城郭 長谷川博美 基本記録

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令和4年長浜新春特別歴史講演「小谷城/浅井氏/西浅井/塩津谷/熊谷氏」

2022-01-15 03:20:00 | 講演予定
衝撃 城郭ビイスタ論 上文字クリック
 
◆常識様
新聞配達の人は、配達する家の場所や順序
を知ってます。だから新聞配達員と言える。
 
◆対談者
新聞配達の人も牛乳配達の人も確実に地理
を知っているから正常な配達業務が出来る。
 
◆矛盾様
世の中とは、配達先も地理も全く知らない
人が新聞牛乳配達論と題して論説する訳よ。
 
◆一般者
新聞配達の人も牛乳配達人も、各戸の玄関
が何処にあり配達する場所を知っいて確実!
 
◆みんな
城や砦がどのように分布しているか知りた
い、城の入口が何処か?知ってる事が基本!
 
◆反論者
ふん!9カ所もの砦や18カ所もの城塞の跡を
知る必要などない!歴史とは現実や真実など
を無視する学門分野だ!真実や現実をなど知
って何になる?青い事を言う正論などが通用
すと思うなよ!学門は受験勉強に合格する事!
 
◆一般様
いいえ現代の様々な宅配業務は地理や宅地
の配置を知りナビを駆使するから隆盛した。
地理を知り現実行動しなければ実践でない。
 
▼塩津 岩熊城山 山頂土塁 現実は足元に残っている。
▼西浅井山城の横堀の迫力 現実は荒涼たる原野の中
 
令和4年長浜新春特別歴史講演
「小谷城/浅井氏/西浅井/塩津谷/熊谷氏」
 
◆哲学者のメール
Eureka(エウレカ)はギリシャ語に由来する
感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶと
きに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者
であるアルキメデスが叫んだとされる言葉です。
長谷川先生の学門の世界はギリシャのエウレカ
や東洋の悟り、仏教の大悟、に相当するものが
ある「悟」と言う漢字の意味は「心」の「吾」で
自分が会得し理解すると言う意味です長谷川
先生の城郭見学や城郭ビイスタ論には悟りや、
気付きや、大悟が存在する小賢しき表層知識
の網羅羅列でない、歴史城郭の根本要諦です!
 
 
◆対談者
令和4年1月15日の長浜臨湖での長谷川先生の
歴史城郭講演大変、巷間で話題になってます!
講演内容は室町戦国時歴史城郭フアン必須と
もう私のところにも講演内容の問い合わせが
次々に入って来ています。有意義かつ特別な
歴史講演が展開される事を私達本格歴史城郭
フアンは期待しております。15日の講演内容
を是非ともお知らせ下さい!長谷川先生の事
ですから神社史、交通史、民俗学、考古学、
城郭分布調査の実績など幅広い総合歴史観に
基ずいた非常に興味の深い内容にりますね!
 
◆質問者
城郭分布布陣配置は歴史城郭の根本で基本!
9城が塩津谷に存在する意味とはなんですか?
 
◆対談者
現代企業で言うと9カ所の事業所や営業所や
会社や力のある企業の塩津熊谷氏と言う事。
物流会社「日通」こと日本通運の前身組織
も塩津に存在したと言う事ですから令和で
言うところの塩津港はロジステック日本海
物流の発祥の地メッカとも言える重要な地
その塩津に存在するめくりめく多数の城郭
遺跡を一挙に講演で解説しようと企図され
る事自体もう澁澤栄一と同じ壮烈な気概!
 
◆質問者
滋賀県北部、北近江の室町時代の殿様達のラン
キングを的確に表現している文献資料とは何?
 
◆長谷川 『浅井備前守饗応記』ですよ!
中世の北近江「広域長浜地域」でも冠婚葬祭に
おいて各自が着座する席次は家柄の伝統的格式
基づいて着座する席次が決められておりました。
中世史を研究する上で熊谷氏は北近江守護職の
京極氏に次ぐ隠然とした武家勢力であった事で
す。塩津熊谷氏の拠点城郭群を把握する事とは?
北近江「長浜市、米原市、彦根市」の室町時代
の武家勢力の範囲や動向や勢力の変遷を垣間見
る貴重な資料と言えます。当時の武士ランキング
武家社会の社会的階層位置を冷静に知る資料です。
 
