伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

通夜

2019年12月21日 | 日記
 きょう、ある寺の住職のお通夜があった。もともとこちらの出身ではない父のお葬式で導師を務めてくださった方だった。若い頃からの知人でもあり、新聞でお悔やみ情報を見た時に驚きを覚えたことを思い出す。

 真宗大谷派による式は、独特の節をつけた読経で営まれる。導師を務める僧侶のもと、同派の僧侶と思われるが8人程の僧侶が息を合わせた読経が響く。その中、参列者の焼香が続いた。

 大谷派の式は、式後に導師による法話が行われる。
 導師は、生前の故人の取り組みにふれながら、これらでの故人との交わりの中で様々なものを授けられてきたと思うと語った。その語りの中で2つのエピソードが印象に残った。

 1つは故人はとても優しい人で、たくさんの「優しさ」を与えてくれたというお話に関わり、「優しさ」とは何かを解き明かしたお話だ。

 「優しい」の「優」は「にんべん」に「憂い(うれい)」。優しさには、悩みや心配事、気遣いといものが隠されている。
ある意味、ここは心の弱さということになるのかな。
 同時に「優しさ」には「強さ」も必要だと話した。その説明は、あまり記憶に残っていないのだが、たぶん悩みや心配事を解決するためには、心の強さが必要だという説明だったのではないかな・・。

 「優しさ」は、心の「弱さ」と「強さ」を知る人が発揮出来るものだという指摘はユニークだが、生前、故人がしていた法話を思い出すと、頷けるお話でもあった。

 もう1つは、「供養」の話だ。

 沙羅(シャラ)の木が2本立つ、その間に横たわるお釈迦様。その上に赤い花が散りつもり、降り積もり、赤い花は白い花に代わり咲き誇る花が散り積もる、天からはたぐいまれなる音楽が降り注ぐ。その情景にお釈迦様は、「私を本当に供養しようとするならば、このようなことではない」と語ったという。なぜか、お釈迦様は、彼の悟りを多くの人に伝え広め、理解してもらうときにはじめて本当の供養ができると語ったという。

 お釈迦様のようにえらい人でなくても、同じことがいえるのではないか。一時の豪奢な飾り付けでの見送りではなく、その人の生前の思いを受け止めて、後の世に活かすことができれば、その人自身が世に生き続けることになり、これほどにない供養になるのだろう。きょうお見送りをする故人の思いをつないでいこうという呼びかけだったのだろう。

 なるほどと思う。法話を心に刻んで、お見送りとしたい。
 故人のご冥福を祈ります。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