『三玉山霊仙寺を巡る冒険』
4.〜震岳(1)〜
震岳(ゆるぎだけ)にまつわる言い伝えや昔話はいくつかある。そのうち2つは「まんが日本昔ばなし」にも取り上げられていて、どちらの物語にも「岩」が登場する。
その昔、村人が買い物に出た帰り道に食べ物を盗む狐がいて、これに怒った村人が毒団子で狐の親子を殺してしまう。それに一人反対していた石切職人の竹七爺さんは、とむらいとして石切場に見事な観音様を彫んで村から姿を消した。これは「きつねの道送り」という話しだ。竹七爺さんが彫った観音様は、小坂地区の震岳の北側の阿蘇火砕流によってできた「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」の石切場跡に磨崖仏として見ることができる(画像参照)
もう一つは、上吉田地区の震岳の南側の集落に伝わる「鬼の足かた」だ。その昔、洪水被害や鬼の狼藉に困っていた村に、太一という賢く勇敢な少年がいた。ある日のこと彼は山で鬼に捕まってしまう。太一は震岳が崩れやすいことを知っており、そこで鬼のプライドをくすぐって震岳の頂上から飛び降りさせることを思いつく。鬼は飛び降りる際、がけ崩れもろともバランスを失って、着地したところに転がってきた大岩で重症を負って山奥に逃げ帰ったという話しだ。そして、その「結晶片岩(けっしょうへんがん)」の大岩には今でも足かたが残っていて、その大岩は氾濫しやすい川の流れを受けとめていたと言われている(画像参照)。
さらにもう一つ。震岳の頂上付近には、景行天皇が刀を研いだと言われる「砥石が鼻」がある。これは、「変はんれい岩」だ(画像参照)。
震岳の登山に先立っては下見が必要だった。地形図には山頂への4ルートが「徒歩道」として記載されているが、そのような道は人の手が入らなければ、高温多湿の九州の低山では、植生によってまたたく間に人を寄せ付けない廃道になる。
実のところ、私は景行天皇を気取って北側の熊野座神社から尾根沿いルートで登りたかったのだが、入山できそうな箇所は見当たらなかったため、別の日にようやく見つけ出した南側の寺島集落から登ることにしていた。
出発地は震岳の西麓の法花寺(ほっけじ)集落とした。 PTA役員時代にお世話になったNさんの実家宅があることを以前から知っていて機会があれば遊びにいきたいと思っていたのだ。
Nさんは、昨秋、集落の人達と頂上を目指したとのことだったが、倒木やがけ崩れなどの急勾配で撤退していた。そういうことや出発時の小雨も相まって私を見送るNさんの顔には心配の二文字が浮かんでいた。しかも、彦岳と震岳をいっぺんに登ってくるという計画には、半ば呆れている様子だった。
ザックにはレインウェアのほかテーピング、サバイバルシートなどの安全グッズや1リットルの水分、補給食。それとミラーレス一眼カメラとノコギリ。スマホに予備のコンパス、地図類、ヘッドランプ。フル装備だ。走るには重いが、春先とは言え荒廃が予想される山を舐めてはいけない。雨も侮れない。
地形図には記載されていない建設まもない砂防ダムの横を通り抜けるとそこから登山道が始まる。沢沿いの登山道は、予想通り土石流や崖崩れでたまった角礫だらけだ。ただ、角礫はどれも似たような色と形で、震岳がまぎれもなく「結晶片岩(けっしょうへんがん)」であることを教えてくれる。その黒灰色の角礫は直方体に近い形をして周縁部の縞模様が特徴的だ。まるで分厚い辞書のように見える四角いものまである。
いよいよ本格的な登りにさしかかるが、細い幹に巻かれてある古い赤テープの目印だけが登山道であることをどうにか教えてくれる程度で、見通しは極めて悪く倒木も多い。倒木は山火事になれば優れた燃料になるだけでなく、倒木跡のえぐれがさらに拡大して大きな崖崩れに発展する。余計なことをいちいち想像してしまう。職業病だ。
しかし、右手にはノコギリ、日頃の鬱憤ばらしとばかりに藪を切り開きながら探検気分を十分に味わって登頂することができた。頂上付近には「変はんれい岩」の不安定で今にも転げ落ちそうな大岩がたくさんあった。そして尾根沿いには古道が残り、頂上の近くには草庵跡と思われるような平場があった。瓦片の散乱も目にした。その昔は頻繁に人の往来があったことがうかがわれた。
そして、頂上には景行天皇が最初に祀ったとされ、明治の頃に再建された「ハ神殿」の石祠があった(画像参照)。
つづく
参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「狐の道おくり」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.796-798
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「きつねの道おくり」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「おにの足かた」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
溶結凝灰岩に彫られた観音様 磨崖仏
鬼の足かたが残る結晶片岩
砥石が鼻 景行天皇が刀を研いだといわれる変はんれい岩
震岳頂上にある八神殿
4.〜震岳(1)〜
