「無」を語ろうとしたしたその瞬間に、「無」は存在しなくなるから、「無」は無いのではないか。
泡盛を片手にそう話してくれたのは、那覇の居酒屋で知り合った横浜在住の青年FUK君。そんなFUK君は、翌日の決勝戦でナイスゴールを決めたとのこと、一緒に旅をしていたSIM君のコメントで知りました。ナニヨリと思いました。
居酒屋で盛り上がってしまって、SIM君、FUK君とみんなで2次会に行き、さらに盛り上がってしまったのは言うまでもないこと。
実は、ボクと相方は翌日もその居酒屋に足を運んだのでした。
なんでかっていうと、そのお店の沖縄料理メニューを完食するため。
そのお店はほんとに小さなお店だったんだけど、沖縄料理が旨いという評判のお店みたいで、ゼッタイに後悔させないというタクシーの運ちゃんの強い勧めで行ったのだった。そして、後悔どころか次の日も行ってしまったと、そういうことなのだった。
次の日は、またイロイロとサービスしてもらって、パッションフルーツを二つに割って、それを杯にした泡盛は最高でした!。
「お~、おにぃさんたちぃ、まぁたぁ、来てくれたぁ~」
二度目の来店に、頑固面が崩れた。
大将はボクらの靴を揃えながら言った。
「昨日は、あんなことぉしなくてもぉ よかったのにぃ」
実は前日、気分を良くしたボクは彼らの飲食代も一緒に払っていたのだった。
大将はもとの頑固面に戻っていた。
「だって、あの二人のうち、一人は熊本の人だったでしょ、それにいろんな話しができたし、ボクは嬉しかったんですよ、ほんと・・」
大将はわかってくれたみたいだった。
「おにぃさんはぁ、いいひとぉだぁ」
彼らの分を支払ったボクはホントに「いい人」なのでしょうか。
青年二人は横浜在住。ボクは横浜に5年ほど住んでいた。
二人の青年のうち一人は熊本を本籍にしていて祖父の実家は天草郡苓北町。
青年たちとボクには共通するものがあった。
共通項は、すでにおわかりのとおりコミュニティ。
共通項がなく、果たしてボクらは「哲学」の話しができたでしょうか。
ボクは「いい人」なのでしょうか。
昨日のバカブログで示した空間的な「絆」の広がりは、「コミュニティ」でくくることも可能だと思います。
“〈〔{《【[(『「夫婦」-親子』-家族)-地域]-町】-市》-県}-国〕-アジア〕-世界〉-宇宙”
海外に行くと日本人は日本人同士でつるむなんて言われますが、そんなの当たり前だと思います。そんなの視野が狭いという人もいます。
だけど、そのコミュニティがあるからこそ、ボクたちは次のコミュニティに目を向けることができ、そして自分自身の出発点に近いコミュニティを大事にするのではないか、そう思うのです。
そして、コミュニティには、そのコミュニティに応じた責任があり、その責任を果たそうとするときに別のコミュティとの間に軋轢が生じる、わかりやすい例を挙げれば国家vs国家、ように思うのです。
最近、「市民」という言葉をよく耳にしますが、ボクには釈然としない思いがあります。
「市民」=「独り善がりの市民」に聞こえてしまうのです。
「独り善がりの市民」は、各層に分かれたコミュニィティに対する広範な感覚が稀薄であるにもかかわらず、権利を主張し、あるいは権利をバラマキ、そのようにして人の心を手中に納めようとしている人たちに思えるのです。
一方、「独り善がりの市民」になった人たちの心情が理解できないわけではありません。
ボクは様々な党に所属する政治家あるいは政治家を志す若者、市民活動家と話しをしながら、直感的に思うところがあります。
大多数の人達は、過去という重い荷物を背負っているわけですが、その荷物の最たるモノは、「絆」を絶たれた経験、あるいは別の「コミュニュティ」から酷く攻撃された経験のように思うのです。
彼らの主張や、人の心を手中にしたいという彼らの思いの出発点は、「キズ」なのかもしれません。Peeping Tomさんがコメントしてくれた地球市民的価値観に対する思いはボクも同じです。その価値観というのは、ほころんだ絆や断絶されたコミュニィティを一緒くたにひっくるめて、自分のキズを見えなくするという荒っぽい歪んだ考えに思えます。
傷だらけで汚れだらけのボクが言うのもなんですが、
