東野山砦と上丹生の秀吉視点
◆質問者
天正元年織田信長は小谷城
攻めに戦功あった羽柴秀吉
に小谷城と浅井氏の旧領の
江北三郡を中心に与えられ
ますが先ず秀吉がなすべき
事とは一体何でしょうか?
◆正論者
そりや勿論小谷城に代わる
今浜や横浜などの検地して
長浜の都市計画の推進です。
◆長谷川
私は正論を述べられるほど
頭脳明晰ではないのですよ
秀吉の気持ち読みたい人で
天正元年段階で織田信長は
越前朝倉氏を滅ぼしはした
が越前は朝倉氏旧臣に任せ
ておくと信長は読んだ事で
しょう。越前はやがて一揆
が領国を加賀の様に支配を
する。その段階で本格越前
統治に進捗させる青写真と
計画、シュミレーションを
立ていた。秀吉とは川上を
越前への道筋と考えている
人間なのです。小谷城主に
なった、眼下に流れる高時
川その上流の丹生谷は是非
検地して領民を確保したい
また信長の越前侵攻は再度
発生する。さすれば主君の
岐阜信長軍の兵糧は小谷城
にストック貯蔵しておいて
主君信長に提供する手立て
はしていた信長公記天正3年
にはこの様に記されています
『大谷 羽柴筑前守 が所に御泊
。この時、惣人衆へ筑前守 所
より兵粮を出ださる。』
◆正論者
馬鹿な伊香郡の丹生谷は
高時川上流だが秀吉自身
が今浜等先駆ける検地を
上丹生谷するハズがない。
◆長谷川
そうでしょうか?秀吉の
心と貴方の主観はズレて
いる。山東町史に以下の
記載があり驚愕する訳だ
秀吉の心は上丹生にある。
秀吉は間道をすべて掌握
する習癖を持っている事
に注目しましよう。天正
10年本能寺の変では明智
密書を毛利に伝える間者
が間違えて秀吉陣営に来
て捕縛されてしまった事
秀吉は間道監視を重視し
情報の収集に努める人間
逆に天正10年長浜城自体
は明智方に取られたが母
や妻は間道を利用し美濃
坂内村に無事避難してる。
★ある時の余呉東野山見学会
◆長谷川
御参加賜り深く感謝致します
東野山砦が上丹生方面に堀も
深く土塁も高く築城普請して
ます。この現場の現実を是非
見て記憶しておいて下さい。
秀吉やその命を受けた堀秀政
が何故上丹生方面に防御して
いるのかを考察して下さい!
堀秀政という人物は抜け目が
ない天正10年賤ケ岳合戦でも
柴田軍の南進を抑える活躍を
小牧長久手の合戦でも崩れた
羽柴軍を鉄砲衆を用いて救援
をしています。東野山城縄張
を見ても武将としてその非凡
さは明白で傑物だと言えます。
◆参加者
長谷川先生の視点は秀吉の
視点が解っていない賤ケ岳
合戦は北国街道で発生した。
◆対談者
歴史の文字は都合よく書き
替えが自由にできますでも
東野山砦は上丹生方面へと
向けて作られている現実が
あります現実を見ましよう。
▼左が上丹生方面に防御が
◆長谷川
さて城郭防御が何処にあるか
私が上丹生方面に特に多い事
述べても、なかなか一般様に
は伝わらない淋しさがある。
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