【益城、菊池地方の景行天皇伝説】
〔御船(上益城郡御船町)〕
御船は景行天皇の九州巡幸の折、有明海からこの地に御船を寄られて阿蘇方面に向かわれたことから「御船」の地名が起こったと言われています。また、飯田山常楽寺の平安時代の末期の創建の際、支那から運ばれた経巻や仏舎利・宝塔等を積んだ官船が着岸したことに由来するという伝えもあります。
このほか、緑川上流では、山川の険しさを頼りにして景行天皇に従わなかった土着の豪族がいたことが伝えられています。
沖田昌進『御船史蹟記』文化新報社 昭和32年
荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53年
『肥後國誌』青潮社 昭和46年
〔御所(上益城郡山都町御所)〕
阿蘇外輪山の南側の山間地に御所と呼ばれるところがあります。この地に景行天皇が行宮(あんぐう)を設けたといわれ、細長い台地を挟むようにして東御所川と西御所川が南流しています。
荒木精之、牛島盛光、奥野広隆、浜名志松 『熊本の伝説 日本の伝説26』角川書店昭和53年
〔津久礼(つくれ)(菊池郡菊陽町津久礼)〕
景行天皇が熊襲を征伐して還幸されるとき、この地を通られました。そのころ、この辺りは広い原野で、行幸の道もない荒地であったため、ムラの西端にあった巨岩の上にお立ちになり、人びとを集めて丘地を開かせました。そのとき「よくつくれ」と言われたので、その後、この地が津久礼と呼ばれるようになったと言われています。また、このときお立ちになった巨岩が現在も「立石」として祀られています。
また、むかし阿蘇大明神が数鹿流(すがる)という所をけやぶって阿蘇湖の水が流れたとき、この地にけやぶった土塊(つちくれ)がとどまったことから「つくれ」と呼ばれるようになったという説があります。
大塚正文『熊本昔むかし』熊本出版文化会館 2006年
『熊本県地名大辞典』角川書店 昭和62年