近江長岡の山城跡群の謎
◆長谷川
天文三年浅井亮政饗応記とは
1534年を記された文献資料で
当時の北近江の武家社会序列
を明確に表す指標と言えます。
◆対談者
熊谷下野守の所有する中世城郭
10城を長谷川先生と見学し彼の
当時の湖北での上席権力席次に
納得致しました。さて京極加賀
守家は坂田郡長岡に隠然たる領
地を所有して支配する有力勢力
と言われております。
◆長谷川
天文三年浅井亮政饗応記による
京極加賀守家いわゆる加州家は
やはり江北でも上席の武家階級
で上層をしめてる歴然たる武家
階層だと言えると思いますが
従って城郭や城館を多数所有し
てたと見るべきでしょう。
◆長谷川
加賀氏の衰退は徳永眞一郎氏
の近江源氏の系譜で述べられ
ております。
◆助言者
加州家は一般に馴染みがない
がしかし加州屋敷は上平館の
古図には記載されています!
◆対談者
これだけの坂田郡で有力武家
が時代の推移により衰退して
歴史の表舞台から消滅した事
は仕方がない事でしょう負組
の身とはいつも歴史が証明を
するように隠滅や抹消される
運命にあるのです。
◆長谷川
私の元に集合され学ばれる人
はスレていない純粋ピュアー
なインテリの人も時に多く。
こたび坂田郡長岡の山城の
城郭群を真摯に学ぼうとする
人と長岡の巨大山城を求めて
現地踏査に入りましたしかし
城があまりに多数存在する事
が解り現代社会状況を鑑みる
と精神的に深く落ち込みます。
果たして巨大な城郭遺跡群を
私は射程圏内に補足したが
見学を加えてよいものかと?
◆参加者1
長谷川先生の城址見学で一番
驚く事はネットにも遺跡台帳
も城郭図書に載ってない城の
見学その巨大な城址を見た時
の驚き他者に説明不可能です。
◆参加者2
こんなのアリかよの想定外の
奇跡に近い見学会を体験した
これを他会の人に表現しても
信じて貰えないのが現実です。
◆長谷川
それは私のコミユニケーション
表現が極めて下手だと言う事で
す。例えばタコの具が大きくて
特上に美味しい岩塩などで調理
された特上たこ焼き三個セット
と言ってもその話聞いただけの
人はああそうか程度の反応しか
ないが 直接3個の食事の匂い
暖かさを感じて食事をしてる人
を見たら人は自分も欲しくなる
▼長谷川博美 素描図
◆長谷川
近江長岡駅で下車しても
特大の山城3城は先ず発見
は不可能です。特別な道
選択して行かないと無理
◆一般
そもそも近江長岡に大きな
城が存在した事などは郡誌
にも城講演も聞いていない。
◆長谷川
3000年頃には常識になって
いるかもしれません。私の
生命は長く持ちませんので
歴史の現実京極加賀守一党
の巨大山城を見学したい!
◆長谷川杞憂
しかし私が2~3名で見学会
を開いても武家城館の隅櫓
を見学されずに城跡を飛び
まわっておられる人を見た
場合私は研究家学者として
は幻滅する折角調査したる
甲斐がゼロに消滅して虚し
い後悔の念を強く抱きます。
残念である私の本質とは異
なる趣旨や世界に違和感を
強く感じてしまう勿論これ
は見学会開く私にこそ責任
が80%存在し明確な趣旨の
解説提示が大事になります。
◆質問者
長谷川さんは絵空事を言って
おられるのです?長岡に山城
など存在しないそんなの常識
◆対談者
それは故意に作られた焼き付
けられた記憶であり私は現地の
城址へと行ってみたい!現場に
は現場の真実が残されています。
◆長谷川
私は土塁や櫓台跡見学する
タイプの研究家なのですよ。
だから矢倉台は必ず写真で
撮影が可能です。城跡犬走
や切岸を見る意志のない人
と城跡見学しても櫓跡見な
い切岸見る習慣のない人と
見学会しても城ではないと
暴言を吐かれてその見学会
はつぶされてしまう。これ
見学会のやりがいなき徒労
に終わってします。私とは
城跡走り回りのマラソンを
開催してない訳です。私は
来られる方の趣旨を最大限
に理解しようと努力してま
すが城を見る方の個性とは
千差万別の対応求められる。
◆批判者
長谷川さんは誇大妄想癖が
ある長岡に山城などないし
加賀氏など聞いた事ない!
その城の縄張図書きました?
◆長谷川
縄張図を作成し遺跡鳥観図
を作成しております。この
城巨大城郭群のほんの一部
全長110mで約一町の長さ
がありますよ。数か所の城
をそそっかしく飛び回る事
は私の趣旨でなく巨大100m
の丸つまり「丸」を丁寧に
見学する事が趣旨なのです。
◆質問者
それらの城址の図面や解説は
どこで実施される予定ですか?
京極加賀守系の巨大山城群が
発見された事はこれはトップ
ニュースに相当する大事件だ!
◆長谷川
私にには相談相手がいません。
私のブログは無視されている。
私は理解者支持者がゼロです。
不人気の私は講演や見学無理
第一猫の子一匹見向きもされ
ない。巨大な城址を眼前にし
これを見られず歴史を語る人
は多い事でありましょうが。
▼京極高数ウイキペデイア
京極 高数(きょうごく たかかず)は、室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城国守護、出雲国・隠岐国・飛騨国守護。
生涯
[編集]京極高詮の次男として誕生した。
応永18年(1411年)、飛騨の国司姉小路尹綱(あねがこうじ ただつな)が幕府に背いた飛騨の乱が起きると、幕府軍の総大将に任命され、越前国の朝倉氏・甲斐氏、信濃国の小笠原持長らと共に5千余りの兵を率いて鎮圧している。応永28年(1421年)から正長元年(1428年)まで侍所頭人と山城守護も務めた。
応永20年(1413年)に兄の高光が亡くなり甥の持高が跡を継ぐが、持高も永享11年(1439年)に子を残さないまま亡くなる。『薩戎記』はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。
嘉吉元年(1441年)6月24日、赤松満祐が開いた酒宴に6代将軍・足利義教、諸大名・公家らと共に招かれ、宴の最中に義教が赤松氏の家臣により殺害される(嘉吉の変)。管領である細川持之をはじめ多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い、討たれた。
京極宗家の家督は持高の弟の持清が継いだ。高数には子がおり、足利義教から偏諱(「教」の字)の授与を受けた長男の教久(のりひさ)は別家し(=京極加州家)、次男の高忠は多賀氏の家督を継いだ。