城郭 長谷川博美 基本記録

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必須長浜学 称名寺文書から 天正城郭を新発見する!重要見学会!

2021-05-11 18:40:28 | 戦国
必須長浜学 称名寺文書から 天正城郭を新発見する!重要見学会!

日時 令和3年5月15日土曜日

A探 訪 集落「通過」
1 大谷吉継出生伝説地 余呉町 小谷「元大谷」

B景観 眺望「遠望」
2 石田佐吉「三成」新谷山山系 称名寺柳ケ瀬 敵情視察地

C 新発見布陣遺構見学
3 摺墨砦 全長約300m 「大型布陣遺構/東野山城端城」
 秀吉書状にある丹生谷の百姓の砦「隠れ城」か?

D 久太郎小屋砦 「西陣 東陣」
4 二ヶ所の土塁曲輪 一カ所の大堀切 現地遺構見学「東野山城出城」

E 堀秀政東野山城「本陣」
5 名人堀久太郎秀政の傑作土塁城郭

集合1電車 JR北陸線余呉駅10時10分
集合2車  余呉観光館駐車場10時

講師 歴史城郭研究家 長谷川博美
会長 生月茂氏
補助 宮本氏
補助 田畑氏
参加費2500円弁 当付 資料付き

予約先ウッデイパル余呉城郭係
☎ 0749―86—4145

▼丹生谷方面に向かって高く構築された東野山城の東土塁

城郭ビイスタ論上文字クリック
北近江城郭 鳥瞰図 上文字クリック

必須長浜学 称名寺文書から 天正城郭を新発見する!重大記述!

城の中芯を的確に認識し歴史の真実を導く!
副題『人に騙されても城には騙されるな!』

◆はじめに
羽柴秀吉が残した『称名寺文書』下知状には

「致敵陣取急度出馬おしつむべく候。定北国者
はいくんたるべく候。然時は、余呉、丹生其外
在在所所の山々に、かくれいる土民百姓以下、
ことごとくまかりいで、後をしたい、ちゅうせ
つをはげまし、くびをとるともからにをきては、
あるひは知行をつかはし、あるひはたうざのい
ん物を可出、もしのぞみの儀あらば、しょやく
めんじょすべく候。此むね相心得、申しふれら
るべき者也。
     仍如件
  天正11年3月15日    筑前守 秀吉(花押)
   称名寺

とあります。
現代文に長谷川が解説しますと、賤ケ岳合戦天正
11年に秀吉の敵の柴田勝家軍が余呉庄一体に陣取
った「陣城」を構えた秀吉自身は必ず急行して軍
勢を押し詰める「軍勢」を集中させる。北国勢
「柴田勢」は定めて「予定通り」に敗軍「敗北」
する事であろう。然るべき時には「その時」には
余呉、丹生の一般百姓の人々は、ことごとくまか
りでて「全ての人は出役」し秀吉に従軍して忠節
を励む事、敵の首級を追撃戦で取った輩「ともが
ら」においては知行「領地」を与える。また当座
の褒美恩賞を賞与させる。もし希望するものがあ
れば諸役免除「課税や徴用を一切免除」この秀吉
の趣旨を心得て民衆に申し触れる事「称名寺が民
衆に広報しなさい」よって件の如し
 天正11年3月15日「1583年」
筑前守 秀吉(花押)
   称名寺

と記録されています。戦国当時未だ「兵農分離」
が江戸期の様に確立されておらず、一般民も刀剣
武具を所有して隣村どうしの山林や土地境界論争
には村で生活する人々も弓矢の訓練武装し集落背
後の山城や隠れ砦を設置し何しろ警察が存在しな
い時代ですから自衛自治する惣村もあり現代では
既に研究解釈が進展たし。だから百姓は弓矢や刀
剣を所持してる。有名な明智光秀も山崎合戦の後
に農民の落ち武者狩に遭遇して落命しています。
本能寺の変後には家康は無事三河まで帰着します
が穴山信君「梅雪」は落ち武者狩に遭遇し落命し
ます。上記称名寺文書の「余呉、丹生其外在在
所所の山々に、かくれいる土民百姓以下」とは
武装した当時の農民と考えて間違いないでしょう。
従って丹生谷に秀吉に味方する農民「武装予備勢力」
も山陰の砦や間道に砦の柵を結んび宿営していた
可能性は十分に高いと言えます。それ賤ヶ岳合戦の
主戦場とは一般に考えられていない丹生谷方面に
秀吉方の東野山城が土塁を高く現地に築いている
事でも解ります。そう言った単純明確な城郭構造
観察する基本こそが東野山城が丹生谷方面に備え
て防備していた事を城址を観察している人であれ
ば誰しも解る事。

丹生谷には砦が無いと最初から決め付けない事。
また羽柴秀長が丹生谷の小原へ賦役夫丸を黒田
村の人々に何故、申し付けか?秀吉が何故余呉
丹生の山々に隠れている、百姓に対して、称名
文書に書き残しているのか?全くその真意や意
味が解らない事になります。ですから城址を見
る事「城郭遺跡を的確冷静に観察する事は学門
の本質です」

◆結論
賤ヶ岳合戦の秀吉の書状にある丹生地区に今年
「余呉城郭研究会」が全く新しい新発見城郭を
発見してしまいました!図面も既に測量してお
ります。来る令和3年5月15日土曜日にみなさま
とともに砦を見学致します。全長300mに亘って
山尾根に凹凸や生々しく普請しています。どうぞ
皆様には是非宜しく御理解とご声援を賜ります事
を慎み御願い申し上げます。


◆対談者
長谷川先生の城郭教室は堅実で定評がある。
地に足が付いてる智と地が融合した裏打が。
インテリジエントスポーツ智的城郭勉強会!
城郭ビイスタ論クリックする。

◆某氏からの感謝電子メール
いつもご指導賜りありがとうございます。
先日は天神山砦の見学お世話になりました。
なかなか見ごたえがありました。ありがと
うございます。

◆みんな
この方は教育心理学を良く心得た元某町教育
長です!やはり智的理知的な方々なのですね!
城郭行楽観光より、学び体験生涯学習復活を!

◆レコード蒐集家
レコード盤中心の穴を見て是はレコードの中心
ではないと言うオーデイオ評論家は存在しない!
レコードの溝は外から内へと廻って掘削される。

◆みんな
そう、そう、至極当然!の事ですよ!道理です。
レコード評論家やオーデイオマニアがレコード
の中心の穴が解らないようではそれは論外の人、
基本の基本が解ってない事は彼の評論や言説が
レコード論も論文の体なしてない明確な証拠だ。

◆一般様
あなた何を言っておられるのですか?このブログ
レコードブログじや無いのです?関係ない話です!

◆長谷川
ちょつと待って下さいレコード蒐集家さんの説
は実は大変的確に的を得た極論です。古来城郭
の築城方法を記した本を『軍学書』や『兵法書』
と言うのですが城には内郭と外郭 内輪と外輪
がある事を軍学の基本で、中央本城と記してる。

▼八幡堀氏が地元で目にした軍学書の中央本城
 なにやら喫茶店の紅茶やレコード盤そっくり!

◆喫茶店主
紅茶皿と紅茶カップの双方を見て紅茶の入った
中心カップを紅茶の本丸ではない紅茶皿こそが
紅茶セットの本丸と言う喫茶評論家は愚物だよ!
多くの大衆が紅茶を飲jまずバリバリ紅茶皿をば
食べるような愚行はしません紅茶の本丸は紅茶!

◆みんな
そう、そう、そう、当たり前の当たり前体操!
そう、そう、プリンの中心は皿でなくプリン!
皿食べられない!美味しいのはプリンが本丸!
皿を食べてこれぞプリン主郭と誰も言らない!
レモンの皮とレモンの中芯もちやんと解かる!


◆対談者
東野山の横堀をレコード盤に見立てるならば

レコード盤
の溝はAが中心でBが外周に相当致しますね!
横堀の配置見れば一目瞭然万人が解る事です!

◆みんな
そう、そう、そう、そう、
内輪うちわ「内郭」内城
外輪そとわ「外郭」外城
城跡を見れば当然解ります!
★『人に騙されても城には騙されるな!』
そうそうそう中央本城です!


◆一般者
そりやそうだ当たり前の事を今更何を言いますか?
タイヤの中心は車軸、円の中心はコンパス主軸だ!
自転車の車輪の中心はタイヤじやなくて車軸です!

◆対談者
でもある本で東野山主郭がBと考え信じ込み盲信
する人もいる。Bに石碑が建てられて主郭と誤認
文字の力、石碑の力、刷り込み誘導はもう御免だ!
レコード中心はどこか?車輪の中心はどこなのよ!
みんな、みんな、丸暗記の刷り込みでなど御免だ!
俺達私達は感情のないロボットでも丸暗記丸複写の
コピー機じやない。自我の確立と冷静な判断が肝心!

◆城郭仙人様のありがたい格言
『人に騙されても!城に騙されるな!』名言です!

◆みんな
そんな馬鹿な事?城の中心を見て解らないのかな?

◆一般様
刷り込み学習って恐ろしいのです。卵からヒナに
なった、生後間もないカモの子カモ達は時にして
木の車の付いた模型にヒモを付けて人間が牽引す
ると自分達の本当の母親ではなく木の車に愚かに
も牽引されて列を作って追尾して行きます。動物
の持つ集団行動や集団本能や集団心理は恐しい事。

◆みんな
「かも」つて何の意味?簡単に騙される人間かな?
「生まれたばかりのカモの子供達」つて人間の何?
『人に騙されても!城に騙されるな!』ですかね?

◆八幡堀さん
僕は昔から織田信長の琵琶湖水上ネットワーク
とは、五行思想の影響を受けた一種五芒星形で
A①佐和山城「彦根松原で信長が大船を建造」
B②長浜城
C③安土城
D④坂本城
E⑤大溝城
文献や歴史時間軸からは佐和山城が筆頭で常識です!
その筆頭の常識や機能性を彦根城が受け継ぎました!
安土城の内湖、佐和山の松原内湖、大溝の乙女沼や
長浜城の旧観は内湖を要害として利用した水辺の城
そんなもの佐和山城は織田軍の丹羽長の管轄した城!