震岳(ゆるぎだけ)にまつわる言い伝えや昔話はいくつかある。そのうち2つは「まんが日本昔ばなし」にも取り上げられていて、どちらの物語にも「岩」が登場する。
その昔、村人が買い物に出た帰り道に食べ物を盗む狐がいて、これに怒った村人が毒団子で狐の親子を殺してしまう。それに一人反対していた石切職人の竹七爺さんは、とむらいとして石切場に見事な観音様を彫んで村から姿を消した。これは「きつねの道送り」という話しだ。竹七爺さんが彫った観音様は、小坂地区の震岳の北側の阿蘇火砕流によってできた「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」の石切場跡に磨崖仏として見ることができる(画像参照)
もう一つは、上吉田地区の震岳の南側の集落に伝わる「鬼の足かた」だ。その昔、洪水被害や鬼の狼藉に困っていた村に、太一という賢く勇敢な少年がいた。ある日のこと彼は山で鬼に捕まってしまう。太一は震岳が崩れやすいことを知っており、そこで鬼のプライドをくすぐって震岳の頂上から飛び降りさせることを思いつく。鬼は飛び降りる際、がけ崩れもろともバランスを失って、着地したところに転がってきた大岩で重症を負って山奥に逃げ帰ったという話しだ。そして、その「結晶片岩(けっしょうへんがん)」の大岩には今でも足かたが残っていて、その大岩は氾濫しやすい川の流れを受けとめていたと言われている(画像参照)。
さらにもう一つ。震岳の頂上付近には、景行天皇が刀を研いだと言われる「砥石が鼻」がある。これは、「変はんれい岩」だ(画像参照)。
震岳の登山に先立っては下見が必要だった。地形図には山頂への4ルートが「徒歩道」として記載されているが、そのような道は人の手が入らなければ、高温多湿の九州の低山では、植生によってまたたく間に人を寄せ付けない廃道になる。
実のところ、私は景行天皇を気取って北側の熊野座神社から尾根沿いルートで登りたかったのだが、入山できそうな箇所は見当たらなかったため、別の日にようやく見つけ出した南側の寺島集落から登ることにしていた。
出発地は震岳の西麓の法花寺(ほっけじ)集落とした。 PTA役員時代にお世話になったNさんの実家宅があることを以前から知っていて機会があれば遊びにいきたいと思っていたのだ。
Nさんは、昨秋、集落の人達と頂上を目指したとのことだったが、倒木やがけ崩れなどの急勾配で撤退していた。そういうことや出発時の小雨も相まって私を見送るNさんの顔には心配の二文字が浮かんでいた。しかも、彦岳と震岳をいっぺんに登ってくるという計画には、半ば呆れている様子だった。
ザックにはレインウェアのほかテーピング、サバイバルシートなどの安全グッズや1リットルの水分、補給食。それとミラーレス一眼カメラとノコギリ。スマホに予備のコンパス、地図類、ヘッドランプ。フル装備だ。走るには重いが、春先とは言え荒廃が予想される山を舐めてはいけない。雨も侮れない。
地形図には記載されていない建設まもない砂防ダムの横を通り抜けるとそこから登山道が始まる。沢沿いの登山道は、予想通り土石流や崖崩れでたまった角礫だらけだ。ただ、角礫はどれも似たような色と形で、震岳がまぎれもなく「結晶片岩(けっしょうへんがん)」であることを教えてくれる。その黒灰色の角礫は直方体に近い形をして周縁部の縞模様が特徴的だ。まるで分厚い辞書のように見える四角いものまである。
いよいよ本格的な登りにさしかかるが、細い幹に巻かれてある古い赤テープの目印だけが登山道であることをどうにか教えてくれる程度で、見通しは極めて悪く倒木も多い。倒木は山火事になれば優れた燃料になるだけでなく、倒木跡のえぐれがさらに拡大して大きな崖崩れに発展する。余計なことをいちいち想像してしまう。職業病だ。
しかし、右手にはノコギリ、日頃の鬱憤ばらしとばかりに藪を切り開きながら探検気分を十分に味わって登頂することができた。頂上付近には「変はんれい岩」の不安定で今にも転げ落ちそうな大岩がたくさんあった。そして尾根沿いには古道が残り、頂上の近くには草庵跡と思われるような平場があった。瓦片の散乱も目にした。その昔は頻繁に人の往来があったことがうかがわれた。
そして、頂上には景行天皇が最初に祀ったとされ、明治の頃に再建された「ハ神殿」の石祠があった(画像参照)。
つづく
参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「狐の道おくり」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.796-798
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「きつねの道おくり」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「おにの足かた」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
溶結凝灰岩に彫られた観音様 磨崖仏
鬼の足かたが残る結晶片岩
砥石が鼻 景行天皇が刀を研いだといわれる変はんれい岩
震岳頂上にある八神殿
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