◆長谷川
ここで注目すべきは『饗応記』席次第13位の
戦国大名近江浅井氏三代の初代、浅井亮政が
現代の貨幣価格で言う数千万円に相当する財
力をこの饗応に費やしている事自体が下剋上
の風雲に乗って台頭する戦国大名と室町依頼
の封建社会の様相をこの『饗応記』が浮き彫
にしている事を読み取るべきです。『饗応』
に用いられた当時としては高級食材海産物
を日本海側の越前から、内陸部の浅井勢力は
準備しなければなりません。戦国大名浅井氏
が北近江に台頭出来たのは、国人と呼ばれる
複数の土豪層を支配していた国人一揆の頭目
リダーとなりまた浅井氏滅亡の根源となった
財力は北陸越前に100年の王国を営々と営んで
きた朝倉氏の北陸海産物の北近江供給という
ロジステックな物流経済の盟主こそが越前の
朝倉氏と言う事も読めて来ます。『饗応記』
の海産物の御馳走は一切北近江では採れません
今でも北近江の祭礼で「焼鯖サバと保存食素麺」
を融合させて「鯖素麺」が存在する事は北近江
が北陸物流経済の残影を継承しているとも言え
ます。一方浅井が越前北陸の海産物流を朝倉氏
とともにロジステックに支配したがもう一つの
重要な湖「うみの道」琵琶湖湖上交通つまりは
北陸敦賀ー湖北塩津ー琵琶湖水運ー大津京師と
繫がる湖上交通の要を押えていたのは西浅井の
塩津谷に割拠し塩津港を押えていた熊谷氏支配
に属する数多くの塩津谷に厳然と残る塩津の城
の城郭分布を考慮せずは北近江の戦国史しいて
は現在広域合併して長浜市として再び編入され
た塩津の城郭群の分布を知る事が新しき長浜市
としての広域歴史解釈へと繫がると確信します。
つまり塩津だけで講演する事より現代長浜市の
全体として東浅井郡や西浅井町を再認識する事。
 
▼長浜臨湖 地図アクセス
▼長浜臨湖 正面玄関
▼予約受付 先 ウッデイパル余呉城郭係 0749-86-4145 火曜休業
▼西浅井の山城の巨大な横堀
 
 
□統轄予約先 窓口 ☎0749-86-4145
 ウッデイパル余呉城郭係り「火曜休業」
 
□日時 令和4年1月15日 土曜日
    講演開始 午後13時 約1時間30分
 
□講演場所 
 滋賀県長浜市港町4-9「無料駐車場あり」
セミナー&カルチャーセンター臨湖│長浜
 
□交通アクセス
電車 JR長浜駅より徒歩約10分余
車  長浜ICより約10分 長浜港
   琵琶湖湖周道路長浜城を目印
  
□参加費 500円
 
□講師 元滋賀県中世城郭浅井郡伊香郡分布現地調査員
    滋賀民俗学会理事 北近江歴史研究会会長
    長谷川博美(米原市在住/長浜市出身)
 
□講師履歴 
    もと
    NHK名古屋文化センター歴史城郭講師
    NHK岐阜文化センター歴史城郭 講師
    米原市近江公民館『信長公記』講師
    現
    ウッデイパル城郭フオーラム講歴史城郭師
    米原まなびあいステーシヨン城郭講座講師
 
□講演プログラム概略
 
1 旧浅井郡塩津の歴史背景「現長浜市」
  浅井郡の延喜式内社の存在と交通史
  万葉集に登場する塩津の世界
  塩津浜遺跡の存在意義と海運交通史
  平清盛小松重盛深坂峠開削工事
  『太平記』に登場する塩津熊谷氏
  (交通歴史)
 
2 近江浅井三代初代亮政
 『浅井備前守饗応記』の意義について
  (中世社会史/)
 
3 上記饗応記席次№3の熊谷下野守の事
  (中世塩津谷本舗地頭の系譜と階層)
 
4『菅浦文書』に登場する塩津勢の事
  (文献史学的考察)
 
5 足利義輝/義昭の幕臣和田惟政の甲賀七城
  本補地頭/塩津熊谷氏の塩津谷九か所の城
  (城郭分布/比較研究論)
 
6 地誌に登場する琵琶岸の熊谷氏について
  塩津の熊谷氏「長浜市塩津熊谷氏」
  今西の熊谷氏「長浜市今西熊谷氏」
  南浜の熊谷氏「長浜市南浜」
  以上は江北の三熊谷とも呼ばれる。
 