あいうえお、の「あ」
ABCDE、の「A」のような根本的筆頭順位です!

▼佐和山城つて元来、琵琶湖に面した湖の城なのよ!

◆長谷川
そうでした?真摯で親切な御教示を賜り感謝します。
実るほど頭を垂れる稲穂かな!皆様の真心に感謝!

◆対談者
長谷川先生一体今回の投稿の本質や趣旨は何です?

◆長谷川
喫茶店に例えれば単純明解な事です。
①紅茶カップには紅茶が入っている。
②紅茶カップの回りは紅茶皿がある。
③紅茶皿の外にテーブルがあります。
④テーブルは喫茶店の中に存在する。
⑤喫茶店の屋外にも世界が存在する。

◆対談者
ものすごく抽象的で分かりにくいです?

◆長谷川
それでは、更に解説致します。

①紅茶カップには紅茶が入っている。
A東野山城の主郭/本丸とはA郭である。

②紅茶カップの周りには紅茶皿がある。
B東野山城の外郭とは勿論B郭である。

③紅茶皿の外にテーブルがあります。
C東野山城の東側に丹生谷存在する。

④テーブルは喫茶店の中に存在する。
D東野山城とは長浜市余呉町東野山。

⑤喫茶店の屋外にも世界が存在する。
E東野山以外にも砦、兵員、作業員が居る。
喫茶店の外も世界がある事は誰も知ってる。

◆対談者
以下のA~Dは誰にでも解る基本的な事!
①A②B③C④D当然の事ながら①Aは
基本の基本、根本の根本と言う基礎的な事
本当の歴史城郭研究ならば①②③④の基本
をあやまたずに的確に考察出来る!

E東野山の東にも砦、兵員、作業員がいた事
を証明する文献や遺跡を導きだす学問的作業
行程を地道に実施する者ですよ!

学術研究家の城郭の金田一耕介の本質です!
下図の小原
   摺墨
   菅並
   三カ所の丹生谷集落に着目して下さい。

◆長谷川
ああ!そうなんですかね?なんか訳わかりませんよね?
E東野山の外に砦、兵員、作業員がいる事を証明せよと
言う訳!なんですか!これは簡単ですね!何しろ、私は
滋賀県産の滋賀県育ちで奥の細道には絶対に迷いません。

◆びわこ様
琵琶湖産の鮎「あゆ」や琵琶湖産鮒「ふな」こそ本命魚!
狡猾獰猛なブラックバスや!ブルーギルは外来魚なのよ!

◆長谷川
丹生谷の近江国伊香郡小原の文献は★1を読んで下さい!

以下★1
対談者
私は、近江国伊香郡黒田村、長浜市木ノ本町黒田出身です。
黒田の人々は賤ケ岳合戦の時にどの様な賦役が課せられた?

◆長谷川
伊香郡黒田村の人々が、伊香郡丹生谷小原に賦役として
秀吉方に駆り出され使役された記録文献を解読致します。

時代=天正11年2月20日、西暦1583年

場所=近江国伊香郡黒田村から伊香郡余呉庄小原村「丹生谷」へ出役記録

文書=木下小一郎長秀(秀吉の弟/羽柴秀長合戦当時木ノ本、田上山城守将)

収録=東浅井郡志4巻p.132『西村文書』

原文=以下に紹介解説
〔木下長秀下知状〕当郷夫丸之事、家数九十間之内、四十五人
めんきょ仕候。残而四拾五人、明日小(大)原まで可出候。若
無沙汰おゐてハせいはい可仕候也。/(天正十一年)二月廿日 
小一郎/長秀(花押)/くろた村/名主/百姓中


◆長谷川解説↓
『木下長秀下知状』=羽柴秀長が伊香郡黒田村に命令した書状
当郷夫丸之事=黒田村の人々にだされた合戦前の人足の事
家数九十間之内、=黒田村の戸数90軒のうち
四十五人めんきょ仕候。=45人の家主は賦役を免許する「免除する」
残而四拾五人、=残りの45人は
明日小(大)原まで可出候。=明日、2月21日丹生谷の小原まで出役せよ。
若無沙汰おゐてハせいはい可仕候也。=もし逃れる者は成敗「処刑」する。
(天正十一年)二月廿日=天正11年2月20日、西暦1583年
 小一郎/長秀(花押)=羽柴小一郎秀長「当時は長秀」
くろた村/名主/百姓中=近江国黒田村の村長と村民へ

◆長谷川
藤吉郎の弟の小一郎が丹生谷の山村小原に黒田村の
半分を夫丸として派遣また小原には山村特有の小原
籠などの山の民の忘れ去られた伝統や真宗布教施設
「小原道場」も近年まで残っていたと言われてます。
つまり真宗の布教拠点、惣村の可能性もありますよ。
加えて拙稿「藤吉郎秀吉と山の民の民俗学的視点」
も読者各位様は再読して下さい。また丹生谷は高時
川と名を変えて伊香郡井口を中心に餅之井として北
近江の水田を潤す大切な水資源でもあります。秀吉
や秀長も治水治産も総合して高時川丹生川を意識し
ております。勿論淀川の水源の北限に相当致します。
なんと大坂湾に流れ込む淀川の源流が越前と近江の
国境栃ノ木峠にその分水嶺が存在すると言う事です。

◆対談者
驚きました!やはり東野山城の土塁が丹生谷方面を
意識して構築してる現実は秀吉が勝家の丹生谷から
の侵攻を警戒していた事を証明す現実や記録ですね!?

◆質問者
何故?伊香郡黒田村90戸の半分の45人を丹生谷の
小原に秀吉の弟、小一郎は派遣したでしょうか?

◆長谷川
この『西村文書 』は天正11年賤ケ岳合戦の前哨
に相当する2月20に秀吉の弟「小一郎」が発令し
ています。余呉天神山城が完成するのが3月です
また秀吉は柴田伊賀衆の天神山城の陣小屋を3月
の晦日に、処分する書状も秀長に与えております。
柴田勝家方の佐久間玄蕃らが行市山に陣取り戦局
が変化した事を生々しく証明しています。黒田村
の人の半分を小原村に夫丸として派遣させた事は
小原村の人口が少なく黒田村から丹生谷を柴田軍
の南進を封鎖する柵による隘路封鎖や樹木を伐採
倒壊させ柴田方の丹生谷方面からの南下を防ぎ塞
ぐ工作をしたと理解致します。また黒田村の半分
の人員は3月中旬より黒田山「大岩山砦」の賦役を
課したと私は推測致する。秀吉や秀長は適度に弱い
臨時の城郭黒田山「大岩山砦」作り血気に逸り焦る
柴田方の佐久間玄蕃勢を、引き付ける為の、脆弱
な陣城であった事は現地大岩山を一目見れば解る。

現地大岩山砦を通過するだけのハイキングは
戦国の実際の実情を把握する事は出来ません。
わざわざ城郭の基本堀切を意識的に掘削して

ない、土塁も低く、大岩山を構える事により
佐久間を引出し柴田本隊を2分の1に分離し
賤ケ岳で丹羽と羽柴で合流して破る秀吉方の
戦術シュミレーションが簡単に読み取れます。


桶狭間合戦でも丸根、鷲津の2砦を囮城と化して
して今川本体と松平隊を2分の1に分離させ乾坤
一擲の勝負を仕掛けるが戦国尾張人の信長の策戦。
賤ケ岳合戦では2つの城を囮「おとり城」として
岩崎山城、大岩山城を是に相当すると思います。

◆長谷川 戦国2対1のおびきだし策戦の理論
先ず1+1は2です。
また2ー1は1です。
敵が分解離散した時に強烈なスポット攻撃を
敵のシンボル象徴的武将に加えて是を叩いて
崩す戦法!世に言う「賤ケ岳崩れ」ですよ!
各個分散撃破とも言います。

●桶狭間合戦で織田信長は大守今川義元と松平
元康を大高城の周囲に鷲津丸根2砦を永禄2年
から築かせて永禄3年の桶狭間本戦では義元
と元康「家康」を2ー1=1の原理で撃破した。
信長は今川義元の首級のみを狙い是を得た。
スポット照射攻撃とも本陣直撃とも言える。

●毛利元就の厳島合戦
毛利は陶晴賢の2万の軍勢を厳島の宮島城と
言う囮砦「おとりの城」を築城して陶氏を
厳島の窮地に誘い込み、毛利と村上水軍が
1+1=2原理で合流し陶晴賢の首級を得た。

●山崎の合戦
中国派遣軍の羽柴秀吉は四国派遣軍副将格
の丹羽長秀と織田信孝をも動員して山崎の
合戦で明智光秀軍に1+1=2いや2+1=3の
原理で山崎合戦に勝利した。これも丹羽と
羽柴の連合合策と言えます。光秀は1の兵力
で敗れるべくして敗れた!光秀の首を得た!

