『三玉山霊仙寺を巡る冒険』
〜1. 首引き伝説〜
「あの赤色は、山姥に食われた子供の血の色ばい、いたらんこつばしたら山においていくけんね!」楽しいドライブが一転、恐怖の家族旅行になった。そのとき、父親が指差したのは阿蘇山中腹(杵島岳)の道路沿いに露わになっていた赤褐色のゴツゴツとした岩肌の溶岩だった。
しかし、幼い自分はそれを本物の血の色と素直に信じ、しばらくの間、阿蘇山には本物の山姥が住んでいると思い込んでいた。これは私の悲しい?思い出だが、山鹿地方には有名な流血の言い伝えが残っていることをご存知だろうか。
熊本市内から国道3号線を北上し、起伏を伴った北区の植木町を過ぎると景色が一変。そこは、現在、完全に陸地化した菊池盆地が広がっているが、かつては「茂賀の浦」と呼ばれていた湖だったのだ。その平坦な直線の道を山鹿市街地へ走らせると盆地の北縁に連なっている山々が私達に近づいてくる。菊池川を渡る頃には、中華ナベをひっくり返したような丸みを帯びた山が真正面にどっしりと構えている。彦岳だ。地元では彦岳権現として親しまれている。その右隣には彦岳とは対照的に爪でひっかいた様な谷筋が特徴的で山頂付近に二つの凹みがあるのが震岳(ゆるぎだけ)。さらにその右に視点を移すと、連なった山稜の真ん中あたりの山腹にそそり立った、まるで男性シンボルのような巨岩塔に目をむいて思わず声を漏らしてしまいそうになる。不動岩だ。この不動岩、奇岩名勝として熊本二十五景のひとつに数えられていて、その昔、山伏達がこの山中にこもり不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する。遠目にはそれほど大きく見えないが25階建てのタワーマンションに匹敵する。
本日紹介するのは、この県北に位置する山鹿市三玉(みたま)地区〜三岳(みたけ)地区に伝わる不動岩と彦岳権現の首引きの話だ。
その昔、不動岩とその西北にある彦岳権現は義兄弟だった。母は、かねてから継子の彦岳権現には、まずい大豆やそら豆ばかりを食べさせていた。一方、実子の不動岩にはおいしい小豆ばかり与えて大事に育てていた。いよいよ先祖の神々から引き継いできた「水、木、火」の三つの玉をどちらかに授けるため、力比べをさせることにした。不動岩と彦岳権現の中間にある震岳の頂上に大綱を渡してそれぞれの首に綱を掛けて引合いが始まった。すると、小豆ばかり食べて育った不動岩はふんばりがきかずに彦岳権現に力負けし、首が吹き飛んで「一ツ目神社」の上の丘に落ちたのだった。そこには「首石岩」が残り、吹き出した血によって三玉地区一帯の土が赤色に染まり、また、綱引きのとき、両者の力で土が盛り上がってできた山が現在の震岳であり、この山の頂上のふたつの凹地は綱引きの縄跡と言われている。
なんともはや俗世的かつ凄惨な物語だ。しかし、地域の山や土の特徴を見事にとらえている点において、この物語は秀逸と言うほかあるまい。この物語は、いにしえの三玉地区の人々が、大地がどのようにして作られたのか理解したいという強い思いによってつむぎ出されたものであるが、その卓抜した想像力には脱帽する。
だが、その思いは現代の「地質屋」も負けてはいない。次回からは、私にとっては偉大な先達にあたる近代の地質学者、技術者達が明らかにしてきた三玉地区の山々を含めた山鹿・菊池の大地の成り立ちについて紹介していきたいと思う。しばらくお付き合い願いたい。
1.首引き伝説 参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「彦岳権現と不動岩との首引きの話」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.792-793
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「不動様と権現様」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
※画像は、彦岳、不動岩、それと自作の鳥瞰図
〜1. 首引き伝説〜
「あの赤色は、山姥に食われた子供の血の色ばい、いたらんこつばしたら山においていくけんね!」楽しいドライブが一転、恐怖の家族旅行になった。そのとき、父親が指差したのは阿蘇山中腹(杵島岳)の道路沿いに露わになっていた赤褐色のゴツゴツとした岩肌の溶岩だった。
しかし、幼い自分はそれを本物の血の色と素直に信じ、しばらくの間、阿蘇山には本物の山姥が住んでいると思い込んでいた。これは私の悲しい?思い出だが、山鹿地方には有名な流血の言い伝えが残っていることをご存知だろうか。
熊本市内から国道3号線を北上し、起伏を伴った北区の植木町を過ぎると景色が一変。そこは、現在、完全に陸地化した菊池盆地が広がっているが、かつては「茂賀の浦」と呼ばれていた湖だったのだ。その平坦な直線の道を山鹿市街地へ走らせると盆地の北縁に連なっている山々が私達に近づいてくる。菊池川を渡る頃には、中華ナベをひっくり返したような丸みを帯びた山が真正面にどっしりと構えている。彦岳だ。地元では彦岳権現として親しまれている。その右隣には彦岳とは対照的に爪でひっかいた様な谷筋が特徴的で山頂付近に二つの凹みがあるのが震岳(ゆるぎだけ)。さらにその右に視点を移すと、連なった山稜の真ん中あたりの山腹にそそり立った、まるで男性シンボルのような巨岩塔に目をむいて思わず声を漏らしてしまいそうになる。不動岩だ。この不動岩、奇岩名勝として熊本二十五景のひとつに数えられていて、その昔、山伏達がこの山中にこもり不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する。遠目にはそれほど大きく見えないが25階建てのタワーマンションに匹敵する。
本日紹介するのは、この県北に位置する山鹿市三玉(みたま)地区〜三岳(みたけ)地区に伝わる不動岩と彦岳権現の首引きの話だ。
その昔、不動岩とその西北にある彦岳権現は義兄弟だった。母は、かねてから継子の彦岳権現には、まずい大豆やそら豆ばかりを食べさせていた。一方、実子の不動岩にはおいしい小豆ばかり与えて大事に育てていた。いよいよ先祖の神々から引き継いできた「水、木、火」の三つの玉をどちらかに授けるため、力比べをさせることにした。不動岩と彦岳権現の中間にある震岳の頂上に大綱を渡してそれぞれの首に綱を掛けて引合いが始まった。すると、小豆ばかり食べて育った不動岩はふんばりがきかずに彦岳権現に力負けし、首が吹き飛んで「一ツ目神社」の上の丘に落ちたのだった。そこには「首石岩」が残り、吹き出した血によって三玉地区一帯の土が赤色に染まり、また、綱引きのとき、両者の力で土が盛り上がってできた山が現在の震岳であり、この山の頂上のふたつの凹地は綱引きの縄跡と言われている。
なんともはや俗世的かつ凄惨な物語だ。しかし、地域の山や土の特徴を見事にとらえている点において、この物語は秀逸と言うほかあるまい。この物語は、いにしえの三玉地区の人々が、大地がどのようにして作られたのか理解したいという強い思いによってつむぎ出されたものであるが、その卓抜した想像力には脱帽する。
だが、その思いは現代の「地質屋」も負けてはいない。次回からは、私にとっては偉大な先達にあたる近代の地質学者、技術者達が明らかにしてきた三玉地区の山々を含めた山鹿・菊池の大地の成り立ちについて紹介していきたいと思う。しばらくお付き合い願いたい。
1.首引き伝説 参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「彦岳権現と不動岩との首引きの話」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.792-793
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「不動様と権現様」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
※画像は、彦岳、不動岩、それと自作の鳥瞰図
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