7 福井県敦賀市疋壇城攻めした近江熊谷氏
  福井県敦賀市疋田サラの山城の丹羽長秀
 
8 塩津谷9カ所の城郭分布について
 
  1 塩津浜城「塩津浜」
  2 城の坂城「祝山」
  3 城山城「岩熊」
  4 応昌寺砦「塩津中」
  5 西岡城「横波」
  6 若山城「集福寺」
  7 沓掛城「沓掛南城」下沓掛 
  8 沓掛城「沓掛西城」下沓掛 
  9 沓掛城「日沓東城」下沓掛 
  (中世城郭分布調査/地域郷土史)
 
9  塩津谷新規発見城塞群
  賎ケ岳合戦丹羽長秀の動向
  10 月出峠の砦「月出」
  11 蛇曲の砦「月出」
  12 西岡城 西砦「横波」
  13 横波越えの砦「横波/山門」
  14 殿山遺跡北尾根遺構「上沓掛」
  15 殿山遺跡北嶺城塞「上沓掛」
  16 殿山遺跡中嶺城塞「上沓掛」
  17 殿山遺跡南嶺城塞「上沓掛」
  18 追記「深坂峠/峠塞ぎ要塞遺構」「深坂」
  (新規城郭分布/新規城郭発見)
 
 
◆質問者
 長谷川先生は元西浅井中学校長の村上宣雄
   先生と交流があり我等、伊香郡の塩津浜の
 塩津浜歴史研究会様とも交流があり講演の
 場所は塩津地区の場所が相応しいと思う!
 
◆対談者
 長谷川先生の講演を希望されてる人々とは
 彦根長浜地域そして米原近江に居られます。
 またNHK名古屋や岐阜文化センター関係
 の東海地域の人々また京阪神に住まわれる
 長谷川先生支持者様もおられて西浅井地域
 に講演の場所を確保しても東海近畿方面の
 人には福井に近い塩津西近江に近い西浅井
 塩津への講演来訪は不便と解釈されたか?
 
◆浅井様
 素晴らしい歴史視点を持ち合わせられた
 歴史講演になると私は思います。東浅井
 郡に住んでいる私は浅井郡中心は現在の
 浅井を冠する地域がその中心と言う歴史
 誤認をしています『浅井備前守饗応記』
 の№3の饗応の席次の「熊谷下野守」が
 一体本来の歴史郡部「浅井郡」の何処の
 土豪なのか?浅井郡の地頭職なのか全く
 理解せずに『浅井備前守饗応記』を読ん
 いても全く解らないものなのです。浅井
 郡は現在の琵琶湖を挟んで西近江路にも
 現在一般に私達が認識している浅井地域
 も含む広大な高嶋郡と隣接する巨大領域
 の郡であった事を現代人は全く忘れてる
 古代浅井氏の氏寺と考えられる「浅井寺」
 湖北町今西近辺に存在した事や山本山を
 朝日山そして山麓を朝日村と呼んでいた
 事を完璧に忘れてしまっている巨大浅井
 郡の両翼の西に相当するのが西浅井です。
 東に相当するのが元東浅井郡の浅井地域
 と言う基本認識に立ち返って歴史を考え
 なおす事が現在の広域長浜市つまり旧の
 広大な浅井郡として歴史認識解釈する事
 こそが広域長浜市の歴史観として冷静な
 ものと考えております。之は長浜歴史!
 
◆長谷川
 私の考えを代弁して頂き感謝致します。
 『浅井備前守饗応記』の№3に席次に
 君臨する熊谷氏の塩津谷や琵琶湖岸に
 点在する拠点とは、一体何ぞやと言う 
 観点で熊谷氏の中世城郭の分布を考え
 直す。つまり№3の殿様だったらその
 地位相応しい城郭や城館を熊谷氏自体
 が数多く郷村統治支配として浅井郡の
 西部つまり西浅井、塩津方面に所持し
 ていたと中世史の世界観を認識する事。
◆歴史好き
 そんなアホな?何で海津大崎や大浦や
 塩津が浅井郡なんじや?何で長浜市や?
 