●越前金ケ崎城手筒山2城の戦い
信長は越前朝倉義景を討伐すべく越前敦賀の
2塁「2城」へ若狭から兵員ととも侵攻したが
浅井朝倉は1+1=2の原理で織田信長を挟撃
した、信長は即刻京都へ急遽帰還して無事、
どうも、浅井、朝倉は、特に手筒山城なと゛
は存外攻略しやすい、中世山城のままであり
どうも、越前敦賀の2塁「2城」は朝倉方から
見れば信長を越前敦賀に誘殺する為の2城で
ある可能性もある。信長は俊敏に金ケ崎より
退避した、浅井朝倉は1+1=2=勝利の原理
を見逃してしまった事になり朝倉義景が鈍い。

●志賀の陣
織田信長は畿内の三好方の野田福島に出陣し
たいた。浅井、朝倉、高島郡衆は何と3万もの
兵員を動員して三好1+浅井朝倉1=2の原理で
織田信長を挟撃しようと画策し、比叡山延暦
寺も浅井朝倉に味方して織田信長は窮地に立
つたここでも朝倉義景が越前に越冬の為引き
あげ信長包囲網の連携が実質機能しなかった。

●小牧長久手の戦い
徳川家康と織田信雄は1+1=2の原理で羽柴
秀吉に対抗し戦闘において徳川家康は勝利
したが秀吉は調略により織田信雄と和議を
締結し2-1=1の原理で徳川家康に調略に
より勝利、つまり戦闘より総合戦略で勝利。
英語の戦闘=バトル「局地戦闘」
英語の戦闘=ウオー「総合戦略」

対談者
解った!ひらめいた!脳内でスパークした!
だから初期、羽柴秀吉方の天神山城は東西2城
あるのか?しかも秀吉はこの天神山城を予想
以上に立派に作り過ぎてしまった!これは
秀吉方の策戦失敗だった、天神山城出来過ぎ
では、佐久間方が是に喰いつかない訳なのよ!
だから初期の柴田伊賀守の陣小屋や堀秀政の
陣小屋だった久太郎小屋の撤収を秀吉は秀長
に命じている訳ですね!

長谷川
確かに東野山城は丹生谷をも警戒しております。
B郭隅に隅櫓基壇が残っているのも丹生谷遠見
の為の隅櫓と私は解釈致します。
◆対談者
何故東野山城の主郭でもないBの郭に東野山砦の石碑が
あるのでしょうか?全国の善良素朴な城郭見学者や有識
者は納得や合点が全く行きません!もしBの場所を主郭
や本丸と誤認する城郭研究家が居たと仮定したら研究家
や学究家としての資質やセンスはゼロです学者としての
信頼や人望も失墜する事は必至と思われますが?如何?

◆長谷川
よく城址石碑は地権者様の許可を得てから建てる事が常
です。前回投稿の愛知県稲沢市の尾張一色城も城址石碑
は城址東側に建てられていました。石碑は必ず城跡中央
に建てられると限らないのが日本の冷静な社会観察です。

◆長谷川
田畑氏が2021年に報告された滋賀県内の城館も
Aが主郭でBが副郭でCDEGが外郭であると
解りますCが主郭と述べたらミスジャジで誤審!


◆対談者
長谷川先生もう一度、東野山城の中心部、救芯部つまり
昔のレコードで言うならLPレコードの中心の穴、哺乳
類なら「へそ」に相当部分を初心に帰り解説して下さい!

◆長谷川
A郭
城郭構造理論の基礎として先ずA郭の東丹生谷側に対して
高土塁を高々と築き東の丹生谷側を意識し横堀を掘削する。

B郭
B郭の東丹生谷側に対して高土塁を高々と築き東丹生谷側
を意識し横堀を掘削する。B郭はA郭の外に存在致します。

城郭の根本理論から言いますとAが内城/主郭/本丸に相当し
B郭がA郭の外郭施設/外郭/である事は単純素朴に解ります。
また丹生谷方面に構えられた竪堀、竪土塁も意味が深いです。

◆一般様
でもね?石柱石碑があれば一般観光客や旅行者は安心安堵
して写真をパチリと撮影して満足して帰るものなのですよ。

◆対談者
長谷川先生!B郭を主郭や公然と本丸と広言する人も居る?

◆長谷川
ここで冷静に社会観察しましょう現代社会の常識として
政治家は一体どこに自分の選挙本拠地を定め移住します?

◆対談者
そりやもう人口の多い、有権者の多い、数多く得票可能な
票田獲得地域に移住したり住所を変更して得票率を上げる。
市民の多い地域、人口の多い地域有利が数の論理の基本で
政治家として当選可能で。現代社会は数の論理が基本です。
大衆迎合、大衆獲得、大衆普及、ホピユリズム数の多い事
が勝組の必勝パターン員数の論理、現代社会の勝組の法則!
◆一般者
解りました!城址に石碑の立てられた場所を主郭だと解説
した方が数多くの観光客や一般大衆の総意や共感歓心また
社会的支持がえられる、純粋純朴な潔く清々しい研究者の
大切な真心など何の役にも立たない!正直者こそが、馬鹿
を見る厳しい厳然とした冷徹空虚な現実社会がそこ存在!

◆長谷川
ああそうなんですか?僕は白は白、黒は黒と純粋な少年の
ように発言するから万年負け組の貧乏クジ素浪人と言う事?

◆素朴純粋さん
長谷川先生、東野山は丹生谷方面に高土塁を構えています。
これは丹生谷方面つまり高時川丹生谷上流を秀吉方が警戒
していると私は洞察推察致します!これは城郭構造を見れ
ば誰でも解る事です。▼北国街道では無く丹生谷に土塁が
高い!私は純粋素朴だから城址をあるがままに見学します。

◆長谷川
ここで城郭の基本を再確認しましよう!
二月の節分は「鬼は外福は内です」が
城と当然「堀は外、土塁は内」が定番原則です。


◆長谷川
貴方は純粋無垢に城址を観察されています!では
全国の皆様に近江国伊香郡の丹生谷、余呉谷や旧
浅井郡の塩津谷を概念的に図説いたしましよう!
非常に単純化した概念図にしてみました東野山城
の土塁は意外にも余呉谷ではなく、丹生谷方面に
土塁を高く、横堀を深く、構えております。これ
城郭として東野山は丹生谷方面からの柴田勢力の
南進も警戒して丹生谷方面に土塁を高く築いてる。
もし羽柴秀吉の傘下に属する兵員や役夫が丹生谷
方面に派遣されてた文献を発見したら東野山城の
本丸問題も何故東野山城の土塁が丹生谷側が高い
のか氷塊されると私は思います。まあ私は観光の
案内人やら人気取商売人と別の世界の研究家です。





◆対談者
もし丹生谷方面に当時坂田郡と犬上郡の境目の城
佐和山城主の堀秀政が進駐した場合菅並の神社や
仏閣の備品を坂田郡に戦利品として持ち帰ったと
考えられませんか?

◆長谷川
丹生谷の近江国伊香郡菅並の文献は?
★2読んで下さい!
長谷川★2菅並の文献
確かに、伊香郡菅並村の梵鐘は坂田郡に移動して
おります。米原町史資料編p.320 米原町顔乗寺蔵 
によりますと梵鐘の年号は応安1年8月1日とあり
西暦1368年と言う古い梵鐘です。〔願乗寺鐘銘〕
には近江国伊香郡余呉庄菅並之村岩本寺六所権現鐘也
と明確に余呉庄丹生谷菅並村と記録されております。

対談者
これは梵鐘が伊香郡余呉から坂田郡米原に移動した事。




長谷川
丹生谷の近江国伊香郡摺墨の遺跡は★3を読んで下さい!
対談者★3
すでに余呉城郭研究会では上の摺墨にも合戦時の砦を長谷川先生
宮本さん花井さん田畑さんが発見されている事に大変に驚きます。
▼摺墨砦の食違い虎口現場写真 織豊系の特徴を示している!

▼摺墨砦、別郭の砦写真と砦図面
▼やはり犬走を基本に砦が構築されている。
▼犬走の見学は城跡見学第一歩に基本です4月24日磯山城見学する。

◆対談者
やはり余呉城郭研究会は丹生谷の小原、菅並、摺墨そして
東野山砦の土塁が丹生谷方面に向かって高い事を洞察して
おられます。スゴイ歴史研究の進捗です。私達の知らない
賤ケ岳合戦の実態の一面を知る事が出来ました感謝します。





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名人堀久太郎と奥田直政は戦国双頭の鷲Ⅱ

2021-05-11 18:38:59 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック
北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック

名人堀久太郎と奥田直政は戦国双頭の鷲Ⅱ

令和3年5月15日
①摺墨砦
②久太郎小屋砦
③東野山城も見学致します。

奥田直政こと堀監物の事
▼ウッイッキペデイアより

天文16年(1547年)、尾張中島郡奥田庄にて
、奥田直純の子として生まれる。従弟・堀秀
政の伯父の一向宗の僧のもとで、秀政と共に
幼少期を過ごす。この伯父が2人に、先に
手柄を立てた方にもう一方が従い協力して
家名を興すよう諭し、秀政が先に手柄を立
てたので直政はその家臣になったといわれる。
なお、この種の逸話は加藤清正など他の武将
にも見られ、創作との指摘もある。 
秀政は13歳から織田信長の小姓になるが、
直政も同時期に信長の配下になったと思わ
れる。以後、直政は秀政の補佐をしていた
とされるが、この時期の直政の史料は乏しい。
『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで
精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢
峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後は
秀政と共に豊臣秀吉に従い、山崎の戦い、
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、
四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。 
山崎の戦いの後、明智秀満の坂本城を包囲した時、
秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、
国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの
名物がなくなることをおそれて、これを荷造りし、
目録を添えて堀秀政の一族の直政のところへ贈っ
た。このとき直政は目録の通り請取ったことを
返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指
が目録に見えないがこれはどうしたのかと問うた。
すると秀満は、この脇指は光秀秘蔵のものである
から、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に
差すと答えたとされる[1]。 
特に賤ヶ岳の戦いでは、十文字槍を片手に柴田勝家
の金の馬印を奪っており、これを奪い返そうとした
小塚藤右衛門を組み伏せ討ち取ったといわれている
(『寛政重修諸家譜』)

◆秀吉の人物鑑定
さて人間を洞察する技量のある人は社会において
今日でもほんの一握りの存在である。世俗の多く
の人々は名声や肩書を一番に信奉して真の人間の
才能や実力を看破できないのが常である。秀吉と
呼ばれる人は人間鑑定力や人間観察力においては
世人を凌駕し超越した才能を持つ歴史上の人物で
ある。奥田直政こと堀直政を秀吉は如何に評価し
ているのであろうか藤吉郎の事であるよもや節穴
ではあるまい。

