところを持ち帰り、ここへ面白いことを運びたいと思えるようになったこと。
巷で言われる、移住とセットの「人生の楽園」ではなかった。
厳しい現実を身体で体験したのが、恵みであろう。
誰からも期待されない不自由と、何をしてもよい自由を理解した。
誰が来られるか、どこから来られるか分からないので、
限られた空間で、変わらぬ人間関係のルーチンワーク(会社勤め)より、ずっとスリリングだった。
初対面のお客さんと接することで、世間が広がり自分たちが濃密になった。
何でも話せる空間を創出できた。
カフェ閉店後の人生は、これからも続く。
生きてる限り、苦楽に終わりはない。
2021年5月18日

絵のタイトルは、「永観堂」です。
これしかあるまい。
また聞いた 入り出が違う 面白し
今日のタイトルは、「悲喜交々(こもごも)至る」です。
夫婦でも、相手を理解することはやっかいなことである。
ましてや、出会ったばかりの他人となると、さらに簡単ではない。
どうしたら、このやるせなさから脱却できるのか考える。
プレゼンテーションの機会を得て、決まった「テーマ」で発表することがある。
伝わったか、甚だ疑問である。
むしろ、初めから質問を受けて応える方が効率的かなとも思うことがある。
自分の理解を超える話を聞くことがある。
興味があれば、どうして、それは何と、質問できる。
まったく興味がない、また面白くない話を聞かされる時は、辛いものである。
本であれば閉じる。
テレビであれば、消す。
ビジネスであれば、あいさつだけで辞する。
それができない時は、困りごとになる。
初めての子を持ち、泣き止まぬ子に途方に暮れた経験は、母なら誰でもあることです。
心配を重ねて、なんだそうだったのかと、一つずつ知っていくことになる。
頻繁におしっこに行く男の子が、カフェに来た。
お漏らしをさせたくない母の心配が、そうさせるのです。
この子は、学校に行くようになったら困るだろうな。と妻が言う。
おしめを、またパンツを濡らす経験をして、この子は初めて自分の限界を知る。
解ってもらえない時は、次には方法を変えて挑戦しようと思うことにしている。
聞く耳持たぬ人に、アタックすることが無理でした。
一方、気の合う人とだけ暮らすのが無理だと知ったら、頑張るしかないでしょう。
少なくとも、自分はこう考えると発信することです。
何かの足跡は残した。
何故かなと思ってくれるパートナーであることを期待します。
やはり駄目かとあきらめないことです。
それが、相手への思いやりであり、自分の成長です。
誰も、春団治のようには生きていけない。
なんど空振りしたって、今度こそ笑わしたろ。
2021年5月18日
「悲喜交々(こもごも)至る」とは、
悲しみと喜びが代る代わるに起こること。
(広辞苑より)