◆対談者
 冗談を言わないで下さい。元々大浦とは
 「浅井郡之内」古地図にかいてあるのよ。
 歴史好きの条件とは怒りではなく冷静さ!
 本当の歴史好きとは!
 冷静に史「ふみ」を読む事
 冷静に絵「地図」を読む事
 冷静に城「城郭」を見る事
 浅井郡と明確に書かれている!
 ▼
 
Eureka(エウレカ)はギリシャ語に由来する
感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶと
きに使われる。古代ギリシアの数学者・発明者
であるアルキメデスが叫んだとされる言葉である。
 
コメント (2)
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 塩津 町おこしの種「ネタ」

2022-01-15 03:18:10 | お城日記
塩津 町おこしの種「ネタ」
 
附け
『越前笏谷石対談』
『土塁土居対談』
  
講演 塩津城郭歴史講演
講師 長谷川博美
場所 長浜臨湖
時間 令和4年1月15日 午後13時より
費用 参加費500円
資料 A4全10ページの塩津城郭遺跡網羅
予約 電話0749-86-4145 火曜定休日
   ウッデイパル余呉城郭係り
 
◆対談者
論とは言葉で諭とす歴史論説でしょう?講談師
の活弁の如く空論や創作脚色ではない現実歴史
の城跡が現に存在すると言う事が現実歴史です。
現場を見て廻った事のない人が軽々に論説する
事はやはり空論なのです。3現主義、5現主義等
の言葉がありますが現実や実際を物語るものは
やはり文字や言葉はなく生々く厳しい現実です。
 
◆関ヶ原様
石田三成は徳川家康よりも多数の人数を関ヶ原
に集結させたこれは帳面上の机上論で理想論!
しかし現実は徳川勢に味方した軍勢が勝利した。
 
◆一般様
この講演は歴史城郭を知りたい城郭フアン
必須、必見の一大城郭講演と言えますね?
 
◆対談者
いいえ全くの城郭初心者様を歓迎します。
初心者が進化発展し、やがて本格となる!
城郭を知ってるつもり行った事あると思っ
た瞬間からもう城郭遺跡を見学する研究眼
とは損なわれ初心を喪失する。初心が大切!
初心だから基本からキッチリと学び直す事!
城郭初心者とは全く恥じるべき事ではない!
何も知らないから、チョイかじりの人よりも
純粋に原点スタートラインで出発できます!
そう言う意味で初心は学門の始りスタート!
塩津の現実の城を学べる事が重要なのです!
人がどうのこうの言うから自分もそうする?
じゃなくて現実を師とする厳格さが城学び!
50年間城址を見学していても自分は初心者と
言える気概や向学と謙虚さを持ち合わせたい。

◆一般様
岐阜や名古屋に行くと戦国武将に因む土産物
や創作された名物土産の多さに本当に驚く!
信長、秀吉、家康、道三、光秀に因む商品!
戦国武将が昔から商品として活用されてる!
 
◆一般様
マジシャンが燕尾服来て登場してもネタを
忘れたら「タネ」を忘れたらただの人です。
寿司飯がいくら美味しくてもネタが勝負よ!
 
◆長谷川
尾濃「岐阜/名古屋」は戦国時代の武将を活用
した商品いわいる戦国商品開発に非常に敏感!
滋賀と岐阜愛知の歴史活用形態が全く異なる。
 
◆一般様
岐阜愛知の人は歴史は根本民度にある事は歴史
を知ってその歴史文化財に気付き商品開発する。
①歴史を知り②歴史を観光産業に活用するです。
 
◆長谷川
滋賀は文献『信長公記』では明智十兵衛光秀が
塩津へ実際船舶に乗り琵琶湖から塩津に来てる!
 
◆岐阜様「匿名」
近江商人なら俊敏に反応して明智光秀奥琵琶湖
舟弁当と言う舟形の弁当を即刻塩津で販売する?
そんなの十兵衛弁当と銘打って販売すれば1日に
大河麒麟が来るの期間を見逃さない商才があれば
100食は確実に飛ぶように売れ確実に商機がある!
なにしろ文献『信長公記』で塩津に明智光秀が
来ている訳で、これ見逃したら商売の素人です!
①歴史を知り②歴史を観光産業活用が出来てない。
 
 
◆滋賀様
それは絶対にない。近江では文献『信長公記』
など全く読まない!滋賀ではしょうもない事!
滋賀近江では「歴史」はしようもない事です!
「しょうもない」=利益がない=くだらない事
 
◆ピント様
塩津の城郭を網羅的に解説される令和4年1月
15日の講演の趣旨を解り易く要約して下さい!
おそらく湖北観光振興発展の種としての城郭?
 