人物[編集]
『名将言行録』の堀直政の項に、天下の三陪臣の
一人として挙げられている。「秀吉曰く、陪臣にて
、直江山城(兼続)、小早川左衛門(隆景)、堀監物
(直政)抔(抔は等と同じ)は天下の仕置をするとも、
仕兼間敷(しかねまじき)者なりとて、共に賞誉せら
れけり」とある。
 
吉川英治の小説『宮本武蔵』
最終章(八)の最後の言葉。

波騒(なみざい)は世の常である。
波にまかせて、泳ぎ上手に、
雑魚は歌い雑魚は踊る。
けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。
水のふかさを。

◆『技術編』以下 長谷川解説
さて名人堀久太郎と称された堀秀政や
彼の臣で天下の三陪臣と高く評価され
た奥田直政こと堀監物は如何様な築城
築砦妙技持つか?17歳で京都足利義昭
の為の本圀寺臨時城郭化を織田信長から
命じられた傑物でその縄張技術は如何様
なものだったのであろうかか?
残念ながら良質の文献には恵まれては
いない。しかし遺跡は時に聞く耳、見る
耳を持ていれば現場の城郭遺構は生々しく
天正11年の賎ケ岳合戦における久太郎や
堀監物の生々しい技術を白日のもとに
令和の現代に蘇らせてくれる事もある。
歴史とは紙だけや文書だけではない現場
検証によりまるで白日夢の如く鮮やかに
天正11年の昔へタイムスリップが可能だ。

先ず賎ケ岳合戦初期段階に構築されたと
思われる今市上砦、秀吉の書簡の久太郎
小屋破却に相当する遺跡の縄張、縄打ち
を検討してみたい。

以下の如く真に低土塁に囲まれた矩形の
陣営を構築している事が解る。しかも
東野山本城と異なり本格陣城と言うより
臨戦陣地と呼ぶにふさわしい簡素な印象
を受けるが?矩形の両陣は見事に阿吽の
呼吸の如くシンクロしリンクして驚く。

私が安土城、肥前名護屋城、姫路城の縄
張論を展開し東野山城の縄打図を提示し
ても城郭に感心のある人は全く興味感心
を示さない。 これは現代の城郭論自体
が縄張論のみ固執してきた経歴にあると
言えよう。中世の寺社建築に、おいては
ミリ単位に水糸を引いて神経質に作事の
土台となる地面に縄打丁張されて行く事
は春日権現絵巻でもよく理解できよう。
さあはたして今市上砦とは名人久太郎や
傑物堀監物こと奥田直政らの武将として
の才覚や名人たる土木才覚の程とは?
如何ほどのものがあろうか?

先ず私の陣営計測図に例の如く縄打線
Aを引いて見る。アバウトに作られて
いると思われた西陣東陣は見事に連携
シンクロした設計線がまず読み取れる。
久太郎と奥田の見事な連携シンクロだ。
図2
図3

図4
図5
図6
陣小屋は武将の場合陣城の内側につくられ
一般兵士は陣城の外に小屋掛けして作られ
ており緊迫した臨戦状態になり始めて兵士
は土塁の中の詰めかけ密集して陣城の守備
や戦闘を実際に行ったものだろう。現実に
賎ケ岳合戦の陣城には兵士の陣小屋を収容
する外郭や外堀を確認する事が現実に可能。
傑作陣城!堀秀政の東野山城
世の中には「出来過ぎ君」と呼ばれる人が
時に現れる所謂「超優等生」である。秀政
の名人とは人心の掌握、心配りの名人だと
の評判であるが普請や作事土木の名人では
ないだろうか?それにしても堀秀政縄張り
東野山城の異常な進歩性には驚くばかりだ。
堀秀政は思わず現代的に言えば斬新な土木
建築家ともいえる人であろう?

近年は城址の草刈充実して軽礎石列石らしき
ものも現地で観察する事が可能である。

その設計縄張や縄打は見事と言う他ない傑作だ。
出来過ぎ君!堀秀政とはまさに名人の手腕を
持つ天正のハイテク技術者と言っても過言で
は無いだろう!よくぞこれだけ高い技術測量
駆使して縄張している現実を現地で見学する
と唖然せざるを得ない何度見学しても驚く程
の城郭遺跡としてのクオリテイーを誇っる城。
2019/11/30 東野山城に見学に集結した
余呉城郭研究会のみなみな様に感謝します。
長谷川博美 共著紹介
コメント (1)
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画期的、放射線城郭構造理論 ビイスタ工法の世界

2021-05-11 17:27:27 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
画期的、放射線城郭構造理論 ビイスタ工法の世界
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ理論大変な話題です!
戦前戦後を通じ高名な城郭研究家さえも気付き得
なかった城郭縄張概念理論の根底を全く無名城郭
研究家の長谷川先生が解説すると言う快挙に衝撃
を感じます!まあ昔から長谷川さんて本当は凄い
研究家なんだよ。と言うウサワを小耳に挟んだ事
は何度も何度もあるが滋賀一般大衆民衆は全く理
解してない人間洞察力が脆弱と言わざるを得ない。


◆余呉人
それは仕方がない事、長谷川先生の『滋賀県中世
城郭分布調査報告』が旧余呉町役場の金庫に施錠
され封印されてたから我々余呉町の人さえ長谷川
さんの事を全く知らない隠された研究者だった訳。

◆県外から滋賀移住者
私は城のメッカ滋賀に意図して移住してきました。
しかし城郭遺跡を解説する先生と多数会話したが
長谷川先生の遺跡解説を聞き一味違う。これ本物
の城郭の先生だと日増しに気付き始めた。先生は
意図的に他者に隠されてる。私はネームバリュー
ムや肩書きやレッテルよりも現場の城郭遺跡を見
学する人間で長谷川先生は現場の遺跡を解説され
る人。私は名より実を冷静に評価する城見学の人。



一般者
そりや天正の天下人
織田信長の安土城と
豊臣秀吉の大坂城の
放射状縄張設計存在
解読して更に神奈川
の関白秀吉の石垣山の
一夜城の縄張手法をも
次々と解読したらなら
そりや世間は非常に!
驚くわ!画期的研究!
歴史的見解研究快挙!
まさに衝撃的研究だ!

一般者
そればかりか太閤秀吉として築城させた肥前名護屋城
の放射状縄張ビイスタ理論も発見され更に驚きました!


余呉城郭研究会
余呉城郭研究会として長谷川先生のビイスタ工法
の動画を録画したのに一年経過したのに全く動画
がアップされない事が不可解に思っておりました。
ああまた例の如く「長谷川隠し」の御蔵入りかと?

対談者
秀吉の関白として小田原一夜城にもビイスタ設計
つまり放射状縄張工法、ビスタ工法が存在する事
も自ら図面を作成されて、発表された事も衝撃的!



長谷川
測量計測文化の中に「分度器」の文化や規矩術が
存在する事を文系学者が気付かなかった事ですね。
歴史とは史「ふみ」であると強く固執して現地の
遺跡を省みない文字歴史文化が日本国内に蔓延し
元来本当は城郭の測量法が存在する事も着目され

なかった事に原因があると思われます。室町期の
能楽は江戸にまで継承され2ヵ所の能楽の見物視座
がある事も全く日本人の視点文化論として語られ
考察されていない事も起因してると私は思います。
いわゆる見栄え見通、見晴、見当、展望視点理論
や英語で言うポイント、オブ、ビュー、ビューや
ビューポイント。庭の鑑賞で言うならば要石や庭
の鑑賞視座点が必ずある事は忘れ去られています。
要するに日本語の見所や見晴や見当の言葉の意味
の深意自体が日本文化で語られる事が少なかった。
◆長谷川
そして何より世間の城郭研究者が従来から日本の
山城とは自然の地形を巧みに利用して築城された
と書き続けた事にある。その事で多くの城を学ぶ
人々は城は自然地形自然地形と脳内に刷り込まれ
山城の曲輪をデザインとして捉える事が出来なか
つた。肥前名護屋城も天下人豊臣秀吉の城だから
完璧な四角四面の本丸を完成させる事は可能だが
何故もっと四角四面に簡潔に築城しないのかと?
誰も疑問に思わなかった。その心理的原因は何か
?それ城を人工的計画的に観察検討しようとする
基礎心理初期学習に城は自然地形という固定概念
に縛られて城の縄張りを枡形や導入路や曲輪配置
野身にこだわり過ぎて城の全体基礎構図つまりは
放射状縄張術やビイスタ論や見晴展望論には気付
かなったと言えます。

質問者
我々一般者とくに城ハイキングや城イベントや城
探訪や城町興しや、城ガイドや城観光にとっては
長谷川先生の理論が全くピント来ないのですよ!
まるでレオナルド、ダ、ビンチの理論の様であり
全く我々一般はダ、ビンチの気持ちなど到底理解
出来ないのです。それよりも多賀町佐目の明智の
伝説の城を解説して下さい。勿論小字腰越にある
城址の形態や形状で明智は優れた縄張したのかと?


◆一般者
これはレオナルド、ダ、ビンチの某都市図面です。
西欧らしく放射状グリット線つまり長谷川先生の
説かれるところのビイスタ工法が勿論見てとれる!
時代や場所は異なれども人間が営む文化には常に
普遍性や共通性が存在致します。

◆長谷川
 更に図面を詳しく注意してみます。都市入口の
門を守る為の堡塁つまり「砦」が、描かれていて
います。世間で俗に言う馬出機能と言うシステム
◆一般者
多賀町佐目明智伝説とは有り得ない伝説なの
でしょうか?佐目の城跡は果たして駄作か?


