講演会は基本的にいわき市文化センターで開かれており、今日も小会議室で15人程が聴講する中、講師の櫛田幸太郎さんが「野仏を訪ねて~石仏、如意輪(にょいりん)観音坐(座)像」と題して、自ら訪ねて記録した石仏や風習などの記録を写真で紹介した。
石仏には“三点セット”と呼べる、地蔵菩薩、観音菩薩、庚申塔+念仏講供養塔があり、信者の団体である「講」には男性が参加する庚申講など、女性が参加し数珠繰りを行う念仏講などがあるという。写真で紹介された石仏の多くは如意輪観音座像だが、他に各地の地蔵菩薩、庚申塔なども紹介した。
観音菩薩は、「一切衆生の願望を満たし、苦を救う」ものであり、六観音があるとされ、それぞれ、
聖(しょう)観音、
千手(せんじゅ)観音、
馬頭(ばとう)観音、
十一面観音、
如意輪観音、
不空羂索(ふくうけんじゃく)観音(天台宗の場合)、
准胝(じゅんでい)観音(真言宗の場合)と呼ばれ、
如意輪観音坐像の「如意」は思いのままにと思い通りにという意味があり、像は多くが右ひざを立て、6本の腕を持った姿をしているという。
訪ねた石仏のうち、袋田といったと思うが、そこで見かけた如意輪観音坐像に刻まれた文字や年号等から類推するには、座像は直前の天明の飢饉を乗り越えた19歳の女性が不幸にも亡くなり供養のために建てられたものと思われるという。
また、いわき市渡辺町にある如意輪観音坐像には「寛保三年創像」「乞雨祈願」「成就」の文字が刻まれ、渇水のため雨乞いをしたところ雨が降り、これに感謝して建立されたものと類推できるという。
紹介された各地の座像には、お顔の美しいもの、光背がある浮彫(彫りこんで石の表面に観音像を浮き立たせたもの)と丸彫り(この場合も光背を象徴するものが彫り込まれている)があるなど、各地の特徴が語られた。また、右ひざ達の姿は、古くのお産の姿勢がこの姿勢だったという説もあるという。
「講」についても語られ、念仏を唱えながら大きな数珠を回す「数珠繰り」が市内各地でも行われてきたものの、近年、後継者というか参加する住民が減少したことから中断している事例が多いという。地域の伝承が失われている現実、あるいは伝承されてきた数珠等が「お焚き上げ」などされ失われていく現実が「もったいないこと」と語られた。
男性の庚申の「講」では、60日に1度集まり夜通し飲み食いしたという。庚申は干支(えと)の一つで「こうしん」あるいは「かのえさる」等と読む。
調べると、干支の「干」は十干をさし、
甲(こう・きのえ)、
乙(おつ・きのと)、
丙(へい・ひのえ)、
丁(てい・ひのと)、
戊(ぼ・つちのえ)、
己(き・つちのと)、
庚(こう・かのえ)、
辛(しん・かのと)、
壬(じん・みずのえ)、
癸(き・みずのと)からなっており、
この元になる考えは、世の万物は木・火・土・金・水からなりそれぞれに陰と陽があるという陰陽五行説で、それぞれの漢字が5つの万物の元の陰あるいは陽を表現している。
また、干支の「支」は、お馴染みの
子(ね)、
丑(うし)、
寅(とら)、
卯(う)、
辰(たつ)、
巳(み)、
午(うま)、
未(ひつじ)、
申(さる)、
酉(とり)、
戌(いぬ)、
亥(い)で、
それぞれが草木の成長の各段階を表すという説があるらしい。一方、十二支は順序を表す単なる記号という指摘もある。
この十干と十二支の組み合わせが干支となるが、組み合わせは60通りあり、庚申は60日に一度めぐってくることになる。この日には腹の中にいるとされる三尸の虫(道教に由来するという)がいて、眠ると抜け出し、その人の罪悪を天帝に告げ口するとされる。このため、眠ってはならないとされ、夜通し飲み食いするのだという。
その実、その昔、農作業は休むことなく続けられており、この日は集まって飲み食いし疲れを癒していたのではないかと櫛田さんは語る。
この「講」が行われる際にも、部屋の中には「庚申」や「如意輪観音」等が描かれた「仏絵」(と言っていいのかな?)が掲示されており、伝えられているものには江戸時代や明治時代のものもあったという。
講演では、様々な地区にある野仏等が紹介されたわけだが、古くからある石仏は、存在そのものが絵になると同時に、そこにはその地域の様々な歴史が刻まれていることも分かった。野仏等にはその地区に住む人々の生活や歴史が刻まれている。まさに民俗学の一つの貴重な資料となるということが分かる。
講師の櫛田さんは、これらの野仏を紹介することで、地域の歴史に興味を持ち、造詣を深め、それぞれの地域の良さに自信を持とうということを呼びかけたのではないだろうか。私の住む遠野町を見ても、各地に野仏あるいは塔が散在している。そこに何が記されているのか、これからは関心をもって見ていきたいとも感じた。