彼らの名誉を取り戻し、「キズ」が「キズナ(絆)」になればいいのに、と思う投票日前1日です。
泡盛を片手にそう話してくれたのは、那覇の居酒屋で知り合った横浜在住の青年FUK君。そんなFUK君は、翌日の決勝戦でナイスゴールを決めたとのこと、一緒に旅をしていたSIM君のコメントで知りました。ナニヨリと思いました。
居酒屋で盛り上がってしまって、SIM君、FUK君とみんなで2次会に行き、さらに盛り上がってしまったのは言うまでもないこと。
実は、ボクと相方は翌日もその居酒屋に足を運んだのでした。
なんでかっていうと、そのお店の沖縄料理メニューを完食するため。
そのお店はほんとに小さなお店だったんだけど、沖縄料理が旨いという評判のお店みたいで、ゼッタイに後悔させないというタクシーの運ちゃんの強い勧めで行ったのだった。そして、後悔どころか次の日も行ってしまったと、そういうことなのだった。
次の日は、またイロイロとサービスしてもらって、パッションフルーツを二つに割って、それを杯にした泡盛は最高でした!。
「お~、おにぃさんたちぃ、まぁたぁ、来てくれたぁ~」
二度目の来店に、頑固面が崩れた。
大将はボクらの靴を揃えながら言った。
「昨日は、あんなことぉしなくてもぉ よかったのにぃ」
実は前日、気分を良くしたボクは彼らの飲食代も一緒に払っていたのだった。
大将はもとの頑固面に戻っていた。
「だって、あの二人のうち、一人は熊本の人だったでしょ、それにいろんな話しができたし、ボクは嬉しかったんですよ、ほんと・・」
大将はわかってくれたみたいだった。
「おにぃさんはぁ、いいひとぉだぁ」
彼らの分を支払ったボクはホントに「いい人」なのでしょうか。
青年二人は横浜在住。ボクは横浜に5年ほど住んでいた。
二人の青年のうち一人は熊本を本籍にしていて祖父の実家は天草郡苓北町。
青年たちとボクには共通するものがあった。
共通項は、すでにおわかりのとおりコミュニティ。
共通項がなく、果たしてボクらは「哲学」の話しができたでしょうか。
ボクは「いい人」なのでしょうか。
昨日のバカブログで示した空間的な「絆」の広がりは、「コミュニティ」でくくることも可能だと思います。
“〈〔{《【[(『「夫婦」-親子』-家族)-地域]-町】-市》-県}-国〕-アジア〕-世界〉-宇宙”
海外に行くと日本人は日本人同士でつるむなんて言われますが、そんなの当たり前だと思います。そんなの視野が狭いという人もいます。
だけど、そのコミュニティがあるからこそ、ボクたちは次のコミュニティに目を向けることができ、そして自分自身の出発点に近いコミュニティを大事にするのではないか、そう思うのです。
そして、コミュニティには、そのコミュニティに応じた責任があり、その責任を果たそうとするときに別のコミュティとの間に軋轢が生じる、わかりやすい例を挙げれば国家vs国家、ように思うのです。
最近、「市民」という言葉をよく耳にしますが、ボクには釈然としない思いがあります。
「市民」=「独り善がりの市民」に聞こえてしまうのです。
「独り善がりの市民」は、各層に分かれたコミュニィティに対する広範な感覚が稀薄であるにもかかわらず、権利を主張し、あるいは権利をバラマキ、そのようにして人の心を手中に納めようとしている人たちに思えるのです。
一方、「独り善がりの市民」になった人たちの心情が理解できないわけではありません。
ボクは様々な党に所属する政治家あるいは政治家を志す若者、市民活動家と話しをしながら、直感的に思うところがあります。
大多数の人達は、過去という重い荷物を背負っているわけですが、その荷物の最たるモノは、「絆」を絶たれた経験、あるいは別の「コミュニュティ」から酷く攻撃された経験のように思うのです。
彼らの主張や、人の心を手中にしたいという彼らの思いの出発点は、「キズ」なのかもしれません。Peeping Tomさんがコメントしてくれた地球市民的価値観に対する思いはボクも同じです。その価値観というのは、ほころんだ絆や断絶されたコミュニィティを一緒くたにひっくるめて、自分のキズを見えなくするという荒っぽい歪んだ考えに思えます。
傷だらけで汚れだらけのボクが言うのもなんですが、
彼らの名誉を取り戻し、「キズ」が「キズナ(絆)」になればいいのに、と思う投票日前1日です。