◆長谷川
文献『信長公記』には明智光秀が城郭知識
に秀でていたと全く記録されていませんが
でも軍記物『明智軍記』には光秀は信長の
城郭コンサルタントの如く記されています。
また当時日本に来ていた宣教師も明智とは
築城に秀で城郭に造詣ある人物としと記録
されています。文献吉田『兼見卿記』にも
光秀の居城坂本城天守の存在を記録してる。
滋賀県犬上郡明智伝説の城も素人の農民が
築城した形式ではないダビンチの描く都市
の絵図の如く機能的な半円形状の半月堡塁
の痕跡がある事に着目して頂きたいと思う
つまり多賀佐目の腰越の城址はハイカラな
城で知的な人物、あの信長をも納得させる
人傑で智的才能を持っ一族の砦と言う事に
なるかもしれません?佐目の山城の土橋の
前の半月堡塁の痕跡を丁寧に現地見学出来
る気質が果たして貴方にあるのか?ハイキ
ング客の様に通過したり城を探訪するだけ
の訪れる人なのか?先ずは自己分析ですね。
佐目の城や明智伝説を鼻の先でそんな物は
有り得ないと軽率には断言できない一面も
存在する。世の中には様々な見解や視点が
存在します。先ず城郭遺跡よりも時に社会
観察や人間模様の客観的観察から始めた方
が時に良いかもしれませんよ?

◆対談者
二次資料『淡海温故論』などには明智光秀
の出身地を多賀町佐目としていて甲斐武田
氏と明智氏が内通していた事が信長に露見
したと記載され本能寺の変に繫がったと?

◆長谷川
信憑性はともかく甲斐武田氏の新府城に
はビイスタ工法や馬出堡塁は存在します。
城郭素人の宮本さんが放射縄張線を鉛筆
で入れて城郭遺跡を幾何学分析さてます。
これは従来の研究手法や研究理念からは
全く省みれらる事の無かった分野の学門。
私は城郭講座に多数参加されて固定概念
の世界が既に脳内に形成された人よりも
純粋無垢に城址を見学観察される姿勢と
精神を尊びます。人間は記憶や常識固定
概念に縛られて時に真実を見落とします。

◆対談者
そこまで日本の歴史建築構造物のビイスタ工法や
放射状設計放射状縄張に気付く契機と経緯やその
過程の根本は長谷川先生にとり、どの城に有ると
言えますか?長谷川先生は文献『信長公記』講師
もされた長年い経験もあるし現場と文献の双方を
統合させる優れた研究家であり学門する人ですね。

◆長谷川
やはり滋賀県蒲生郡にある和田山城の優れた城郭
構造にあると思います。あの織田信長の『信長公
記』には永禄11年の箕作山城攻めの条では和田山
城に攻撃許可を美濃三人衆には下さず、箕作山城
を攻めています。これは信長が城郭構造の優劣を
看破する能力が高かったと思われます。和田山城
は土塁や虎口配置も巧妙で事前に和田山城の構造
はリサーチ事前調査していた事でしょう。兵法と
は敵の脆弱な城や象徴的な拠点を落城させる事で
「弱き場所」を攻めるのが兵法の常道です。和田
山城小規模城郭とは言え土塁線構造は非常に優れ
ており土塁の中に鉄砲の射手を配置すれぱ織田方
の損害は甚大と信長は思慮した事と私は思います。

◆一般者
和田山城?あんなチッポケな城小さい砦ですわ!
行く価値見る価値もなき無名の城の評価ですよ!

◆長谷川
城は有名無名そしてその規模で軽率に評価する事
を避ける事。有名無名に限らずその城の構造自体
を見学する事が城郭遺跡見学の本質。有名無名や
メジャー、マイナーだけの観点で城址に行く人は
名所めぐり、名城めぐりの、観光行楽部門の世界。

▼工程①縄張図を作成した。


▼工程②放射状設計起点Aを求めた。


▼工程③放射状設計起点Bを求めた。
▼工程④城郭を自分なりに復元してみる試論。
和田山城なかなかどうしてどうして巧妙な城。
完全に縄張技巧を読み切り復元する事は困難。

◆質問者
和田山城の天守のような櫓台から左下に古墳の
周壕のような遺構が、かすかに観察されますが
神奈川石垣山一夜城の天守台にも周壕のような
もの有りますか?

◆長谷川
たしかに秀吉の石垣山城も通路や天守屋根から
流れ落ちる雨水の対応は微細ながらしています。

◆質問者
近江小谷城は秀吉の城造に影響を与えたでしょうか?
◆長谷川
秀吉は天正2年に平城長浜城を築城開始した記録があり
ますが文献『信長公記』には天正3年に織田信長が越前
に向かう軍勢に小谷の秀吉から食料補給を受けた宿泊を
した記録があり小谷城の構造は当然秀吉の後の城造りに
影響を与えた事でしょう。そして何より秀吉の家臣の多
くが近江浅井氏に仕えていた武士団でもあり秀吉自身の
血統的な後継者豊臣秀頼の母親こそ元小谷城主浅井備前
守長政の長女「茶々」こと淀殿「浅井氏」である事など
も当然忘れてならない事でしよう。小谷城本丸大広間や
黒金門や柳之馬帯曲輪の仕切門などの構成も放射状縄張
ビイスタ工法が施されていた可能性が高いと思います。
▼小谷城 本丸周辺の楼閣と殿舎構成図 長谷川博美



◆比較研究論とは?

◆長谷川
織田信長は宣教師の記録によりますと岐阜城や
安土城に宣教師が訪れると自分の居城と同じ様
な城が西欧にはあるのか熱心に質問しています。
信長の学識は現代で言う所の東洋史学つまりは
中国思想史、中華思想に強く影響を受けてます
が彼は未知の東欧の文化特に築城にも強く興味
を示していた事が伺い知れます。それを現代語
に訳すなら比較研究論とでも言う事になります。

◆質問者▲
和田山城の櫓台にせよ。石垣山城天守台にせよ
天正大坂城にも安土城天守台にせよ四角四面で
はない納得行きません。まあ現実に安土城天主
は規則正しい礎石群と不整形な櫓建物の両者に
により成立していますが、、、、?

肥前名護屋城の天守も建物は規則正しく帰幾何学的
だが周囲の天守台石垣はけっして規則正しい矩形と
は言い切れないい印象を受けるのですけど?

◆長谷川
礎石を配置しているのは建築を担当する作事奉行
です。石垣のレイアウト配列は放射状理論で設計
されている築城担当の縄張り普請奉行の役割です。
双方は互いに矛盾しながらも築城が発達して来た。

◆長谷川
因みに羽柴秀吉の甥で近江八幡の秀次居館̪跡でも
特に櫓台Aは歪な四角形であり石垣の配列は放射
状縄張ビイスタ工法を用いてBCDなどの区画が
計画的になされています。勿論武家屋敷群は寺院
の区画を踏襲したものでもあります。しかしAの
区画には注目すべき特徴があります。

◆反論者
安土も石垣線と建物線の両者が一致しない不整合
が発生と建物からはみ出した石垣をどう処理した?

◆長谷川
安土城屏風絵を模写したとされるウインゲの版画
には巨大な腰板が石垣と建物の間に描かれてます。

腰板の技法は越前丸岡城天守にさらに腰板が退化した小屋根
が近江彦根城天守に残っております。我々がイメージしてる
近世の城郭の天守と安土城等の城郭周囲の腰屋根や小屋根の
現実は異なっていた可能性があります。その原因は建築担当
の作事と築城担当の普請奉行の両者の設計の役割分担の違い
にあったと思われます。






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関東騒然 神奈川小田原 石垣山一夜城の秘密!

2021-05-07 08:21:01 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
関東騒然 神奈川小田原 石垣山一夜城の秘密!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

城の伝統文化 城の放射状設計「ビイスタ工法」

◆質問者
天正18年(1590年)
関白豊臣秀吉の天正石垣山城にビイスタ工法
や放射状城郭縄張は存在するのでしようか?

◆長谷川
木下藤吉朗時代の虎御前山秀吉陣にも放射状
設計を読み取る事は可能です。城を作る時に
は藤吉郎秀吉は放射状縄張を多用しています。
◆長谷川
先ず滋賀の人が相模小田原石垣山一夜城を
考察される場合には永禄11年期に織田信長
が近江の佐々木六角氏攻めの時に六角方の
和田山城は攻めず箕作城を攻め落とし公記
の記録がありますが和田山城には意外にも
放射状グリット線つまり既にビイスタ工法
を使い緻密に築城している事が解ります。
なお櫓台や堡塁は古墳を利用してます。▼長谷川図面

▼近江和田山城 ビイスタ工法細分図 長谷川博美

◆長谷川
次に天正18年1590年の小田原役の時の関白豊臣秀吉
の石垣山一夜城図です。縄張図は長谷川博美の作図

◆質問者
この石垣山一夜城も近江和田山などの中世城郭
の縄張技巧ビイスタ工法が潜在するのですか?





◆長谷川
結果を恐れずまた最初から試論を否定せず検証
をしましょう。一体ビスタ工法が存在するのか?
A点からの石垣山城を測量している事が理解可能
です。この放射状ビイスタ線の通過点を●点や〇
点でマーキングを施しました。経過点は重要で
石垣山一夜城の城郭構造は放射グリッド線を結
ぶ事でより石垣山一夜城を立体的に認識し易く
なります。

◆長谷川
和田山城と同じく複数の放射状グリッド。
つまりビイスタ工法を石垣山一夜城にも
読み取る事が可能です。

◆長谷川
和田山城も石垣山一夜城も普遍的なビイスタ工法
放射状測量を駆使して築城されていると言えます。

◆長谷川
 また秀吉の弟で羽柴秀長の紀州和歌山城
でも放射状線縄張を読み取る事が出来ます。
徳川時代も継続して若山城は築造に要注意。


◆質問者
秀吉の築城した九州の肥前名護屋城に放射
状の縄張を読み取る事が出来ますか?

◆長谷川
肥前名護屋城も放射状の縄張ビイスタ工法
が読み取れます。
◆長谷川
名護屋城細部においても放射状縄張や設計を読み
取る事が可能です。


◆質問者
秀吉の天正期大坂城にもビイスタ工法が存在しますか?
◆長谷川▲上図 長谷川博美 線挿入
城郭中央部から緻密に放射線状にビイスタ工法
を用いた秀吉の放射線状縄張が、読み取れます。

◆質問者
  では藤吉郎秀吉のかつての主筋「上様」とも
言える織田信長の天下に名を轟かせた名城安土城
には放射状縄張と言うものが存在するのですか?