◆対談者
広域長浜市の人口は7000人減少していますが
滋賀県自体は草津市栗東市方面で人工が増え
てます。これは京阪神のベットタウンとして
の人口増加です。元々滋賀県人は新幹線栗東
駅の建設に消極的で他府県人に、騙されてた
新幹線栗東駅が出来れば北陸新幹線は米原廻
りつまり長浜市米原市彦根市の発展や人工の
増加が予想された極端に言うと米原から直接
名古屋に行ける電車便があるなら米原は名古
屋大阪双方に通勤可能な極めて物流交通利便
の土地になる地理的要因の場所である滋賀県
人は常に他府県人に騙されて、自主性が自覚
がない自分を持っていない自我が本当の意味
ない。長浜市人口7000人減少は政治政策が実
らなかった無能失策した事を如実に意味する。
勿論政治政策決定するのはデモクラシー民衆
長浜市中央街の人口は増えてはおりませんよ。
長浜駅前に集客ポイントを置き集客人気は当
然望めない勿論、市街の名所は多数あります。
誰が長浜駅を見に来たい?特色ある多数の観
光ポンイトつまり群れなす観光群の見所こそ
名所旧跡名物店舗名物施設こそ集客の魅力よ!
 
◆長谷川
そう言う意味で長浜市余呉には50カ所以上の
賤ヶ岳合戦陣城群が存在します。西浅井塩津
地域には20カ所以上の城塞の跡が残ってます。
北陸自動車道路が出来て塩津街道国道8号は
衰退すると思われましたが塩津道の駅は思わ
ぬ隆盛で栄え塩津の物産の展示販売の絶好の
場所となっています。余呉や塩津には城跡が
多いこれを野外城郭博物館ミュージアムとし
にぎわいを創設し働く場所の確保や湖北歴史
観光として人口7000人流失を緩和すべき事だ
と思われます。先ず歴史資産として塩津余呉
伊香の城跡を地道にコツコツと認識衆知周知
さす。賤ヶ岳古戦場の城塞群とは戦国を真空
パックした正真正銘本物の歴史資産なのです。
 
◆悲観様
それは絶対無理な事なのです!
岐阜、愛知の人は①歴史を知り②歴史を活かす!
滋賀近江人は①先ず商売先行②歴史など無意味!
と言う県民性。文化土壌がある。滋賀は天下の
安土城跡が有りながら文化遺産歴史遺産として
上手に活用出来てないこの根本は県民性にある。
越前福井一乗谷朝倉氏遺跡などは大河ドラマに
あまり登場しなくとも年間90万人もの観光客が
訪れている。福井は糸辺の繊維業から北陸海産
物と見事に観光県を融合した進化を順調に見せ
てる。確実に北陸新幹線の建設工事も進捗して
る。歴史資産としての認識が滋賀は皆無ですよ。
 
◆達観様
滋賀近江は『歴史』より目先の商売だけに集中
岐阜愛知の様に歴史商品を融合する才覚不足!
 
◆岐阜様「匿名」
滋賀は商売下手!観光ビジネスセンス全く0だ!
歴史を活かさず、絶好のチャンスを見落してる!
 
◆越前様「匿名」
越前一乗谷朝倉遺跡は年間93万人もの人が来る!
下城戸と上城戸を修復して観光客も確実に来た!
 
◆越前様「匿名」
近江小谷城清水谷に行ったら全く城館や城戸
の堀が残って無くがっかりし福井県に帰った!
そんなの駐車場作り清水谷堀跡が無かったら
これ近江小谷城に行く価値が全くない訳です?
福井なら一乗谷城や杣山谷間に城戸口が残る!
谷間に堀や土塁がある場所に観光客は来ている。
 
◆長谷川
確かに越前は笏谷石の産地で一乗谷城は巨大。
近江佐和山城の大手土塁や堀も訪ねて下さい。
彦根城にも内堀には堅固な土塁がありますよ。
近江西番場番場城の南麓の水堀2条も見事です。
▼美濃 大桑城「おおが城」古図の四国堀 図面手前
 
◆長谷川
堀や土塁を見学する事は城郭遺跡見学者様に
取っては非常に重要な眼目要点となってます。
一度、岐阜県山形市、大桑城を見学しますね。
山城に対して山麓の城下町を防衛する為普請
された四国堀は壮大にして真に見事なものです。
美濃守護職 土岐頼純や土岐頼芸や斉藤道三
の晩年の拠点となった文字通り美濃戦国の国府!
▼大桑城四国堀 巨大にな堀と土塁「山麓部」
▼大桑城 山城部の堀切と土橋遺構 土橋の先が伝馬場跡
▼大桑城 山城部の馬場の西南 土橋と堀切と竪堀
▼十五神社の越前笏谷石製狛「展示写真」越前文化が濃厚
 
