1969/04/09に生まれて

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『景行天皇伝説を巡る冒険』10.山鹿地方の景行天皇伝説

2022-11-24 21:15:00 | 景行天皇の記録
【山鹿地方の景行天皇伝説】
〔西牧蓮照寺と菅原神社の帝石(山鹿市西牧)〕
景行天皇が九州巡幸の際、この地に寄られ、この石に休まれて村人に慈しみをほどこされたという言い伝えがあります。
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
山鹿市史編纂室 『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月


蓮照寺の帝石

〔若宮神社の神石(山鹿市熊入)〕
景行天皇が九州巡幸の際、乗っておられた馬が病気になったので祈願をされました。その時、病に苦しむ馬が暴れて足に石があたって三つに割れました。すると、不思議なことに馬の病が治ったので、馬の身代わりになったと喜ばれ、牛馬の神とするよう仰られ、以来、神石として祀られたと言われています。
荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53年
『神石の由来』熊入若宮神社案内板

〔八嶋八柱神社(山鹿市鹿央町千田)〕
景行天皇が九州巡幸の際、玉名から菊池川を遡り山鹿に到着されたときのこと。当時、一帯は茂賀の浦と呼ばれる湖で、その南の方に八つの光りが昼夜をとわず見えたので侍臣を遣わして見聞したところ、頭が八つの大亀が現れ「寒言神尊利根陀見(カーン、コーン、シーン、ソーレ、リー、コーン、ダケーン)」と奇妙な声を発したことから、これを誅殺してその霊を祀ったことがこの神社の由来とされています。別の伝説として、茂賀の浦に景行天皇を出迎えた阿蘇大明神が湖の底から不思議な声を聞き、鍋田の石壁をひと蹴りすると湖水がどっと流れ出し、そこに現れた八頭の大亀を景行天皇とともに退治したという物語もあります。
千田聖母八幡宮案内板
『熊本の伝説』熊本県小学校教育研究会国語部会編 日本標準発行 昭和53年


〔大宮神社(山鹿市山鹿)〕
大宮神社の主祭神は景行天皇です。景行天皇が九州巡幸の折、この地に行宮を営み、その跡地に天皇を祀ったことが始まりとされています。また全国的にも有名な8月16日の例祭である山鹿灯籠祭は、当地巡幸の際に茂賀の浦で濃霧に阻まれ難渋している一行を里人が松明をかかげて出迎えたことに由来するという伝えがあります。
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年
『鹿郡旧語伝記』

〔彦嶽宮(山鹿市三岳)〕
彦嶽宮については『ふりさと山鹿』でも詳しく取り上げられていますが、以下、彦嶽宮ホームページより全文を引用して伝説を紹介します。

大昔は、震岳のことを踏寄峠(ふみよせがとうげ)と云った。
其故は、彦岳と不動岩の首引きの際二人の踏み寄せによって出来た山の意であった。
天皇が、土蜘蛛津頬を誅し、菊池川を上って山鹿郡大宮の地に行在所を設けられ、この地方を巡狩されるに当たり、或る日津留近津宮(ちかづのみや)に立たれた。
現在の池田橋の上手、段ボール会社の前一帯が、小字近津宮と呼ぶ。お野立所は有働家墓地の南数十米の所だったと伝えられ五十年くらい前までは小高い岡に「近津宮行在所」の銘碑があった。余談になるが、この時天皇一行をむかえたので、迎田氏と呼んだと言うが、察するに部落の代表か或いは接待役ではなかっただろうか。
次いで、天皇は古江正玄(古江、一森の祖と云う)の案内で踏寄峠にお上りになった。以来この山を高天山と呼んだようである。天皇のお上りになった高い山の意だったろう。
後日、宇土の木原山に逃げていた津頬の残党が勢力を回復して逆襲をしてくると、天皇は軍を、現在の鹿央町高山、浦山口にすすめられ防戦されたが、背水の陣も破れ遂に茂賀浦(志々岐から菊池までは一面の湖沼であったと云う)を渡って、大宮、白石、不都原と転戦され、遂に高天山に籠城されることになった。
籠城に最も困られたのは水であった。天皇が須訪の宮に水を乞われると、山の東南の地に清水が湧出した。(小坂の宮には須訪宮を合祀してあると云う)
更に、八代の妙見宮に戦勝の祈願をこめられると、三つの火の玉が南の空から飛来して、二つは山鹿大宮の杉にかかり、一つは高天山上に来り敵陣を照明する。七月十六日の夜半であった。
賊将之を卜して曰く「之援軍の来る報せならん、速やかに勝を決すべし、然らずんば我腹背に敵を受けん」と。翌朝未明賊将は全軍に総攻撃の命を下す。正に蟻の如く賊軍四方より高天山の頂上めがけてよじ登る。
天皇この時、一向に天神地祇の加護を祈念されると、日子岳(彦岳)の頂上に、一人の白覆面白馬の士が現れ「我はこの山の鬼神なり」と、弓に白羽の矢つがえ満月の如くひきしぼる。その矢ひょうと放てば、高天山の七合目ばかりにっはっしと立つ。同時に高天山は全山大揺れ、木は倒れ岩は落つ。賊兵折り重なって谷間谷間に転がり落つ。
天皇の軍、いざ此の時とばかり山上から攻め下れば、大勢にわかに逆転、瞬時にして勝敗決す。賊将命からがら一人日向の国へ逃げのびたと云う。
天皇は神恩を謝し、高天山に八神殿を祀り(後千田の八島、下吉田宮にまつられていると云う)彦岳に三宮を祀り、従者吉田某をこの地に止め、神事に当たらせ給うた。下宮の吉田家はその後裔と伝えられ兼隆氏の八十一代に及ぶと云う。
阿蘇へ向かって天皇が出立された後で、土地の人々は高天山のことを揺ヶ嶽(ゆるぎがたけ)と呼ぶようになった。

彦嶽宮リーフレット
彦嶽宮webサイト 『https://hikotakegu.localinfo.jp/』
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月


彦嶽宮の楼門と大杉

〔吉田八幡宮(山鹿市下吉田)〕
景行天皇が九州巡幸の折、高天山(震岳)に建立したハ神殿をのちに遷座したところと伝えられています。
なお、このハ神とは、第10代崇神天皇に「湖を乾かすべし」と命令された阿蘇大明神が湖岸に立って「海神、吾を知れりや」と叫ぶと、そこから八頭大亀の魂神が火龍のごとく立ち昇り高天山(震岳)に現れた神です。そして、肥前国高来縣にいた景行天皇もこの火をご覧になることができたたため、高天山(震岳)に八神殿を祀ったとされています。
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
『鹿郡旧語伝記』


吉田八幡宮


〔山ノ井(山鹿市菊鹿町下内田島田)〕
景行天皇が九州巡幸の折、当地に鳳輦(ほうれん:鳳凰の飾りがある神輿、天皇の乗物)を停められところと言われいます。このとき、天皇が水をお求めになり、付近の甘美な湧水が献上されましたが、後に埋もれてしまってそこに井戸が作られたことに因んで山ノ井と呼ばれるようになったと伝えられています。
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
徳丸家文書『山鹿郡誌』明治
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