◆長谷川
織田信長の安土城にもビイスタ工法や
放射状縄張技巧を読み取る事ができる。

◆質問者
相模天正秀吉石垣山一夜城にもビイスタの
工法が更に存在しますか?上方の城の様式
や工法は神奈川県民は大変に気になります。

◆長谷川
秀吉の石垣山一夜城にも数カ所ビイスタ工法
が存在します。但し元来この城は後北条氏の
持ち城、笠懸山城であった事にも留意したい。
◆長谷川
石垣山一夜城の細部に亘って繊細に複数に
放射状に縄張設計した事が読み取れます。

◆関東人
やるじやない!言うじやない!一流の研究家!
すごいじやないの!滋賀の長谷川さんって人!
近年彗星の如く出てきた城郭の彗星だなコレ!

◆対談者
それ違います!近年出てきた駆け出しじやない!
長谷川先生は先駆者ですよ。滋賀の不毛の城郭
世界、不毛の地を切り開いた苦悩の開拓者です!
伝説の縄張の魔術師と異名を取った長谷川氏だ!
音楽なら不遇の天才ロバートジョンソンまたは
か眠れる巨匠スリーピイ、ジョー、エステスだ!




◆まんが好き
「るろうに剣心」みたいで、カッケー影がある人?
決して日の当たる事ない城郭流浪人長谷川先生か?

◆長谷川
細部の放射線状縄張の存在は秀吉の肥前名護屋城
とも神奈川小田原石垣山一夜城縄張りに酷似する。

◆対談者
長谷川先生!流石です!素晴らしい読みと見解です!

◆一般者
日本の伝統文化 放射状設計「ビイスタ工法」が
存在する事を戦前戦後を通し如何なる高名な歴史
学者さえも誰も気づかなかった遠因原因とは何か?

▼江戸時代の城郭測量法 享保18年『量地指南』


◆長谷川
先ず東洋それ、中国にはピタゴラスに代表される
西欧世界より逸早く三平方の定理や曲尺を駆使す
る規矩術や幾何学、算術や測量術技術が中国から
伝来して日本に存在した事が忘れ去られています。
所謂高度な幾何学算術と言える測量技巧の存在が

和算+、減算-、積算×、割算÷、の言葉は元来
は東洋中国の算術の言葉が起源です。規則正しい
幾何学的な碁盤目状グリッド線を基盤とする都市
計画また前方後円墳八角形古墳設計また一番高度
で複雑な測量術を不可欠とする城郭遺跡がまさか
未測量で設計図もなくアバウト適当な工事で建造
されたとは先ず土木建築の常識から考えられない。



▼日本の規矩術「きく術」の例
▼紀州和歌山城の放射状 縄張理論 長谷川博美 掛線挿入
徳川時代も継続して若山城は築造に要注意。


◆長谷川
戦前戦後を通じ城郭が学問として成立し得なか
った根本原因は城を解説する人が史学系文化系
の人々であった事、それら人々は文字文章詰り
史と書き「フミ」と読む事で文献史学の人々と
は算術、幾何学、図形とは関係のない学問体系
の流の中にあったからとも言える。文字だけで
を駆使し現場の城郭遺跡を論じる傾向や文字論
と言う言語伝達系列学問が根本根底に存在した。
歴史家や郷土史家は物体や遺跡の形状を幾何学
的に図形として認識して理解する根本認識を持
ち合わせなかつた事です現在も歴史は文字のみ。
また城郭構造理論や城郭形状分類は連郭式城郭
輪郭式城郭、渦郭式城郭、梯郭式城郭等の概念
用語に多くの人々が拘束され形骸化され概念化
された結果として全く日本の伝統的な測量文化
放射状縄張「ビイスタ工法」大工用語で言う栄
え「栄え」「はえ」と言う見栄えと言う技巧の
根本測量手法に全く留意しなかった事にも原因
します。また縄張論も曲輪配置論や城郭通路の
導入路枡形虎口論に終始して絵画や美術で言う
構図や工業デザインで言うクランドプラン基礎
設計基礎設計思想にも留意しなかった結果です。


◆対談者
それは言えます。歴史に精通した歴史通と呼ばれる人
が城址を認識する事が出来ずに、1㌔も離れた場所に
城址看板を立て御満悦されている姿を見るにつけ幻滅
します。そこ城跡じゃない場所です形状認識不足です。


ある町の裏山には実は巨大な城址があり長谷川先生が
実測されているにも関わらずそんな物は無いと正義感
を持って平然と言われる人の無知さ加減には幻滅です。
正義感正論と信じ込む的ハズレな群集心理も恐いもの!
結果として郷土歴史会の会長さんが自分の裏山の城跡
も知らず一度も見学する事無く町の郷土史会は高齢化
し解散し若年層も参加せず世代断絶ジエネレーシヨン
ギャップ現象が発生して本当の意味の郷土史会の役目
である我町の裏山城跡見学学習会一度もなく会が消滅
する例は頻繁に人工減少化に伴って発生しております。
▼東近江市伊庭山城 長谷川博美鳥瞰図
▼伊庭山城発見の新聞記録

◆一般者
城の形などうでも良い事!私達一般人は行楽物見遊山。
何時何処で誰が何したか?5W1Hの文字歴史探訪です。

◆対談者
私達の城跡見学は元来曲輪の形を見学認識する世界。
今日見学した城が〇か?△?□か?それが一番重要!
城の形に見ずに城を語れば大変な誤解招く事もある。
明智光秀伝説の城を見学しても根本的に城の見方や
基礎を知らなければ間抜けな素人の串指見学ですよ!
例えば滋賀県米原市磯山城には二重堀切など絶対
に天地神明に誓って絶対ないと言う人が現実に磯山
城二重堀切を見て卒倒したこんな馬鹿な事が無いと!

◆対談者
馬鹿な事どころか磯野家が出版された『近江の磯野氏』
にもチヤンと二重堀切が描かれてる!一体本気で米原
学を指導する人がこの社会にいるのかと言う疑問です!
チヤンと堀を指導者に従い見る基本を怠っているわ!


◆長谷川
一般様は城に関する文字に関心がある=文字認識学
対談様は城の形状や遺跡に関心がある=形状認識学
一般様は文字=書
対談様は形状=図
街の中の「図書館」の「図書」の意味は形と字です。
ですから図書館に行く事は文字も図面も読む事です。

私が文献『信長公記』の講師をしたこれ文字派の人。
私が遺跡『城郭見学』の講師をしたこれ現地派の人。

そもそも両者が根本的に求めてる事や目的が違う。
前者は文字を読む事で歴史をイメージする印象派。
後者は城址を見検分し歴史を体験学習する現実派。
本当は肉も野菜も食べ、両者を備えた人が理想的。
文武両道と漢学では文武の道とよばれる周の治政。

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論の動画が好評です。
秀吉の天正大坂城のビイスタ論や、信長の天正
安土城の城郭ビイスタ論などもは稀代の城郭論
です戦前戦後を通し最も斬新で優れた城郭理論!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆一般物
私には根本的に全くピント来ない何故なのです?

◆長谷川
貴方はトランプゲームをしている、でもカード
の文字がハートかスペイドかダイヤかクロバー
か?全くその形状には興味がないタイプの人。

◆一般様
確かに形に全く関心や興味が基本的に全くない人
城は行くもの通過するもの行楽も古戦場も同じく
通過する事、古戦場に堀や土塁が何千箇所も残
つていようが遺跡には全く興味ない見る気も無い
合戦が本当にあったとは限らない遺跡じゃなくて
現実の戦闘が存在したのかさえ疑わしく感じます。

◆長谷川
貴方は戦争と戦闘を違い境界を再認識下さい。
英語で戦争はウオーであり戦備、物資、築城
戦略の全てを総称した総合戦争がウオーです。
一方英語のバトルは戦闘や実戦「たたかい」
を言います。巨大企業の工場が令和の各地に
存在林立した事が後世の人が工場遺跡を見学
して令和の大企業の工場では生産が無かった
とは言えません。確かに豊臣秀吉の文禄慶長
役における肥前名護屋城とその周囲に構築
された日本全国の諸大名達の陣屋を無視して
文禄慶長の役は無かったのだと断言できない。
九州内で戦闘は行われた記録は有りませんが
現実には韓半島では合戦が繰り広げられた事
そして肥前名護屋城周辺の遺跡こそ総合的な
合戦英語で言うところのウオーの総合戦略で
言う戦略的拠点基地と言うべきインフラ設備。
この事を忘れてはならないと思います。城址
は設備であり、インフラと呼ばれる施設です。
▼長谷川博美作画柴田勝家内中尾山城復元図


◆対談者
令和3年6月19日に見学予定の玄蕃尾城も
滋賀県60%福井県40%の元は内中尾山城
として歴史に登場する非常に巨大で驚くべき
柴田勝家の余呉之庄、柳ケ瀬表の合戦の巨大
インフラ「施設」そのものです。合戦を戦闘
のみで賤ケ岳のみに囚われているとこの巨大
なインフラ玄蕃尾城を貴方は歴史上から見落
す事になる!旧長浜市内の人々は、玄蕃尾城
の事など全く知らない他府県の城と誤解あの
壮大な合戦のインフラ設備を見落すべからず!

◆対談者
秀吉の天正大坂城のビイスタ理論、太閤秀吉の
肥前名護屋城のビイスタ理論に感服し感激です。
さて秀吉が関白として小田原征伐つまり後北条
氏の小田原城包囲網戦の時の秀吉の天正石垣山
一夜城も天下人の城としてビイスタ工法が存在
するのでしょうか?是非とも教示下さいませ!