『越前笏谷石伝播文化論』
 
◆対談者
越前足羽地域でしか産出しない笏谷石の文化
論を述べて下さい。
 
◆長谷川
●安土城
『信長公記』1581年天正九)年七月十一日
に柴田勝家が織田信長に送っの笏谷石の件
もっとも日本歴史で著名な石垣城郭遺跡は
織田信長が天正4年に築城した安土城ですが
中でも天主閣は日本史の中でも特筆される
べきものです。この天主の最も重要な玄関
口は天主登閣口です。現代においても有名
な建造物の玄関やロビーには輸入した豪華
な大理石を敷き詰め権威と重厚を誇示する
習慣がありますが天下布武を標榜して天下
の主や覇王とならんとした織田信長の府城
安土城天主閣入口に越前笏谷石が敷設され
ている事は注目すべき事でしょう。信長の
発想は現代人に近い非常に斬新な人物です。
 
●越前一乗谷城
越前朝倉義景館から笏谷石の鬼瓦が出土し
ています。また谷間には多数の笏谷製石仏
や群や石造美術品が今も残っております。
 
●近江小谷城と浅井地域
越前朝倉氏の同盟関係にあった浅井氏の
小谷城からは越前笏谷石製の鬼瓦や水盤
が出土して浅井氏と朝倉氏の提携関係を
如実に語っています。浅井郡の湯次神社
の越前笏谷石で作られた狛犬も名品と言
えます。
 
●越前北庄城
織田信長の有力重臣にして北陸織田軍の
団師団長とも言える柴田勝家の北庄城跡
も笏谷製の鬼瓦の石瓦が出土しています。
 
●越前丸岡城
柴田勝家の養子 柴田勝豊の居城丸岡城
は瓦も、笏谷石、鯱瓦も笏谷石製品です。
 
●越前敦賀城
秀吉の股肱の臣、大谷吉継の敦賀城の瓦
も越前笏谷石です。八幡神社に残ります。
 
●越前引壇城「疋田城」
朝倉殿浅井殿疋田殿とも称されたこの城
の小丸跡には疋田氏の家臣「川瀬氏」が
寄進した日吉神社の石祠が残っています。
また私は疋田の定行院墓地の笏谷石石仏
群は石造美術上国宝級と思っております。
●美濃大桑城 城下 十五神社
上記写真にある越前笏谷石製品と言えます。
 
◆長谷川
何れの笏谷石製品も越前足羽山から産出し
た越前笏谷石が美濃近江へと運ばれた物品。
 
『土塁土居対談』
 
◆対談者
近江で一番大規模な企画の土塁土居は何城で
しょうか?
 
◆長谷川
令和3年3月19日 ウッデイパル城郭フオーラムで見学
する小谷城 大嶽城「おおづく城」の土居の馬踏みです。
 
◆対談者
長浜市西浅井塩津地区で一番巨大な土居のある城とは?
 
◆長谷川
塩津浜/祝山の間にある「城の坂城」の土居が巨大です。
 
◆初心者
最近私は何回も行っている彦根城の内堀に土居/土塁
がある事を初めて当該ブログで知り認識しました。
 
◆長谷川
彦根城には大外堀がかって存在し巨大な土居の跡の
痕跡は今も彦根市街に残っています。巨大な土塁だ。
 
◆有識様
その外堀は彦根市民が「蚊の発生に悩まされ」埋めた
と言う経歴があります。滋賀は土居を残さない県民性。
 
◆城郭見学者
小谷城清水谷の城館群の土塁や清水谷入口の水堀を
駐車場為に埋めずに一乗谷城や大桑城の様に残して
おいて欲しかった!肝心要の堀がなくては幻滅です。
 
◆長谷川
安土城の水堀二条の外にも古図にも一城の土居が
過去に残っていた事が確認されています。八幡堀
の古図にも土居敷の文字が確認されかつて八幡堀
は土塁に囲まれていた事になります江戸時代には
彦根藩は椿坂から柳ケ瀬に関所を移動させていま
すが文献『信長公記』には天正三年越前から美濃
に帰る時に余呉の椿宿に宿泊しています。ここに
本来は柳ケ瀬の関の前身「椿坂の関所」が存在し
たのでしょうが現在消滅していますが私の20歳の
頃は小字「なかおさ」に土塁が残ってましたよ。
福井県敦賀市麻生口に巨大な土塁も残っていた。
その規模は越前一乗谷の城戸や美濃大桑城の土居
と同様の規でした。疋田では「関の前」の小字名
が注目されます。
 
コメント
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