伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

議員だよりの記事を書きました

2017年07月26日 | 市政
 毎週発行する「議員だより」という、市議団が発行する広報紙に、この4年間の市政を振り返る記事を書くことになりました。だいたい5回の連載を考えています。

 第1回目は、4年前を振り返って公約に関する記事。市長選直後の論戦を振り返ってみました。



清水市政を考える1
公約


 293名(他に不明者37名)の命を奪い、建物を損壊させ街並みを破壊した地震と津波。大きな傷跡を残した東日本大震災から、どう復旧・復興するのかが問われた2013年9月の市長選挙から4年が過ぎました。新たに復旧・復興を担うことになった清水市長の市政を振り返り、市議団は市政に何を求めるのか、明らかにしていきたいと思います。

公約に責任持った論戦が必要



 「震災復興対応のスピードアップに全力投球」。

 震災と原発事故による放射性物質の拡散という、過去に例がない複合災害をもたらした東日本大震災。市民が災害から早く立ち直りたいという思いを強めている中で、清水市長が選挙で訴えた中心的な政策スローガンでした。前市長の下での震災後の取り組みを見直すという訴えに聞こえました。

 ところが選挙が終わって1カ月半後、この公約は大幅に見直されました。

 清水市長が市長として初めて迎えることになった2013年10月定例会でのことです。一般質問で、こんなやり取りがありました。

問 この間の復旧・復興の進捗状況について、市長はどのように評価しているのか。

清水市長 一部の取り組みで課題やおくれがあるものの、一歩一歩着実に復興の歩みを進めてきたものと考えております。

 スピードアップはどこかに消え、これまでの取り組みは「着実に復興の歩みを進めてきた」と、言をひるがえしてしまったのです。

 市長選挙は、震災と原発事故被害に苦しむ市民に、明日の展望を広げる大切な選挙でした。それだけに、市民の思いに応える政策論戦が期待されていました。

 なぜなら、震災後の行政の取り組みにあらぬ誤解が広がる中で、ややもすれば争点がずれかねない状況があったからです。



 代表的な誤解は、当時の現職市長は「震災後に逃げた」というものでした。

 被災から早く立ち直りたいという市民の思い。適正な手続きがあってはじめて動き出すことができるという行政。この間にあるスピード感の違いから生じるギャップに、「逃げた」という誤解が生まれる素地があったと思われます。

 「市長は逃げたんだってね」と住民に問われるたびに、「同僚議員は対策本部で毎日会っていたし、私自身も2日に1度は会っていた。逃げたなんてありえない」と事実を伝えても、決して信じてもらうことができない。それほど根深い誤解でした。

 その他にも、「支援物資が配られなかった」「市長がよその支援を断った」など様々な誤解が広がっていました。

 こうした状況でたたかわれた選挙で、初当選を果たした市長がわずか1カ月半の間に公約を撤回してしまう。これでは市政への信頼が揺らいでしまいます。

 公約撤回はこればかりではありませんでした。総合磐城共立病院の建て替え計画でも同様でした。

 清水市長は、総合磐城共立病院の建て替え計画は「経営形態を含めて再度検討する」としながら、ベッド数も「減らすことの是非を含め、新病院のあり方を検討する」としたのです。

 この公約は10月定例会前に撤回されました。提案理由説明で市長は、前市長の時に決まった県補助金を「有効活用して新病院建設に取り組むべきものと直ちに判断」して、経営形態もすでに決まっていた「地方公営企業法の全部適用を維持」するとしたのです。

 結局、主要な公約では前市長の施策が基本的に維持されることになりました。

 市民は、こうした状況をどう見ていたのでしょうか。

 市議団は、これら主要な争点での清水市長の公約はふさわしくないと考えていました。その立場から是正をはかる論戦をすすめようと考えていたのですが、まったく必要がない状況になってしまったのです。

 今年の2月定例会で、公約撤回の重みを問われた清水市長は答えました。

 公約は「目標」であり「実現に向けて取り組んできた」し、「個別事業を検討する際には、施策の優先順位等を総合的に勘案しながら、実施に当たっては、経過等を説明し、広く理解を得て実行してきた」。

 しかし、公約は読んで字のごとく、「公衆に対して約束すること」です。一方、「目標」は自らが達成すべき「目当て」にすぎず、約束とは全くの別物です。「約束」を破って良いと教える人は、どこにもいないのです。




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