▼滋賀県近江八幡市円山城鳥瞰図 長谷川博美
▼同じく放射状縄張検証図 長谷川博美図

◆長谷川
城郭ビイスタ論を軽軽に大衆受けする雑誌記事
の如く、信長、秀吉、織豊政権の一特徴だと安
易に定義づけしない学問の厳格さが大切だと私
は思います。世の中は大衆心理に迎合して得票
を獲得し選挙に当選で員数を確保した政治家が
真に善良で神聖で賢明な政治を執行する人格と
常に限らない世の中員数を確保した者こそ正論
で真理とは限らない。フアッシヨや統制も存在。
世の中に一般的には知られていない滋賀県近江
八幡市に所在する西条氏の城とされる全く無名
の地方小城郭「円山城」にも放射状縄張が現実
▼滋賀県近江八幡市円山城縄張図 長谷川博美

には存在します従って厳格慎重に学問は述べる
べきで元来日本には伝統的な放射状縄張が存在
したと言う根本や根源ルーツを学習して、行か
なと大きな誤解や誤謬や軽率な世俗の城郭論に
多くの社会の人が惑わされ、軽率な大衆誘導や
迎合という愚かな学問見解の窮地を招く原因や
遠因を招いてしまいます。寄らば大樹の陰とか
大船に乗った気分とか長い物には巻かれろ的な
風潮や、赤信号みんなで渡れば恐くない的発想
は学門や学術上の危険と危惧を伴います。自己
自我確立や冷静で客観的能力や自己確立が大切。

※寄らば大樹の陰とは?
よらばたいじゅのかげ 
寄らば大樹の陰とは、頼りにするのならば、
勢力のある者のほうが安心でき利益もある
と言うことの例え。

◆長谷川
天下人とは全く関係のないと思われる武蔵
杉山城の縄張りも是非再度検討しましよう。
幾つかの中世城郭としての測量起点と思わ
れる放射状縄張は読み取れると思いますが
此れを織豊政権が関わった城であるとは決
して言いませんが放射状の縄張が一部には
読み取る事が可能かと思います。

▼武蔵杉山城の放射状起点模索 長谷川博美掛線
▼武蔵杉山城の放射状起点模索 長谷川博美掛線

◆長谷川
また全く純然たる中世城館である武蔵比企郡の菅谷
館にも放射状起点を観察する事が出来る。滋賀近江
八幡の天下人の城とは関係のない円山城も再度見て
下さい。放射線縄張り技巧や測量方法は既に古くか
ら日本の土木建築に早くから潜在していた事かとな
と思います。研究は今後更に進展して行く事を期待
致します。城見る人が日本に増える事を期待します。







◆対談者
滋賀県には長谷川先生と言う素晴らしい本格的
城郭研究家がおられ出会えて本当に良かった。

◆一般者
そうですか?長谷川先生の城郭解説を何度も私
は受けたが私は全く感動も感激もピンと来ない。

◆対談者
人間を評価する時や学術を冷静に評価する場合
は学歴や肩書は別にし内容を吟味する事ですよ。
自分自身が城の形状に興味がある人間だと自分
自身が気付いた時、つまり自我に自覚覚醒した
時こそ長谷川先生の城郭見学は値千金と成り得
る根本的に城の形状に興味ない人は猫に小判よ!

◆長谷川
例えば大津市に野々口丹波城と言う城がありま
すが緻密な中世城郭の縄張や幾何学には驚愕を
致します。

▼一見平凡に見える中世城郭でも
▼入念に土塁の配置を計画して二重堀切も存在する。
▼緻密に虎口や矢倉台二重堀切など様々な防御施設を設定し
▼律然とした工学や測量や高度な設計と
計測の基に築城されています。城は機械。


▼石垣山一夜城について

◆フリー百科事典ウスッキペデイアによると
豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の
際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に
構築した。豊臣秀吉は北条氏の本拠であった小田
原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中で
あったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築
中は小田原城から見えないように築き、完成後に
周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜
にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘
意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。
一夜城の名もこれに由来する。 
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、
関東で最初に造られた総石垣の城であったとされ
る[1]。約3-4万人を動員し、4月から6月下旬まで
の80日で構築された(『小田原北条記』巻九の
記述では、4月1日から築かれたと記す)。6月初頭
に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が
出頭した際は未だ完成途上であったが、同地にいた
豊臣政権中枢に近しかった茶人で商人の千利休が
、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状
には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記
されており、6月26日に完成したとされている。
およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て
降伏を申し出ている。 秀吉はこの城で茶会を開いた
り、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは
不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣
に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて
現在もよく残っている。この城の縄張りを行った者
について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭
や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国の
名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者
すなわち黒田如水であったと推測している。 

コメント (2)
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天正大坂城 本丸の秘密!天守平面の秘密!

2021-05-06 06:31:28 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
https://youtu.be/i1CnB7XQwGk
城郭ビイスタ論 上文字クリック

秀吉の天正 大坂城本丸の秘密!天守平面の秘密!

◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が全国区で大変な
話題になっています!安土城ビイスタ構造論も凡そ
理解して、さあ天正大坂、おおざか城のビイスタ論
や放射線縄張り理論を是非とも再度御教示願いたい
です。放射線状縄張自体が城郭研究の重要項目です!

◆外部質問者
滋賀県長浜市木ノ本町に所在する天正11年期の羽柴
秀吉と秀長の陣城、近江田上山城には放射線設計や
放射線設計が存在したのか是非とも御教示下さい!

◆長谷川
ハイ本当に御城を見る事は観光客様には御気軽な
事かも知れませんが私は城址ハイキングを先天的
に楽しめない「先天性幾何学城郭少年」が基盤で
田上山城は数ヵ所の放射状縄張があると思います。
◆長谷川
しかし羽柴秀吉や羽柴秀吉とは凡庸な現代人
とは隔絶した才腕、才気、非凡な能力を持っ
人物で勿論竹中半兵衛や黒田官兵衛や様々な
才能を持っ優秀なブレーンやスタッフを抱え
ながら信長に仕へやがて天下を統一した傑物
です。私のようにボーツとした人格ではなく
特に秀長は書簡を見ても完璧な文体を残して
いる優れた人物。後に築城の名手と謳われる
藤堂高虎も既に秀長の陣営に属して築城術の
スキルアップ築城知識の習得に励んだ頃だと
思います。従って彼羽柴秀長の陣城が凡庸な
駄作の城郭では決してない複雑高度な測量と
と施工をなしていたと私は考えております。
その高い測量技術は必ずや天正大坂城築城
で羽柴政権豊臣政権で活かされた事かと思
います。
▼長谷川博美 羽柴秀長 近江田上山城図


◆質問者
秀吉が天正11年賤ケ岳合戦後に着手した天正大坂
城天守もビイスタ工法「放射状測量」を用いて放
射状に緻密に縄張されていますか?

◆長谷川
徳川家康の城大工だったの中井正清が大坂の陣の
直前に、家康の密命により、大坂城の絵図を作成
したという逸話がありますが、この大坂城図自体
が非常に正確に記録されている事は図面と一致す
る秀吉時代の地下石垣の発見検証でも証明されて
おります。では早速、天正豊臣大坂城天守の平面
構造や放射状設計「ビイスタ工法」が存在したか
図面で検証します大変奇妙な事に天守四角四面で
なく図A部の如く傾斜角度を持って設定してます。
それは田上山城でもE群の縄張に類似する台形櫓
で黒田官兵衛もこの縄張を用いる傾向にあります。
試論①

◆長谷川
北から見た長谷川掛線挿入天守付近の放射状縄張です。
天守自体の平面構造も放射状縄張に影響拘束されまし
て規則正しい正方形ではなく歪な台形である事に注目。
試論② 北から天正大坂城天守のビイスタ工法

▼試論④真北から天正大坂城天守のビイスタ工法

◆長谷川 二方向の天守の眺望も考慮した図
試論⑤西から天正大坂城天守のビイスタ工法


◆質問者
天守閣の角が直角90度でない歪平面に納得行きません!

▲彦根城全身建物図
◆長谷川
柔軟発想が願大切!昭和30年代に彦根城天守閣が
解体調査され彦根城全身建物は五階天守でしかも
その平面は歪な長方形と評価されています。古い
古様の天守は正方形とは限らないのです。それは
縄張という城郭基礎設計に強く起因するものです。
私も多数の中世城郭の天守に匹敵する大型の櫓台
を計測した経験が有りますがむしろ正方形の櫓台
の方が珍しいとも言えます。これは中世から継続
が繰り返された城郭縄張手法が正方形を基調とは
せずに多角測量や放射測量法に基準を置いた城郭
縄張の系譜やルーツとも言えると私は思います!

◆質問者
天下人となった秀吉の大坂城天守台が四角四面でない
事には納得行きません。そんなの建物が歪になります。

◆長谷川
安土城天主の天主礎石は方位に準じる設定ですね。
でも天主の外周石垣は全く正方形ではありません
これは城郭普請の縄張担当者と建築作事の建築物
設計者の担当が全く分離分業セパレートしている
事を意味します。普請奉行と作事奉行は役割担当
が別で異なります。安土城の八角平も内周と外周
の放射線状の石垣縄張設計を読みとる事が出来る。

◆大坂城天守の中芯点を中井家図から読み取れます?

◆長谷川
ビイスタ理論、放射縄張理論を応用すれば比較的簡単
に対角線理論から豊臣大坂城天守の中心軸が解ります。
◆長谷川
注意深く観察すると極楽橋や山里曲輪に降る階段の
近辺も異様に繊細な放射状縄張設定を用いています。

◆長谷川
本丸主殿は建物を美しく雁行アイウに配列して
なおかつ主殿と天守の両建物は互いにより美し
くより豪壮絢爛に見栄のする光背効果に優れた
調和を見せていた事でしょう。是を見た諸国の
大名は豊臣政権の到来を強く印象付けられた事
でしょう。表御殿も放射状縄張を用いて本丸の
前衛とした豪壮な城の表空間を形成しています。


▼大手より安土城のビイスタ構造線「長谷川博美論」
◆長谷川
まあ古来より国家を治める人物たる為政者達は
連絹として放射状縄張ビイスタや規矩術を用い
風水思想や方位学をも取り入れて自らの拠点を
構えた普遍的な事を人類とは繰り返しています。
▼纏向宮殿遺跡「奈良大和」古代倭人の宮殿跡。



▼安土城放射状縄張設計理論図「長谷川博美図」

◆長谷川
徳川家城大工中井家に伝わる天正大坂城の平面
構造を持つとされる絵図面見れば城郭通の貴方
ならば一目瞭然に即刻的確に解る事でしょう?

