【宇土(うと)・天草(あまくさ)地方の景行天皇伝説】
〔御輿来海岸(おこしきかいがん)(宇土市下網田町)〕
日本の渚百選の一つとなっている御輿来海岸は、景行天皇の九州巡幸のとき、ここに御輿を停められたことからその名がついたと言われています。国道57号線沿いには高さ3mは超えると思われる聖蹟記念碑があります。ただ、現在はもうありませんが、以前は甑岩(こしきいわ)と呼ばれる奇岩があり、この岩の名から「御輿来」になったとする説もあります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』2009年9月14日
〔笠瓜(かさうり)(宇土市長浜町南・笠瓜)〕
景行天皇の九州巡幸の途中、長浜にしばしとどまられた際、村人が瓜を献上しようとしましたが盛るべき適当な器がなかったので笠にのせて献上したことで、この地が笠瓜と呼ばれるになったと伝えられています。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』2009年9月11日
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
〔登立(のぼりたて)(上天草市大矢野町登立)〕
登立の地名も、景行天皇が九州巡幸の際、当地で幟(のぼり)を押したてて出迎えたことから「のぼりたて」と呼ばれるようになったと伝えられています。
「くまもと地名あらかると」『熊本日日新聞』2009年6月8日
〔姫石神社(上天草市姫戸町)〕
景行天皇が八代海を南へ航行された時、天皇が乗っていた船が暴風に遭って今にも転覆しようとしました。お供をしていた姫君がその嵐を沈めるために、海に身を投じるとたちまち海は静まりました。姫は白い石となって岸辺にうちあげられ、その石を祭神として祀ったのが姫石神社で、この一帯が姫浦と呼ばれるになったといいます。
また、別の言い伝えとして、天皇と別れなけらばならなくなった姫が天皇に恋焦がて病死してしまい、その霊が石となって残ったので村人が祀ったという話があります。
ただ、現地に行って見てきた石碑の社記には、また別の話が刻まれていました。故老たちの談によれば、美しい姫が宝を入れた袋を乗せた船でこられ、ハタヒの大樹、海に覆いかぶさる楠の巨木の杜の鼻に船を止められて、こここそ神宿る地と定住され、この船は船石となり、袋は袋石となったそうで、二つ併せて姫石と呼ばれましたとあります。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
姫石神社社の記
〔二間戸(上天草市姫戸町二間戸)〕
天皇の御座船が姫浦に着岸した一方で、御付きの船は諏訪の浦に着いたといわれています。ちょうど冬の季節で寒風が吹き荒れて凍えそうになり、戸板を二枚立てて寒風をしのいだので諏訪の浦の一帯を二間戸と呼ぶようになったといいます。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
〔御所浦(天草市御所浦町)〕
御所浦は、島の西側の浦に船を泊めて、しばらく仮泊するための行宮が置かれた天皇の御座所であったと伝えられています。
また、御所浦島ではアンモナイトをはじめとする中生代白亜紀頃に生息していた生物の化石を含む岩石がいたるところで観察することができます。伝説にはありませんが、景行天皇が御所浦に滞在したのは石となった生物を見聞するために立ち寄ったのかもしれません。また、八代・有明海の沿岸には入水して石となったお姫様の伝説がありますが、このような物語の発想の起源が御所浦島に見られる化石ではないかと考えるのも面白いのではないでしょうか。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
〔嵐口(あらぐち)(天草市御所浦町嵐口)〕
景行天皇が九州巡幸の折、東風にあおられたため当地に寄港しようとしましたが、波が高くて寄港できなかったことから、当地を嵐口と呼ぶようになったという伝承があります。また、嵐に遭われて島の東北部の内側に漂着して難を避けられた天皇が「ここは、嵐の口だ」と言われたという伝えもあります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
〔天満宮ともづな石跡(天草市御所浦町)〕
景行天皇の船のともづなを繋いだとされる石が御所浦島の天満宮に残っていて、「ともづな石」と呼ばれています。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
〔宮田(みやだ)(天草市倉岳町宮田)〕
景行天皇が宇土からの帰途、御所浦島に宿泊した際に対岸の当地の田から良質の米を献上したことにちなむとする伝承があります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
〔白縫塚(しらぬいつか)(上天草市松島町阿村)〕
金毘羅山(地元では苓東山と呼ばれている)の塔の峯にある古い石碑の碑文に「・・十二代景行天皇・・・怪火御照ましまし逍遥し給う霊地にして・・・」の文字が読みとれるとあります。景行天皇が「不知火」の点滅するのをご覧になって付近を逍遥された霊地として石碑が建てられたと考えられています。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年
〔教良木(きょうらぎ)(上天草市教良木)〕
景行天皇が御所浦に行幸されたとき、薬木(くすりぎ)が献上されました。この薬木は不老長寿の霊薬で、その薬木は清木(きよらぎ)だとされ、きよらぎ→きょうらぎ(教良木)になったという言い伝えがあります。
濱名志松『天草伝説集』葦書房 昭和61年