石仏には“三点セット”と呼べる、地蔵菩薩、観音菩薩、庚申塔+念仏講供養塔があり、信者の団体である「講」には男性が参加する庚申講など、女性が参加し数珠繰りを行う念仏講などがあるという。写真で紹介された石仏の多くは如意輪観音座像だが、他に各地の地蔵菩薩、庚申塔なども紹介した。
観音菩薩は、「一切衆生の願望を満たし、苦を救う」ものであり、六観音があるとされ、それぞれ、
聖(しょう)観音、
千手(せんじゅ)観音、
馬頭(ばとう)観音、
十一面観音、
如意輪観音、
不空羂索(ふくうけんじゃく)観音(天台宗の場合)、
准胝(じゅんでい)観音(真言宗の場合)と呼ばれ、
如意輪観音坐像の「如意」は思いのままにと思い通りにという意味があり、像は多くが右ひざを立て、6本の腕を持った姿をしているという。
訪ねた石仏のうち、袋田といったと思うが、そこで見かけた如意輪観音坐像に刻まれた文字や年号等から類推するには、座像は直前の天明の飢饉を乗り越えた19歳の女性が不幸にも亡くなり供養のために建てられたものと思われるという。
また、いわき市渡辺町にある如意輪観音坐像には「寛保三年創像」「乞雨祈願」「成就」の文字が刻まれ、渇水のため雨乞いをしたところ雨が降り、これに感謝して建立されたものと類推できるという。
紹介された各地の座像には、お顔の美しいもの、光背がある浮彫(彫りこんで石の表面に観音像を浮き立たせたもの)と丸彫り(この場合も光背を象徴するものが彫り込まれている)があるなど、各地の特徴が語られた。また、右ひざ達の姿は、古くのお産の姿勢がこの姿勢だったという説もあるという。
「講」についても語られ、念仏を唱えながら大きな数珠を回す「数珠繰り」が市内各地でも行われてきたものの、近年、後継者というか参加する住民が減少したことから中断している事例が多いという。地域の伝承が失われている現実、あるいは伝承されてきた数珠等が「お焚き上げ」などされ失われていく現実が「もったいないこと」と語られた。
男性の庚申の「講」では、60日に1度集まり夜通し飲み食いしたという。庚申は干支(えと)の一つで「こうしん」あるいは「かのえさる」等と読む。
調べると、干支の「干」は十干をさし、
甲(こう・きのえ)、
乙(おつ・きのと)、
丙(へい・ひのえ)、
丁(てい・ひのと)、
戊(ぼ・つちのえ)、
己(き・つちのと)、
庚(こう・かのえ)、
辛(しん・かのと)、
壬(じん・みずのえ)、
癸(き・みずのと)からなっており、
この元になる考えは、世の万物は木・火・土・金・水からなりそれぞれに陰と陽があるという陰陽五行説で、それぞれの漢字が5つの万物の元の陰あるいは陽を表現している。
また、干支の「支」は、お馴染みの
子(ね)、
丑(うし)、
寅(とら)、
卯(う)、
辰(たつ)、
巳(み)、
午(うま)、
未(ひつじ)、
申(さる)、
酉(とり)、
戌(いぬ)、
亥(い)で、
それぞれが草木の成長の各段階を表すという説があるらしい。一方、十二支は順序を表す単なる記号という指摘もある。
この十干と十二支の組み合わせが干支となるが、組み合わせは60通りあり、庚申は60日に一度めぐってくることになる。この日には腹の中にいるとされる三尸の虫(道教に由来するという)がいて、眠ると抜け出し、その人の罪悪を天帝に告げ口するとされる。このため、眠ってはならないとされ、夜通し飲み食いするのだという。
その実、その昔、農作業は休むことなく続けられており、この日は集まって飲み食いし疲れを癒していたのではないかと櫛田さんは語る。
この「講」が行われる際にも、部屋の中には「庚申」や「如意輪観音」等が描かれた「仏絵」(と言っていいのかな?)が掲示されており、伝えられているものには江戸時代や明治時代のものもあったという。
講演では、様々な地区にある野仏等が紹介されたわけだが、古くからある石仏は、存在そのものが絵になると同時に、そこにはその地域の様々な歴史が刻まれていることも分かった。野仏等にはその地区に住む人々の生活や歴史が刻まれている。まさに民俗学の一つの貴重な資料となるということが分かる。
講師の櫛田さんは、これらの野仏を紹介することで、地域の歴史に興味を持ち、造詣を深め、それぞれの地域の良さに自信を持とうということを呼びかけたのではないだろうか。私の住む遠野町を見ても、各地に野仏あるいは塔が散在している。そこに何が記されているのか、これからは関心をもって見ていきたいとも感じた。
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