◆対談者
自称城郭通を自負しているのですけど図面見て
も何が何やら全く解らないと言うのが一般社会
人の本音と言うもの長谷川先生ならば、スラリ
と解説解明されると私は思って質問致します!
何しろ城郭金田一耕介と言われる長谷川先生!
ズバリ!ドスーンと飄々と解説されると思う!

◆長谷川
大坂城の中芯から門、石垣、横矢、水堀、空堀の形状
全て〇の印のある測量経線を通し、見通して、つまり
展望し測量しビイスタ線がある。城を研究している人
なら誰でも簡単に即刻簡単に読み解け分析解説できる。

◆みんな
長谷川先生自分で自身を過小評価しないで下さい!
元『滋賀県中世城郭分布調査』で数多く山城の図面
を描いて来られた先生の現地城郭構造解説が如何に
凄いか?如何に特殊な能力か?日本中の人々そして
安易な自称お城好きの人に全く理解出来ない事かと
思います。私達「みんな」は世間から何と言われよ
うが、長谷川先生の城郭解説は真心や誠実が基準に
成立っている。遺構現実に則り「のとり」解説する。
先生の城址解説見学会を慕い参加する人達がようや
く先生の本当の実力に気付き始めた!天正大坂城
主要部ビイスタ線の卓抜かつ類稀な解説!一体戦前
戦後のどれだけ著名な城郭の先生も全く気付いては
いない。解説し得なかった事です!長谷川先生だけ
がまるでコロンブスの卵の様にサラリ何気なく天正
大坂城のビイスタ構造をいとも簡単に謎を解いて述
べる事自体が我々は度胆を抜かれ衝撃を禁じ得ない!
太閤の縄張を理解して洞察するには並の研究家の力量
では所詮無理です。既に秀吉の築城技術は藤吉郎時代
に既に開花したと長谷川門下は「みんな」思ってる。
◆長谷川
この作業は素人の人が武田勝頼の新府城に放射状
の縄張りが有るのか?武田流の枡形や馬出に掛線
を入れておられる訳ですよ。何故武田の枡形が広
がっているのか?本当に丸馬出なのか検証してい
る写真です。言って置きますが、この写真の意味
は城郭通と豪語する専門家の常識や見解を根底か
らくつがえす全く新しい城郭研究の新分野です!


◆対談者
長谷川城郭塾の特徴、つまり長谷川先生の城郭遺跡
指導は純粋ピュアーな精神の初心者を指導する事で
城郭縄張の奥の院や奥義、深奥、深淵にまで城郭に
対する理解力を高めてくれる初心者こそが城郭遺跡
の深奥を極められるという謙虚な精神性に立脚した
学門的深さが存在すると思う。その精神性こそ重要。

◆みんな
そうそう、自分は100回城郭講演に参加した。自分
は100城、200城全国の城を見学した城郭ベテラン
であると自負する心には必ず驕慢や悪い意味での
自尊自慢が発生し城郭構造を初心にもう一度帰り
考え直す、原点回帰の向学心を喪失する事がある。
だから私は有名観光城郭、メジヤーな城郭だから
見学に行くと言う発想自体、ミハー的観光的発想
だと思います。有名無名に関係ない冷静に城郭の
構造を客観的に冷静に如何に比較研究考察できる
かが城郭見学者と城郭を娯楽や快楽原則として捉
える大衆城郭娯楽の城郭ブーム流行との差異です。

◆気付様
長谷川先生Bの空堀の場所が歪「いびつ」です!
何故なのでしょうか?城郭の金田一耕介ならば
縄張の魔術師ならばサラリと解説だけの軽々と
解説してのける本当の本物の力量と実力がある!

◆長谷川
●1●2●3●4の貫く放射状縄張「ビイスタ」工法です!



◆みんな
流石先生!スゴイ!人間国宝に認定だ!(爆笑)
竹中半兵衛や黒田官兵衛と同じ力量と眼力だ!
▼長谷川 大坂城 掛線挿入図


◆長谷川
 私をスゴイと思わないで下さい!当該ポイント
を指摘できる「みんな」つまり、私の城見学に
参加した全くの素人さん達が参加する度に日々
城郭を見る力、城郭見学力の力量がアップした
スキルアップした事です。城を勉強する場合は
人間である長谷川を尊敬尊崇する事は忌避して
欲しいのです。城の本当の先生や根本って何?
それは教える立場の人でない、城を真剣に見る
各自の心、野球で空振りする人は球を見てない。
城を見誤る人は城を見てない。単純な話ですが
城は物、人間を尊崇する行為よりも、貴方自身
が本当に城自体を現場の城自体を深く看破観察
する人間へと成長される事を私は老婆心ながら
謹みて希望致します。城を見る事の大切さです。

◆長谷川
他にも5●多聞櫓横矢
や6●曲折階段の横矢
7●の舟入口の入隅や
8●の横矢
また9●の隅櫓
10●の帯郭地下道
11●の土橋起点
12●横矢
13●横矢歪線
14●空堀起点
等の放射状幾何学配列や設計が読み取れます。

◆反論者
そんなバカな?城って、甘い菓子食べたり、
美味しい御弁当食べたり、城グッズ買った
り城を楽しむ事が城郭本来の楽しみや娯楽
であり城郭の本道で娯楽の殿堂城の基礎だ。

◆みんな
チョツと勘違いなさらないで下さいませ?
この投稿は「城まつり」や「城観光」また
「城旅行」と別の分野の城研究の世界です!
あなたの「城楽しい」と私達の「城愉しい」
は全く別の分野の世界で別分野でしようが?


◆特別質問
中井家大坂城図には土橋が描かれてます。
岐阜県大垣市垂井町の昼飯大塚古墳発掘
でも前方部に土橋が検出されていますが
大坂城は古代摂津の大王級クラスの前方
後円墳が起源と言う説も聞いた事があり
ますが?▼大垣市垂井町の昼飯大塚古墳

◆長谷川
現在私達見ている石垣は徳川秀忠によるもの
地下に眠る三段石垣は豊臣秀吉時代のもので
更に研究発掘が地下へ進捗すれば石山本願の
御堂の遺構や更に古代の摂津に君臨した大王
「おおきみ」クラスの大型前方後円墳の葺石
や古墳周囲に並べられた円筒埴輪破片等が地下
より出土すれば更に大坂石山の歴史価値が深ま
るかもしれませんね?



▼虎御前山城 伝木下藤吉郎陣跡
▼虎御前山城 伝木下藤吉郎陣跡 放射状縄張の模索




◆米原市住民様
私達、伊吹、山東、近江、米原は合併して米原市
になったのですが歴史城郭研究家、長谷川先生の
事は、全く知らなかったのです。しかし県外記事
ブログを見ていると長谷川先生は東海地方の講演
に登場しNHK名古屋文化センターで長年『信長
公記』の講師そして関西の大看板関西城郭研究会
でも2回も講演されている先生だとは全く知ずに
最近気付いた訳です米原在住の有識者の某先生が
長谷川先生が埋もれていたままでは真のに残念と
米原公民館の歴史民俗学と城郭の講師として強く
推薦された言う経緯がある訳ですよ。

◆長谷川
真に恐れ入ります。私は元より不遇の浪人です
以下日程で米原公民館様で隔月連続講座を謹み
担当させて頂く事になりました。彦根、米原、
長浜、近隣の方には宜しく御願いを致します。
また東海、近畿、北陸の結節点である米原駅
西口から徒歩約5分と言う利便の地に米原公民
館様は存在します。重ねて宜しく御願いを申し
上げます。


◆一般者
長谷川先生の米原公民館の講座を御案内下さい!

滋賀民俗学会 理事 長谷川博美 
米原公民館連続講座

〒521-0016
米原市下多良三丁目3番地
連絡先
電話番号 0749-52-2240
公民館様より
長谷川先生以下の日程で歴史民俗学の講座講師
を御願いする予定です。開講人数も、集まって
おられます。追加参加者様が有れば受付します。
先生には城郭だけに限定せず民俗学や歴史地理
も含め活かした楽しい参加者自身が考える米原
学の推進を是非お願います。

滋賀民俗学会理事 長谷川博美 連続講座

講座タイトル
『お城造りから見るお城と人物伝』
各回参加費500円を公民館で徴収
資料は現実受講される人のみ限定

令和3年2021年
1 5月27日木曜 10時~11時 3A研修室
2 7月29日木曜 10時~11時 3A研修室
3 9月30日木曜 10時~11時 3A研修室
4 11月25日木曜10時~11時 3A研修教室
令和4年
5 1月27日木曜10時~11時  3A研修室
6 3月24日木曜10時~11時  3A研修室

▼以下ウッデイパル城郭フオーラムチラシより


出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』より

中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年)
 - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸
時代初期の大工頭。大和国出身。中井正吉の子。
通称は藤右衛門。 
経歴[編集]初代の京都大工頭であり、官位は従五
位下・大和守。畿内・近江6カ国の大工等を支配
し、1,000石を知行した。関ヶ原の戦いの後、
徳川家康に作事方として仕え、二条城建設に
活躍した。家康の命による江戸城、知恩院、
駿府城の天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、
二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺
など、徳川家関係の重要な建築を担当した。大坂の
陣の直前に、家康の密命により、大坂城の絵図を
作成したという逸話がある[1]。 
天正17年(1589年)、徳川家康より200石の知行
を得る[2]。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで
家康の供を務めて陣羽織を拝領するとともに500石
の加増を受けた。慶長11年(1606年)従五位下大和
守に任官。慶長14年(1609年)1,000石に加増され、
慶長18年頃(1613年)には従四位下に昇進した。

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