城郭 長谷川博美 基本記録

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蕨市松岡城のビイスタ

2024-10-27 08:12:23 | 城址見学心得

蕨市松岡城のビイスタ

◆長谷川

城跡の図面を見る機会ある

方は城の隅や辺を観察しま

しよう。すると令和の城郭

理論城郭ビイスタ解ります。

この蕨市松尾城驚異的なる

W中央ビイスタ青と赤はそ

れぞれ新旧の城の中央ビイ

スタ測量基準点と思われま

す緑色の放射腺もビイスも

Wビイスタと思われます。

 

◆質問者

件の松尾城の居館部の通路

はどの様に測量設計されて

いますか?

 

◆長谷川

松岡城城址看板図を御借り

してビイスタ工法の考察を

致します。宜しく御了承を

御願い申し上げます。あ点

から12434578と放射状測量

して城郭内の通路を縄張し

ておます。青腺あ は山城

部まで放射腺で測量縄張を

しています。い点から赤線

で山城部の位置決め測量を

しています。これビイスタ

理論と言います。日本の城

を考える上で最重要である

と私個人は考えております。

 

◆対談者

すごい!ですね!こんな技術

を一体誰から教示を受けまし

たか?

 

◆長谷川

城の縄張図を真剣に見ていた

ら自然と解ります。城跡自体

を先生として真剣に観察すれ

ば誰でも解る事と私思います。

 

◆対談者

私にはこんな発想や着想無理

です。長谷川先生の能力です。

 

◆長谷川

私は弟子も支持者もブログの

読者も限りなく少ない研究家

城郭の設計とは本当難解です。

◆長谷川

様々なビイスタが松岡城から

読み取れます。どうぞ宜しく

御理解をお願い申し上げます。

 

ウイツキペデイアより引用

松岡城(まつおかじょう)は、茨城県高萩市下手綱

常陸国多賀郡)にあった日本の城龍子山城

(たつごやまじょう)・手綱城(たづなじょう)

とも呼ばれる。明治時代初期には常陸松岡藩

藩庁が置かれた。

歴史

[編集]

室町時代、この地の領主であった大塚氏によって

築かれたと考えられるが、築城年代ははっきりしない。

当初は山城であり、龍子山城と呼ばれており、山麓に

居館が設けられていた。慶長7年(1602年)、松岡の

地に4万石で入封した戸沢政盛は、龍子山城の麓に

城郭を整備して平山城とし、名を松岡城とした

元和8年(1622年)、戸沢氏が出羽新庄藩に転封

されると、松岡は水戸藩の所領となった。正保3年

1646年)、水戸藩の付家老中山信政に松岡城が

与えられた。中山氏は宝永4年(1707年)に常陸

太田に移り、松岡城は空城になった。享和3年

1803年)、中山信敬は再び松岡城に戻り、城郭や

城下町を整備した。明治維新後の明治元年(1868年

、中山氏は正式に諸侯として認められた。

松岡城に天守や櫓はなく、陣屋程度の規模であったと

いわれる。山頂に本丸を置き、麓に二の丸御殿や

家臣の住まいがあり、三の丸に役所、台所、家臣の住

まいが軒を連ねていたといわれる。

 

 

 

 

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